5 どうしてあたしがこいつをなだめなきゃならないの!
凌家の屋敷に到着し、馬から下りるとすぐに門をくぐる。
皇帝の玉佩をこれでもかとかざしただけで、余計な説明をすることもなく屋敷を通れた。
「一颯はどこ!」
側にいた侍女の腕をむずりと掴んで、一颯の居場所を聞き出す。
「え、蓮花さん? なんでここに? 若さまでしたらお部屋に」
礼も言うのもそこそこに、一颯の部屋に飛び込むと、今まさに短剣で胸を突こうとしている一颯の姿があった。そして、それを必死の形相で止めようとしている立派なあごひげをはやした壮年の男。
ちなみにこちらの男は、誰だか知らないが幽体だ。
いや、一颯の父君の顔に似ている気がする。
「一颯!」
と、叫んで蓮花は自害を止めるべく、一颯の腕にしがみつく。
「何をする!」
「それはこっちのセリフ!」
「離せ!」
「離さない!」
武人の力にはかなわないと思った蓮花は、剣を持つ一颯の腕に齧りついた。それも遠慮なく、思いっきりと。
「痛い!」
情けない悲鳴をあげる一颯の手から、剣が落ちた。
その剣を蓮花は足先で蹴る。すぐに剣を従者が拾い、持ち去った。
一颯はうなだれてその場に座り込む。
「僕は陛下を守るよう、幼い頃から父上に言い聞かされてきた。なのに、その陛下を危険な目にあわせてしまった。これでは父上に申し訳がたたない。死んで詫びをしなければ!」
「バカ言わないで! そのあんたの死んだ父さんが、死ぬなって言ってんの」
「父上はまだ生きている。おまえも屋敷にいた時に会っただろう」
「でも、ここにいる! あんたの側にいて、必死であんたのことを止めているんだけど、じゃあこの人誰? あんたの父君に似ているわよ」
「ならば、祖父かもしれない。父は祖父と顔が似ている」
誰だか知らない壮年の男の幽体は、どうやら一颯のお祖父さまだったようだ。
一颯ははっとなり、右を向きひざまずいた。
「お祖父さま!」
「そっちじゃない。反対」
指摘され、一颯は左に向き直る。
「お祖父様、申し訳ございません! 僕は取り返しのつかないことをした。陛下を守り切れず、危険な目にあわせた。僕は凌家の恥です。死んでお詫びいたします」
「もう本当に頑固な人ね。だからあんたのお祖父さまが生きろって言ってんの!」
「だが、僕にはお祖父さまの姿も声すらも聞こえない」
蓮花はやれやれと肩をすくめる。
確かに視えない人に何を言っても説得力はない。
こうなったらあれをやるしかないってことね。
蓮花は一颯の隣に立つ壮年の男の正面に立つ。
「あたしの身体に入ってきて。そしてあんたのおバカな孫に言い聞かせてやって」
「バカ……?」
一颯の祖父の姿がすっと蓮花と重なった。次の瞬間、蓮花の顔つきが変わった。
蓮花は充血した目をかっと見開いた。
「一颯、その情けない姿はなんだ!」
声を荒らげ、蓮花は一颯の胸に指を突きつけた。
「蓮花?」
「誰が蓮花だ! わしはおまえの祖父だ。分からんのか!」
「いや、蓮花……こんなときに冗談はやめてくれ。さすがの僕も怒る……がっ!」
「ばかもの!」
と、蓮花の鋭いこぶしが一颯の頬にめりこんだ。
「が……っ」
殴られた一颯は後方に飛び、ついたてに背を打ちその場に崩れ落ちる。
蓮花は腰に手をあて、鋭い眼光で一颯を見下ろし、ないあごひげを手でなでつける。
「お、お祖父さま……」
口の端からつっ、と血が流れ、一颯は手の甲で唇を拭った。
祖父が存命の頃は、景国の猛将と呼ばれていた武人だ。歳をとってもその力は健在。こぶし一発で一颯を黙らせた。
扉のかげで、屋敷の者たちがこの様子を窺っている。
はたから見れば、か弱い少女が、立派な体格の男を殴り飛ばしたのだから、みな、がくがくと震えていた。
「まったく情けない姿を見せおって! それでも凌家の将来を背負って立つ長子か! いつまでそこに座り込んでいる。早く立て!」
「ほ、本当にお祖父さまなのですか?」
「おまえの祖父以外、誰に見えるというのだ」
「いや……」
どこからどう見ても蓮花にしか見えない、と一颯は口の中でごにょごにょと口ごもる。しかし、あのこぶしの鋭さと重さは、まぎれもなく、まだ若く血気盛んな頃の祖父のものであった。
蓮花はいや、一颯の祖父は腕を組み緩く首を振る。
「わしにはおまえと雲嵐、二人の孫を授かった。だが、雲嵐は幼い頃に病で死に、そのため、おまえにはずいぶん厳しくしてきた。だが、それも凌家の長子として立派に家を盛りたてて欲しいと思ったため。わしは本当におまえのことを大切な孫だと」
「お祖父さま……本当にお祖父さまなのですね……」
蓮花の口から亡くなった兄の名前が出たことで信じたようだ。
目の前にいる人物はまぎれもなく蓮花の身体に憑依した祖父だと。
兄がいたことは蓮花には話していない。これは一部の者しか知らないこと。
一颯はその場にひざまずく。
「申し訳ございません! 僕が間違っていました!」
蓮花は腕を組み、一颯を見下ろした。
「己のやるべきことを全うせずに命を絶とうとなどという甘ったれた考えは捨てよ」
「はい! お祖父さまのお言葉、しかと肝に銘じます!」
「それならばよい。これからも皇帝陛下にお仕えせよ。わしはいつでもおまえのことを見守っているぞ」
「はい! 二度とこのような愚行はいたしません。二度と!」
一颯は蓮花の足元にすがりつき、ひたいをすりつけた。
「うむ! さすがわしの自慢の孫。期待しておるぞ」
蓮花は一颯の肩にぽんと手を置いた。
期待しておるぞ。
期待して……おるぞ――おるぞ……。
「はい! お祖父さま」
そこで、蓮花と一颯は我に返る。
「ちょ、ちょっと! 人の足元にすがりついて何してんのよ!」
一颯も、しがみつくように蓮花の足に抱きついたことに気づき、慌てて身を起こす。
ちらりと戸口を見ると、明らかにみんなが引いていた。
一颯はわざとらしくこほんと咳払いをする。
「すまない」
「で、どうするか気持ちは決まった?」
「むろん。陛下暗殺をたくらんだ奴を見つけこの手で捕らえる」
「そう、それならよかった。それで陛下を襲った人物の見当はつく?」
「いや」
「あたしが陛下の元に駆けつけた時、陛下は矢で打たれ馬から落ち倒れていた。さらに、陛下を殺害しようと黒装束を着た男とおぼしき人物が立っていた」
「黒装束の男だと?」
「誰かが矢を打って陛下を落馬させ、その男がとどめを刺そうとしたのかもしれない。それと、これを見て」
蓮花は懐から、陛下が倒れていた現場で拾ったものを一颯に見せた。
「この玉佩が落ちていた。黒装束の男が落としたものかどうか分からないけど、見覚えある?」
玉佩を手に取った一颯は眉根を寄せる。
「羊脂白玉の玉佩。これは、景貴妃の兄、楽斗将軍のものだ」
「陛下は景貴妃の兄に殺されかけたってこと? じゃあ、黒装束は楽斗将軍?」
「いや、楽斗将軍は僕よりも後方にいた。それは間違いない」
「どうして陛下は命を狙われたの?」
「単純に考えるなら、何者かが玉座を狙っているということだろう」
いったい、陛下を殺そうとしたのは誰? 陛下を殺して誰が徳をする?
なんだか、ますます踏み込んではいけない、泥沼のような深みにはまっていきそうだ。
「ところで蓮花、おまえの両親を殺した奴のことなんだが」
「何か分かったの?」
「あの日の夕方、白蓮の町で、見かけない黒い衣を着た数名の男たちの姿を見たと、町の者が言っていた」
「そいつらが両親を殺した犯人?」
一颯は部屋の外に誰もいないことを確認し、声をひそめる。
「内密に調べたいことがあったから、今までおまえにも黙っていたが、おまえの家に駆けつけ敵と対峙した時に感じた。あれはただの賊ではない。奴らは訓練されたプロの刺客。あるいは殺しに手慣れた者。その証拠に、家の物には何も手をつけなかっただろ?」
確かにそうだった。家は荒らされた形跡はなかった。わずかな金目のものすら奪われることなく残されていた。
「でも、どうしてプロの殺し屋があたしの家を、両親を襲った……」
はっ、と蓮花は息を飲む。手が震えた。今頃になって重要なことを思い出す。
「あたし、たった今思い出した。あの時、両親を殺した奴らはこう言っていた『全員殺せとの命令だ』って。いったい、誰の命令だというの? 母も父も誰に殺されたの?」
一颯は深刻な顔で腕を組む。
「他に何か思いついたことや、変わったことは? 思い出してくれ」
何も、と首を振りかけた蓮花だが、何かを思い出したようにあっ、と声をあげた。そして、その時の状況を思い出すように、遠くに視線をさまよわせる。
「あたし、白蓮の町で占いの商売をしているの。あの日やたら羽振りのいい客が訪れたっけ。身分の高そうな夫人と、その側仕えらしき女」
「何か聞かれたのか?」
「おかしな相談をされたけど、あたしの能力のことを褒めてくれた。そうしたら聞かれたの……母の名前を」
「母親の名前? それでおまえの母親の名は?」
「答えたわ。母の名前は笙鈴って」
「笙鈴……」
一颯は小声で呟いた。
そこで、蓮花は初めて一颯と出会った時のことを思い出す。確か、一颯も笙鈴という名の女を知らないかと聞いてきたではないか。
思えば、どうして一颯が母の名前を? なぜ、母を探していた?
あの時は余計なことに巻き込まれたくないから、知らないと答えてしまった。
頭が混乱してきた。
そういえば、皇太后も母の名前を聞いてきた。そして、名前を聞いた途端、顔色を変えた。さらに、さっきも陛下が母の形見の数珠を見たことがあると言っていた。
母はいったい何者だったの?
側に立つ一颯が、厳しい目でこちらを見下ろしていたことに、蓮花は気づかなかった。




