2 皇子を産まなければ
「あの皇后さま、以前も皇子さまを身ごもっていますよね?」
蓮花の言葉に皇后は驚いた顔をするが、すぐに頷いた。
「ええ、三年前のことよ。結局、産むことができずに流れてしまった」
「その皇子さまが皇后さまの側に寄り添っているんです」
「え?」
「これから産まれてくる弟を守るんだと言って。優しくて頼もしい皇子さまですね」
皇后の目から再びはらはらと涙がこぼれた。
「私の側にいてくれるの?」
「はい、弟が産まれるまで励ますんだと仰ってます」
「ありがとう蓮花。あなたには感謝の言葉しかないわ」
「いいえ、皇后さまにはとてもよくしていただいてますから」
そこへ、暁蕾がこほんと咳払いをし、しつこく皇后に目配せをする。
「おやめなさい暁蕾」
「ですが、このままでは後宮は景貴妃の思うがままに。よいのですか? 景貴妃に後宮を支配されても」
暁蕾は真剣な顔で蓮花と向き合った。
「あなたも皇后さまのことを心配だと思うなら、自分にできる最善のことをしなくてはいけないわ。そう思うでしょう?」
「はあ……私にできることなら何でもしますけど」
「だったら……」
「暁蕾!」
暁蕾の言葉の続きを皇后は厳しく遮った。
ですが! と言ってさらに口を開きかけた暁蕾であったが、突如、やって来た赦鶯陛下の出現により、この話題はいったん終いとなる。
陛下が到着したという御前付きの太監の声とともに、赦鶯陛下が部屋に現れた。
挨拶をしようと立ち上がる皇后の肩に手を添え、陛下はとどめる。
「身重なのだから礼はいいと何度も言っているであろう」
「感謝いたします、陛下」
「具合はどうだ皇后。食欲がないと聞いたが、ちゃんと食べているのか?」
「ええ、ご心配をおかけして申し訳ございません」
「何を言っている。そなたは大切な皇子を産まなければいけないのだから、気にかけるのは当然であろう」
その言葉に皇后は微妙な笑みを浮かべる。
「蓮花、陛下にお茶をお出しして」
「は、はい」
皇后の命によってお茶をいれて戻ってきた蓮花の衣服の裾を、暁蕾はつま先で踏んだ。
「ぎゃ!」
蓮花はそのまま前のめりに転び、陛下の衣にお茶を引っかける。さらに、前につんのめって倒れそうになる蓮花の身体を咄嗟に赦鶯は受け止めた。
見事に、陛下の胸に顔を埋めた蓮花は慌てて離れる。
「申し訳ございません。やだ! どうしよう」
こぼしたお茶が陛下の衣を濡らしてしまった。
蓮花は慌てて自分の袖で汚れを拭き取る。
蓮花の手が陛下の股間のあたりをごしごし拭い、陛下付きの大鑑がこほんと咳払いをする。
「もう、よい」
「でも!」
懸命に衣を拭う蓮花の手をとどめるように、赦鶯は握りしめる。
顔を上げた蓮花は、思いのほか近くにあった相手と見つめ合う。
「えーっと、あの……」
顔が近い近い近い!
言葉をつまらせ、視線のやり場に困って蓮花は目をぐるぐると泳がせた。
「蓮花、点心ができあがっているか厨房に行って見てきてくれるかしら」
「は、はい! 今すぐに!」
皇后の指示に従い、蓮花は部屋を出る。
ふと、陛下に触れられた腕のあたりに手をあてる。
いまだに手の感触が残っている。そして、胸の鼓動がおかしなくらい鳴っていた。
「あら、蓮花。どうしたの? 赤い顔をして、何かあったの?」
「い、いいえ! 何でも……」
凜妃はそう? というように肩をすくめ、皇后の居室を見る。
「皇后はお休みかしら」
「今、陛下がいらっしゃっております」
「まあ、ではお二人の邪魔をしてはいけないわね。また後で様子を見に来ることにしましょう」
「すみません……凜妃さまが訪ねに来たことは、皇后さまにお伝えします……」
「ほんと、おかしいわね。いつもの元気な蓮花はどこにいったのかしら。悩み事? よかったら話を聞くわよ」
蓮花は胸のあたりを押さえた。
まだ胸がどきどきと鳴っていてとまらない。
騒がしい胸の鼓動と、赦鶯陛下の顔を脳裏から追い出すように、蓮花は激しく首を振る。
考えてみれば、これまで男の人とあんな間近に接触することなんて今までなかった。だから、余計意識してしまったのだろう。
それに、別に陛下になんの感情も抱いてないけれど、むだに顔がいいだけに、やはり側で見るとドキドキしてしまう。
いや、陛下のことはどうでもいい。
それよりも、暁蕾の思わせぶりな言い方に引っかかるものがあった。
「あの、話を聞いていただけますか?」
「もちろんよ」
「実は……暁蕾さんに、意味の分からないことを言われたんです」
そう前置きをして、蓮花は先程、暁蕾に言われたことを話した。
蓮花の話に口を挟むことなく、最後まで凜妃は真剣に耳を傾けた。
すべてを打ち明けた蓮花に、凜妃は眉尻を下げる。
口を開いては思い止まるを何度か繰り返し、凜妃は困ったように頬に手をあてた。
「こんなことを言っていいのかしら」
「なんでしょう? 思ったこと全部話してください。このままでは、もやもやします」
凜妃はそっと蓮花の手をとった。
「蓮花、あなたは陛下のお気に入り」
「そんなことないです。むしろ嫌われている方かと」
凜妃は笑い、続けて言う。
「皇后が身ごもっている間も、陛下が景貴妃の元に通わないよう、あなたに陛下を繋ぎとめさせようと考えていたのよ」
蓮花はきょとんとした目をしている。
まだ意味が分かっていないようだ。
「つまり、陛下にお仕えしろという意味」
他の妃の元に通うのは仕方がない。だが、その相手が景貴妃となると、そうもいっていられない。
もし、景貴妃がこのまま寵愛を受け続け、懐妊しようものなら、そしてその子が皇子であったなら、皇后の地位も危ういものとなる可能性がある。
凜妃の話を聞いた蓮花は、ぎょっとする。
「それは無理です。それに、どうしてあたしが陛下に好かれていると勘違いされているのか分からないです」
ついこの間、陛下に疑われて牢にぶちこまれ、ひどい目にあわされたのだ。それなのに好かれているとか意味が分からない。
「でも、皇后さまは蓮花に陛下のお相手をさせるつもりはないようよ」
皇后の気持ちに蓮花はほっと息をもらす。
陛下に仕えるなんてとんでもない。だが、確かに、陛下は皇后の身体の様子を見に来ることはあっても、今では毎夜景貴妃の元へ通うのは事実だ。
蓮花はぶるぶると首を振った。
「あたしは自分のことを一番に思ってくれる人でないと一緒にはなれない。それにあたし、目的を果たすために、いずれ後宮を出るつもりだし」
凜妃の手が伸びてきて、ふわりと蓮花の頬に触れた。
「あなたは本当に珍しい子ね」
珍しい? そうなのだろうか。
「他の女子はみな、陛下に目をかけてもらおうと必死になるのに、あなたはてんで無関心。蓮花は、陛下のことがお嫌い?」
蓮花は答えに窮する。
陛下のことをそういう感情を持って接したことないし、別に妃になりたいなんて考えたこともない。しかし、優しくしてくれた皇后が景貴妃のことで心を痛め頭を悩ませているのだと思うと、忍びない気持ちになる。
皇后には無事に元気な皇子を産んで欲しいと思っている。