8 霊の正体
驚きのあまり心臓が止まるかと思った。しばらくその女性の顔を見つめていた蓮花は、ようやく声を発する。
「あなたが、翆蘭さまだったなんて……」
蓮花が驚いたわけ。
それは、彼女こそ時折蓮花の前に姿を現し危機を救ってくれた、例の霊であったからだ。
「やっと、私の元に来てくれたわね。待っていたわ、蓮花」
「どうしてあたしの名前を? それに、あたしがこの後宮に来たことを知っていたの? 誰から聞いたの? ううん、なぜ翆蘭さまは魂を飛ばし生霊となってまで、あたしの前に何度も姿を見せたの?」
いくつもの質問が口から飛び出した。
翆蘭は静かに笑う。
「笙鈴の娘であるあなたなら、必ず気づいてくれると思ったから。さあ、こちらに来て、よく顔を見せて」
手を伸ばしてきた翆蘭の元へ蓮花は歩み寄る。いや、実は目の前にいる女性は本当は死人ではないか。
そう思うくらい、儚くて頼りなげな雰囲気だった。
「笙鈴に似ているわ。目元なんかとくに。会いたかった。笙鈴はどうしているの?」
蓮花の瞳が揺らいだ。
母が亡くなったことを知らないのだ。
「母は、亡くなりました」
翆蘭の目からつと、涙がこぼれ落ちる。
この人は、母のために泣いてくれているのだと思うと胸が苦しくなった。
「母は、翆蘭さまの侍女だったんですね」
「笙鈴はあなたに何も言わなかったのね。そう、笙鈴は私が幼い頃から仕えてくれた侍女だった。いいえ、侍女というよりは、妹のような存在。家族のように育ってきて、とても大切に思っていた。笙鈴には生まれつき特殊な力があって、その力のおかげで私は何度も助けられたわ」
「でも、今はこんな寂しいところに住んでいる。皇子殺しの濡れ衣を着せられて」
たとえ濡れ衣だったとしても、真実を証明できない限り、どうしようもないのだ。
「陛下の子を殺した罪は大罪。それでも、こうして生きているのだから私は笙鈴に守られてきたのだわ」
ふと、蓮花は翆蘭が縫っていた刺繍に視線を落とす。その刺繍は母と同じ技法であった。
「この刺繍の技法、母と似ている」
「ふふ、懐かしいわ。笙鈴は不器用な子で、よく刺繍を教えてあげたわ」
「母が不器用だったなんて信じられないです。母の刺繍は繊細で美しいってみなから褒められていました」
「上達したのね」
翆蘭は遠い過去を懐かしむかのように、遠くを見やる。
「笙鈴には幸せになって欲しかった。罪人の一族として、屋敷に仕えていた者たちはみな処刑された。けれど、私は笙鈴だけはなんとしてでも逃げて生きて欲しいと思った。笙鈴はね、嫁ぐ予定だったの。だから、私は彼女の夫となる人に笙鈴を託し、逃がした」
それが父だった。
「笙鈴は当時の事件のことを知る唯一の侍女。氷妃は笙鈴の口から己の企みをばらされることを恐れ、必死になって逃げた笙鈴を探し、口封じのために殺そうとした」
両親を殺した刺客は氷妃の手の者だったのか。だから、あの時の刺客たちは父も母も娘である私も、全員殺せと言ったのだ。
「その話が本当なら、どうして今になって母の居場所を知ったのでしょう?」
「氷妃が配下の者に命じ、笙鈴の行方を捜していたのでしょう」
だが、逃げた侍女一人を見つけ出すのはそう簡単なことではない。しかし、笙鈴には普通の者にはない特別な力がある。
霊能力だ。
もし、その力が他人に知られていたら、噂が広がるはず。その噂を頼りに探し出せば、彼女を見つけることは容易いと思った。
蓮花ははっとなった。
さっと血の気が引いていくのを感じた。
母がしつこいくらい、自分の能力を他人に知られてはいけないと言っていたのはこのことだった。
母が病気になり、白蓮の町で占いを始めた蓮花の腕前は瞬く間に広がっていった。
蓮花の力を頼りに、遠方からやって来る客もいた。
「あたし、町にやって来た二人組の女に母の名前を尋ねられたんです。母の能力を褒めてくれたから、嬉しくなって」
蓮花はその時の記憶をたどる。
『そう、お母さまは有名な霊能力者だったのかしら。お母様のお名前を伺っても?』
『笙鈴といいます』
『そう、笙鈴さん』
能力を褒められ、つい母のことを口にした。
自分の力は母譲りだと。
そして、母の名前を告げた。
あの二人組の女は、母のことを探っていたのだ。そして、その日の夜、黒装束の男たちが家にやって来て、両親を殺した。
両親が殺されたのは、あたしのせいだった。
能力を隠しなさい、みんなに知られてはいけないといつも母に言われていたのに、あたしは銀子を稼ぐために能力を使って占いをし、評判になったと調子に乗って浮かれていた。
蓮花はへなへなとその場に崩れた。
全部あたしのせい。
母は氷妃の追っ手から逃れるため、ひっそりと暮らしていた。その幸せを壊してしまったのはあたしだった。
あたしがいい気なって霊能者の仕事をしていたから。
それで噂を聞きつけ氷妃の手の者がやって来た。
「蓮花、自分を責めてはいけないわ」
蓮花の手に翆蘭の手が重ねられた。
冷たい手であった。
「母は殺されました。あたしのせいなんです。ごめんなさい」
涙をこぼす蓮花の頬に、翆蘭の手が触れた。
「でも、あなたはこうしてここにいる。きっと笙鈴の導きね」
「こんな寂しいところで暮らしていて、翆蘭さま辛くはないのですか?」
翆蘭はにこりと微笑んだ。
「むしろ、今は穏やかな気持ちよ」
「だって、翆蘭さんは陛下の本当のお母さんなのでしょう?」
本来なら赦鶯陛下の生母であるこの女性が、後宮でもっとも尊い身分であるはずなのに。
「冷宮にいる私が、陛下の母であってはいけないの。あの子は皇太后さまに可愛がられ、この国の皇帝として国を治めている」
子どもが無事でいるなら、母親の自分はつらい境遇に落ちてもかまわない。
「そんな……」
翆蘭が咳き込んだ。ずっと、こんな寂しく暗い所に閉じ込められて身体の具合もあまりよくないのだろう。
「恵医師、お願い翆蘭さんを診てあげて」
すかさず恵医師は翆蘭の元に膝をつき、脈を診始めた。
「息切れやだるさ、足のむくみ、めまい、失神がありますね。徐脈の症状がみられます」
徐脈とは不整脈のことだ。
そのせいで、必要な酸素を体中に行き渡らせることができず、めまいや息切れといった症状を起こす。
「薬を処方しますが、このままこの生活が続くようであれば……」
「ありがとう。気をつけるわ。お礼をしたいのだけれど私には何もないわ」
「心配ありません。病に苦しむ者を助けるのが私の仕事ですから」
恵医師の言葉に、翆蘭はもう一度ありがとうと繰り返す。
「もう一つ教えて欲しいことがあるの」
「なんでしょう、翆蘭さま」
「氷妃には先帝との間に一人子がいたけれど、その子は今はどうしているのかしら」
「え? 子ども? それは初めて聞きましたが、名前は分かりますか?」
「ええ、その子の名は――」
翆蘭の口から出たその名に、蓮花は愕然とする。
蓮花と恵医師は、冷宮の門を出ると振り返った。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いです」
蓮花の顔は蒼白であった。
手の震えが止まらない。去り際、翆蘭から聞いた真実に耳を疑った。
いまだに信じられない。
「恵医師は、どう思う?」
問われて恵医師はいったん言葉を飲み、そして答える。
「私は私の思ったことを信じます。だから、蓮花さんも蓮花さんの心に思ったことを信じればよいのでは。翆蘭さまも同じ事を仰っていました」
帰り際、翆蘭は蓮花にこう言った。
『後宮は偽りだらけよ。自分の信じたものを信じなさい』
そうね、と蓮花は冷宮を見上げ、そう答えた。
「蓮花、探したぞ。どこに行っていたんだ?」
冷宮を出て永明宮に戻る途中で、一颯に呼び止められた。
この広い宮廷で、こうも何度も一颯に会うとは、この男はもしやあたしのことを見張っているのでは、と疑いたくなる。
「別に、どこだっていいじゃない」
一颯は周りをきょろきょろと見渡した。
「今日はおまえ一人か? 仲の良い凜妃はいないのか?」
「凜妃さまは突然、体調を崩して自分の宮で療養中。皇后さまの所にも来てない」
「風邪でもひいたのか?」
蓮花はさあ、と答え歩き出す。
いつもと違う、蓮花の素っ気ない態度に訝しみつつも、一颯はすぐににこやかに笑い、いつものように蓮花に菓子の入った包みを差し出した。
「今日もおまえの好きな菓子を持ってきたぞ。なんだと思う? 氷糖葫芦だ。食べてみたいと前に言っていただろう」
氷糖葫芦とは山査子の実を串刺しにし、砂糖でコーティングしたものである。
山査子の酸っぱさと砂糖の甘さが程よく合わさった、都で人気のおやつだ。
見た目も可愛いので映えるといって若い娘に評判がいい。
いつもなら、喜んで菓子を受け取る蓮花だが、しかし今日は違った。一颯の手のひらに載った菓子の包みをしばし見つめ、次に一颯の顔を見上げる。
「どうしたのだ? もしかして侍女頭に叱られたのか? おまえはそそっかしいからな」
「余計なお世話」
さすがに、蓮花の機嫌が悪いと悟った一颯は、不可解そうに首を傾げる。
「そんなことより、あたしの両親を殺した奴らのこと、何か分かったの?」
「いや、まだ」
「まだ? 実は探してないんじゃない? あるいは、探したくない理由があるとか?」
「なぜそんなことを言う?」
「さあね!」
「機嫌が悪いようだな。とにかく甘いものでも食べて……」
「子どもじゃあるまいし、そんなんでつられたりしないから!」
怒鳴りつけて蓮花は氷糖葫芦の串を一本掴み、一颯の口に突っ込んだ。そして、ふんと背を向け永明宮へと走って行く。
「どうしたのだ、あいつ? あ、これ、けっこううまいな」




