9 皇太后のお越し
「もうすぐ出産ですね、皇后さま」
皇后を気遣い、凜妃は毎日のように永明宮にやって来た。
皇后はお腹に手を当てた。
いつ産まれてもいいように、すでに侍医や産婆たちも待機している。
「とにかく、お気持ちを強くもたれることです皇后さま。そういえば最近、書道はおやりにならないのですか?」
凜妃はちらりと卓を見やる。
そこには硯と墨、薄紙が置かれているが、しばらく使用された形跡はなかった。
一時期、気鬱状態だった皇后は、塞ぎ込んで趣味の書道すらやる気が起きないと言い、手をつけなかった。
まさか、まだ鬱々としたものを引きずっているのではと凜妃は心配したのだ。
「最近は子の準備で忙しくてそれどころではなかったわ」
「そうですね。たくさん刺繍をされたみたいですものね」
確かに長椅子の周りには産まれてくる赤子のものが山のように積まれていた。
「蓮花が言うのよ。蓮花の故郷では、産まれてくる子のために刺繍の入ったものをたくさん縫うと、子が病気もせず元気に育つと。ねえ、蓮花?」
「はい、縫えば縫うほどそれはもう、ご利益が増すのです」
凜妃はなるほど、と頷いた。
「皇后さまがお元気になられて私も本当に嬉しいです。でも、あまり根を詰めるのはかえって身体によくないわ。たまには趣味の書道をなさるのもよい息抜きになると思うの」
「ふふ、凜妃は本当に優しいのね」
「皇后さまのためですもの。ああ、そうでしたわ、久しぶりに皇后さまの好きな菓子を作ってきたの。どうぞ召し上がってください」
凜妃は侍女に合図する。
侍女は皇后の前に菓子の乗った皿を差し出した。
皿の上にはトウモロコシの粉、大豆粉、白砂糖、甘い香りのキンモクセイを練って円錐形にした蒸したもの、小窩頭であった。もちもちとした食感の、簡単にいえばトウモロコシの蒸しパンのような菓子だ。
「皇后さま、もうすぐ恵医師が安胎薬を煎じて持ってくると思うので、おやつはその後にいただいたらいかがでしょう」
「そうね」
蓮花はいったん、凜妃の侍女から菓子を受け取った。
皿を下げようとした蓮花の足が、その声によって止まる。
「皇太后のおなり」
皇后を始め、この場にいるみなが緊張した面持ちで皇太后を迎えた。
蓮花も後宮に来て、初めて皇太后と顔を合わせることになる。
挨拶をしようとする皇后の手を、皇太后は取った。
「あなたは身重なのだから、挨拶はいいのよ」
「ありがとうございます、皇太后さま」
皇太后はそのまま皇后を長椅子に座らせ、自分も隣に腰をかける。
侍女が皇太后にお茶を差し出した。
「もうすぐ出産だと聞いて様子を見にきたの。顔色も悪くないようで安心したわ」
「はい。皇太后さまが私のためにお祈りをしてくださったと聞きました。おかげで、無事、出産を迎えられそうです。皇太后さまには感謝の言葉もございません」
「いいのよ。その子は陛下の子であり、私の大切な孫なのだから、くれぐれも身体には気をつけなさい」
次に、皇太后の目が凜妃に向けられた。
「凜妃もずっと皇后を支えてくれて頼もしいわ。あなたは慎み深く、善良な妃だから、皇后の側にいてくれて私も安心です」
「過分なお言葉、身に余る光栄。ですが、私は何もしておりません。すべては皇太后さまと皇后さまの人徳のたまものです」
「相変わらず謙虚ね。後宮のみんなが、あなたのように穏やかで優しい人柄ならよいのに」
いいえ、と凜妃は恥ずかしそうに首を振る。
「家柄も低く、子もできない私の取り柄など、このくらいしかございません」
皇太后は凜妃の手をとり、優しくなでた。
「皇后の出産が無事に終えたら、あなたの昇格を私から陛下に伝えておきましょう」
「私はこうして皇后さまにお仕えできるだけで幸せですから」
「本当に優しいのね。あなたはまだ若くて美しい。早く陛下の子を産みなさい。後宮で自分の立場を確固たるものにするには、やはり子がいなければだめ」
「はい、肝に銘じておきます」
蓮花はちらりと凜妃に視線をやる。
なんとか口元に笑みを浮かべているが、凜妃の顔はどこか辛そうであった。
子がいないというだけで、後宮にいる女たちはどんなに肩身の狭い思いをするのか。
将来の不安もある。
思えば、後宮に来て数ヶ月が経とうとするが、陛下が凜妃の元に通うところを見たことも聞いたこともないような気がした。
だって、子ができる云々の前に、陛下が通ってくれなければどうしようもないじゃん、と、思うが、その陛下の寵愛を勝ち取るのも妃嬪たちの仕事なのだ。
皇太后は満足そうに頷いた。そして、次に蓮花に視線を向けた皇太后の目が見開かれた。膝に置いた手が小刻みに震えている。
「おまえ……名はなんというの?」
「蓮花です、皇太后さま」
蓮花と、皇太后は小声で名を繰り返す。
「蓮、蓮の花……母の名は?」
なぜ、母の名前を聞いてくるのだろうと思ったが、蓮花は素直に答える。
「笙鈴です」
母の名を聞いた途端、皇太后の顔がみるみる青ざめていくのが分かった。
まるで母のことを知っているような様子ではないか。
「なんてこと……」
「あの?」
どうして母の名を尋ねるのか、そして、母の名を聞いた途端顔色を変えたのはなぜか。
そのことを尋ねようと口を開こうとしたところへ、陛下がやって来た。
皇后の様子を気にかけ部屋に入ってきた赦鶯は、皇太后を見て挨拶をする。
「母上もおいででしたか。最近、体調があまりよくないと聞き心配しておりました。なかなか見舞いに行けず、申し訳ございません」
「かまわない。おまえは政務で忙しいのだから、私のことは気にかけずともよい」
「政務が落ち着いたら必ずご挨拶に伺います」
「侍医がいる。問題ない」
素っ気なく言い、皇太后は立ち上がった。
「お見送りをいたします」
この場にいる者は、いっせいに去って行く皇太后に頭を下げた。
蓮花は不思議そうな目で陛下と皇太后を交互に見つめていた。
親子だというのに、ぎこちないものを感じたからだ。
それにしても、皇太后はなぜ、母の名を聞いてきたのだろうか。
もしかして母のことを知っているのか? 母はこの後宮で働いていたことがあった?
いやいや、そんなはずないよね。だって、宮廷なんて無縁だもの。皇太后とは次にいつ会えるだろう。できるなら、ここにいるうちにもう一度会って聞いてみたい。会って、なぜ母の名前を聞いて顔色を変えたのか知りたい。
蓮花は去って行く皇太后の後ろ姿を、じっと見送った。
とある部屋で、呪詛の呪文を唱える女がいた。
ろうそくだけが灯る薄暗闇の中、女は手に人型を模した木の人形を持ち、その胸に針を何本も突き刺した。
「あんな邪魔な女など、死んでしまえ!」
呪いの言葉を吐き、禍々しい文字が書かれた紙をろうそくの炎で焚きつけていた。