2 倒れた皇帝陛下
季節は移り、毎年行われる皇室伝統、秋の狩りの日が開催された。
この日は、皇室の狩り場で皇族や臣下がいっせいに集まり狩りを楽しむのだ。楽しむといっても秋狩りはただの遊びではない。
参加する者は日頃の鍛錬の成果をみなに披露し、狩りでの活躍によって皇帝に覚えめでたい存在となるという意図もある。もちろん、活躍した者には褒美も与えられる。
「一番大きな獲物を捕らえた者に、褒美をとらすぞ」
「陛下、あちらに鹿の姿が見えました。追いましょう!」
側近たちを引き連れた赦鶯陛下の言葉を合図に、狩りが始まった。みな、意気揚々と歓声をあげ、いっせいに馬を駆る。
「陛下、お待ちください! 一人で行動されてはなりません!」
従者や太監、御前侍衛たちは慌てて陛下の後を追う。妃嬪たちは張られた天幕の下で狩りの無事を祈り、男たちが馬を駆って行く姿を見守った。
赦鶯の馬は周りの者を引きはがし、みるみる遠ざかって行き、瞬く間に森の中へと入って行く。
「さすが、陛下自慢の愛馬は速いですな」
「いやいや、これは馬の速さではなく、狩りの技術を競うもの。我々も参りましょう」
狩りに参加する男たちも、赦鶯陛下の後を追い馬を駆った。
男たちが狩りをするのを、妃嬪たちは天幕の下で見守るのだ。
その中に蓮花の姿もあった。
蓮花は一人遠ざかっていく赦鶯陛下を見て、ちっと舌打ちを鳴らし立ち上がった。舌打ちとは妃にあるまじき行為に、顔をしかめ睨んでくる妃嬪もいた。
「品のないこと。これだから田舎娘は土臭い」
手にした手巾を鼻先にあて、景貴妃が嫌味を浴びせかけてくる。が、相手にはしない。
ていうか、それどころではないのだ。
先日、狩りの場で、赦鶯が矢に打たれるという未来を予知した。
自分が視たものが現実に起こるとは限らないと願いたいところだが、残念なことに、予知が今のところ外れたことはない。
間違いなくこの狩りで何かが起きる。陛下の命に関わるようなことが。
「まったく! 馬、借りるよ」
近くにとめていた従者の馬に乗り、蓮花は皇帝の後を追った。
「蓮花さま、お待ちを!」
蓮花つきの太監があたふたと慌てる。そうこうするうちに、蓮花の馬も瞬く間に遠ざかって行く。
まさか、蓮花が馬に乗れるとは太監も侍女も思っていなかったようで、ぽかんと口を開けその場に立ち尽くしていた。
いったいどこに行ったの!
鬱蒼とした森の中を見渡し、蓮花は赦鶯の姿を探した。同じく、遠くで陛下を呼ぶ臣下たちの声も聞こえた。その時、馬のいななく声に蓮花は馬をとめる。そして、次に明らかに赦鶯のものと思われる叫び声。
近い。
あっちの方向!
蓮花は声が聞こえた方へ、馬を巡らせた。
しばらく走ると、陛下の乗っていた愛馬が見えた。さらに、陛下が地面に尻をつき、側の木の幹に背を預けるようにして座り込んでいる。
右腕を押さえている。そこから血があふれ衣を赤く濡らしていた。
蓮花は表情を強ばらせた。
陛下の前に黒装束の男とおぼしき者が剣を手に立っていた。その剣先から血がしたたり落ちている。
相手の顔は、はっきりと分からない。頭巾を目深にかぶり、口元も黒い布で覆われている。
刺客か。
敵はわずかに前屈みの格好で剣をかまえ、陛下の命をとろうと隙を狙っている。
「陛下!」
叫ぶと同時に馬から飛び降りた蓮花は、刺客から赦鶯を守るように両腕を広げる。
突然現れたのが非力な女、ならば恐れることはないと思ったのか、刺客の目がにたりと笑ったのが分かった。
「蓮花、逃げろ……」
後ろで赦鶯の苦しげな声が聞こえてきた。両腕を広げたまま、ちらりと肩越しに背後を見る。
赦鶯は脇腹を押さえていた。
怪我をしたのは腕だけではなかったのだ。
「その傷はどうしたの!」
「腕は矢がかすっただけだ……問題ない」
では、脇腹の傷は目の前の刺客に斬られた。
「そんな真っ青な顔して問題ないって……」
毒だ……鏃か剣、あるいは両方に毒が塗られていたのだ。だとしたら、早く手当と解毒剤を飲ませなければ命にかかわる。
目の前の刺客がじりじりと迫ってくる。
「蓮花、私のことはいい。早く逃げるのだっ!」
逃げろと、背後にいる赦鶯が背中を押してくる。しかし、その手に力が入っていない。
「誰か来て! 陛下はここよ!」
助けを求め、蓮花は叫ぶ。
遠くで陛下を探す男たちの声が聞こえるが、こちらの声は向こうには届かない。
この状況をどうやって乗り越えればいいのかと、蓮花は頭の中でぐるぐると思い巡らせる。
ふと、目の端に黄色い花をつけている植物が生えているのが見えた。
蓮花はへなへなと、腰が抜けたようにその場に座り込む。
刺客が徐々に距離を詰めてきた。
頭上に剣が振り上げられた。
腰が抜けたと見せかけ、蓮花は目に付いた植物を手で引きちぎり、目の前に迫る刺客の顔に投げつけた。
何度も何度も。
そこへ、ようやく陛下を探し回っていた一颯がやって来た。
遅れて、お付きの従者や臣下たちも現れる。と同時に、刺客は前屈みのまま、小走りに逃げ去って行った。
「陛下!」
地面に倒れた赦鶯陛下を見るなり、一颯は馬を飛び降り走り寄った。
「誰か来てくれ! 陛下が怪我を!」
赦鶯の息づかいが荒い。唇が紫色になり、意識がもうろうとし始めている。
「その辺に矢が落ちているはず。矢を見つけて! 鏃に毒が塗られているから気をつけて! それから侍医を呼んで!」
蓮花の声に、従者たちが赦鶯陛下を打った矢を探し始めた。
「ありました!」
「蓮花、毒とは? なんの毒にやられたのだ!」
「症状からみて、たぶん附子」
トリカブトだ。
そのトリカブトの毒を鏃か、あるいは剣に塗り、陛下を襲った。
附子の漢方的解毒剤は甘草乾姜湯。
急いで宮廷に戻り飲ませなければならない。
一颯は陛下を背に担ぎ、自分の馬に乗せた。
「侍医を天幕に待機させろ! おまえたちは怪しい者が潜んでいないか森の中をくまなく探せ!」
一颯の命令に、周りにいた従者たちが散っていく。
ふと、蓮花は足元に視線を落とす。
刺客が立っていた場所、枯れ草に埋もれるようにして何かが落ちていた。蓮花はそれを拾う。
羊脂白玉の玉佩であった。赦鶯陛下が持っているものではない。
だとしたら誰の物?
蓮花は周りを見渡した。もしかしたら、これを落とした者が陛下を殺そうとした犯人。




