4 陛下につかえるなんて無理だから!
陛下の点心を持ってくるよう頼まれたが、できれば陛下と会うのは避けたいという思いと、せっかく皇后と二人きりの時間を邪魔してはと気を利かせたのもあり、厨房には寄らず、そのまま花園に向かい池の縁に座り込んでいた。
そうよ、あたしが陛下の心を繋ぎ止めるなんて無理なことだもん。だから、陛下に仕える必要なんてない。
蓮花は何度も自分にそう言い聞かせた。そして、先程蓮日から貰った菓子の包みを開く。
雪の玉のような菓子をつまみ頬張ろうと口を開けたその時、ひやりと首筋に冷たいものが触れ肩を跳ね上げた。
「ひゃっ!」
驚いて、手にした菓子の包みを地面に落とす。
丸い雪の玉はいっせいにころころと転がっていき、すべて池の中に落ちてしまった。
「ちょっと誰!」
声を荒らげて振り返ると、女が立っていた。
蓮花の前に時々現れる例の霊だ。
首筋に冷たいものが触れたのは、その女の指先であった。
しばらく見なかったから、すっかり彼女のことを忘れていた。
「また、あんた? そういえばお礼を言ってなかったね。薏苡仁の件、教えてくれてありがとう。おかげで皇后さまもお腹の子も無事だったよ。あたしは牢にぶち込まれて大変な思いをしたけど。ねえ、あなたは誰? あたしは蓮花っていうの、あなたのことは何て呼べばいい?」
女は儚げな笑みを浮かべ、すうっとその場から消えた。
消えちゃった。
まったく悪意はないようだし、むしろあたしの危機を何度か助けてくれるけど、それにしてもいったい何者なのだろう。
そんなことを考えながら、手の中の菓子を食べようとして蓮花は頭を抱え叫ぶ。
「ああーっ! あたしのおやつが全部池の中に落ちちゃってるじゃない!」
さっきの霊に驚かされて落としてしまったのだ。
文句を言いたくても、すでにその女は消えてしまってここにはいない。
「まったく、なんの嫌がらせよ!」
悪意はないって言ったのは、取り消しだから!
ああ、ショック。
一口も食べていないのに。
それでも諦めが悪いのか、蓮花は池の縁に座り込み、拾って食べられそうなものがないかと池の中を覗き込む。が、すべて水底に沈んでしまった。
地面に座り込み、がっくりとうなだれ、肩を落としていたところへ恵医師がやって来た。
「いたいた。探しましたよ、蓮花さん。お話があります」
「話?」
「はい。まだ確信はないのですが、重要なことだと思って」
恵医師は注意深く周りを見渡した。どうやら他人に聞かれるのはまずいらしい。
「この間、調べて欲しいと言っていた件です」
先日、恵医師にある物を渡した。それについて調べてもらっていたのだ。
「何か分かったの?」
「はい、実は……」
恵医師の真剣な表情に、ただならぬものを感じ蓮花は緊張に顔を強ばらせた。
恵医師が続きを喋ろうと口を開いたその時、永明宮から侍女たちの悲鳴があがった。
「え、なに?」
「行ってみましょう」
恵医師とともに蓮花は永明宮に駆けつけた。
戻ると侍女たちも太監も顔色を変え大騒ぎだった。
「何があったの!」
多くの侍女たちがあたふたと、皇后の居室を出たり入ったりとせわしなく行き来していた。
「皇后さまが倒れたの」
「侍医は呼んだ?」
「はい。すぐに来てもらうよう呼びに行ったのですが、侍医たちはみな景貴妃のところに行ってしまって、なかなか来てくれないのです」
「他に侍医は?」
「経験の浅い若い侍医ばかりで……」
あまり頼りにならないらしい。
「どうして景貴妃のところにいるわけ! 陛下は? 先ほどまで皇后さまと一緒にいたでしょう」
どうして陛下がいなくなってから急に! 侍医はなぜすぐに駆けつけて来ない!
焦れた思いに蓮花は苛立たしげに何度も門を見やるが、いっこうに侍医が現れる気配はない。
「皇后さまが倒れる少し前に、景貴妃さまも具合を悪くされて、夏延宮は大騒ぎだったんです。ここまで景貴妃さまの泣き声が聞こえてきました。それで、景貴妃さまは侍医たち全員呼びつけたんです。陛下も心配して景貴妃さまの様子を窺いに夏延宮へ」
だが、その後皇后が倒れたというにもかかわらず、景貴妃は呼びつけた複数の侍医を自分の元に足止めさせているのだ。
なんて卑劣で悪辣な!
どこまで根性が腐っているの!
怒りで爆発しそうな蓮花の肩に、そっと手がかけられた。
「蓮花さん、落ち着いて。わたしがいます」
恵医師の冷静な声に、噴火しそうだった気持ちを鎮める。
「お願い、恵医師」
恵医師が皇后の居室に足を踏み入れ寝台へと歩み寄る。
皇后の枕元に膝をつき、脈を取り始める。
この場にいた者全員が固唾を飲み恵医師と皇后を見守った。
やがて、恵医師は蓮花をかえりみる。
「心労でしょう。気血の薬を処方しますので、煎じて飲ませてさしあげてください」
「お腹の子は無事?」
「大丈夫です」
大丈夫という恵医師の言葉に、みなはほっと息をもらす。
陛下と穏やかに過ごしていたのに、景貴妃が倒れ陛下を奪われてしまった。その不安で皇后は倒れたのだ。
「よかった」
蓮花は寝台で眠る皇后の側に座った。
時折、皇后がうわごとのように陛下の名前を呼んでいる。
こんなことが続けば、皇后の心が壊れてしまう。
そこへ、皇后が倒れたと聞き、凜妃も駆けつけてきた。
「ああ、皇后さま。なんておかわいそうに。今度こそ、無事に産んで欲しい、ただそれだけなのに」
凜妃は目の縁に涙を浮かべ、さらに続けて言う。
「三年前にお腹にいた子を失い、そうして今回ようやく授かったお子。皇后さまは今度こそ産まなければならないという気を張っているのでしょう」
その重圧はどれほどのことか。そしてそれは蓮花には分からない。
皇后がゆっくりとまぶたを開いた。
「私の子は?」
皇后はかすれた声でお腹の子の無事を問う。
「安心してください。大丈夫です」
目尻から涙がこぼし、皇后は手のひらでお腹の辺りをなでた。
「ああ、よかった。私の大切な赤ちゃん。また陛下の子が流れたとなったら、私はどうしたらよいか……」
「皇后さま、お薬をお飲みください」
薬湯の入った器から匙で薬をすくい、蓮花は皇后に飲ませようとする。しかし、皇后は警戒をしているのか首を横に振った。
「恵医師の処方した薬です。だから安心してお飲みください」
恵医師が処方した薬だと聞いて安心したのか、ようやく皇后は薬に口をつける。
青ざめた顔に痩せた頬。
こんなやつれきった皇后の姿など見ていられない。
薬を飲んだ皇后は、再び深い眠りに落ちていった。
「恵医師、皇后は大丈夫?」
「今日のところは心配はないでしょう。ですが、このようなことが再び起きたら……」
「そうよね」
「それともう一つお伝えしたいことが。先ほど言おうとしていたことです」
恵医師は声を落とし蓮花の耳元で呟いた。
「まさか! 本当に?」
恵医師は深刻な顔で頷いた。




