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1 皇后の憂鬱

 それから月日は経ち、皇后のお腹の子も順調に育ち、安定期に入った。

 蓮花も皇后の身に何も起きないよう注意深く目を配っていたが、あれ以来特に大きな事件が起こることはなく、平穏に過ごせた。

 景貴妃も皇后の子を害そうという悪巧みは諦めたのか、今のところ何も仕掛けてくることはない。

 このまま、おとなしくしていてくれることを願うばかりだ。


 しかし、何事もなくお腹の子が育ち、陛下も気にかけてくれているというのに、皇后の気鬱は晴れることなく、いっそう暗い顔でため息をつくことが増えた。

「皇后さま、そんなお顔をされていてはお腹の子にもよくないですよ」

 言って、侍女頭の暁蕾は窓の外を見やる。

 その横で蓮花はうちわで皇后をあおいでいた。


「皇后さま、お天気もよいですしお庭を散策しませんか。そうそう! この間凜妃さまからいただいた口紅と頬紅を試してみませんか? お化粧をすればお顔色も明るくなるし、少しは気持ちが晴れると思いますよ」

 明玉はあれやこれやと皇后の気を引き、凜妃から贈られたという口紅と頬紅の入った容器を持ってきて容器の蓋を開け、皇后に見せる。


「ほら、素敵なお色です! 以前にも贈られた化粧品を皇后さまがとても気に入ったと仰ったら、気を利かせて凜妃さまがまた贈ってくださったの」

「まあ、派手すぎないのに華やかさを感じるお色ね。皇后さまにぴったりだわ。さすが凜妃さま、皇后さまのことをよく分かっていらっしゃる」

 化粧品を見た暁蕾も、目を輝かせていた。

「凜妃さまの贈り物?」

 蓮花もどれどれと覗き込む。


「そうよ。とても貴重なものらしくて、以前皇后さまが懐妊した時もお祝いにといって贈ってくださったの」

「へえ、ほんとだ。きれいな色の口紅だね」

 けれど、皇后は元気のない表情でいいえ、と首を振る。

「本当にあまり気分がすぐれないの」

 頭を押さえ深いため息をつき、皇后はさらに声を落として言う。

「侍医を呼びましょうか?」

「いいのよ。たいしたことではないから。ただ、心配なだけ。生まれた子が皇子でなかったらどうすればいいのかと思うと」


 明玉と暁蕾、そして蓮花は互いに顔を見合わせた。

「皇后さま、間違いなく皇子ですよ。侍医も言っていたではないですか。左の脈が勢いがいいって。だから間違いなく皇子さまだって!」

 明玉は励ますように言う。

 もちろん、このことは皇后を慕う凜妃意外には口外していない。

 もし、皇子だということが周りに知られたら、またどんな企みを仕掛けてくるか分からないから。


「そうですよ。いいえ、たとえ、公主だとしても、陛下はお喜びになります。陛下の皇后に対する愛情は深いのですから」

 暁蕾も皇后に言い聞かせるよう慰めの言葉をかける。

 しかし、どんなに侍女たちの励ましも慰めも、皇后の心を晴らすことはできない。

「皇子でなければ意味がないわ。陛下も皇子を産んでくれるのを期待していると言った」

「皇后さま……」


「それに、陛下はここのところ、景貴妃のところに通ってばかり」

 確かに、懐妊してから陛下は頻繁に皇后の身体を気遣い永明宮に顔を出してくれるが、夜はもっぱら景貴妃のところに泊まっている。だがそれは、景貴妃が何かと理由をつけて我が儘を言い、陛下を呼び出し引き止めているからと聞いたが。

 暁蕾は明玉と蓮花を含め、周りにいる侍女たちに目で合図する。


 すぐに、一礼してみな部屋から出て行った。この場に残ったのは皇后と古参の侍女の暁蕾だけ。

 暁蕾は皇后の側に寄り、声を落として言う。

「皇后さま、陛下が永明宮に通ってくださるためにも、誰かを陛下にお仕えさせるべきだと思います。幸い、陛下は蓮花をお気に召しているようです」

 うつむいていた皇后はゆっくりと顔をあげた。


「あの子は無理よ」

 蓮花の気性を考えれば、無理だと皇后も理解しているようだ。

 なにより、蓮花は陛下に気に入られて妃になろうという野心はまったくない。

 それに、蓮花がここに来た理由も皇后は知っている。

 子が産まれれば、彼女は後宮を出て行く身。

 蓮花は両親を殺した賊を見つけ出すという目的がある。その彼女が陛下に仕えるはずがない。


「なぜですか? 陛下に気に入られているのに嫌がる理由が私には分かりません。後宮にいる女性のほとんどが陛下の寵愛を得ることを望んでいるのに」

「あの子は、そういう目的でここへやって来たのではないの」

 蓮花は陛下のことなど少しも興味がない。そんな彼女を自分の目的のために利用するのはいけないことだ。


「もういいわ。あなたも下がって。それから蓮花を呼び戻してちょうだい。書道を教える約束をしたの」

「ですが……」

「皇后さま、恵医師が来ました!」

 呼び戻すまでもなく、蓮花の元気な声が部屋の外から聞こえた。


「お腹の子によい薬を恵医師が煎じたそうですよ。お食事もあまり摂っていなかったですよね。これを飲んで少しは元気を出してください」

 蓮花の背後には薬箱を持った恵医師が立っている。

 牢で罰を受けていた時に、蓮花は恵医師を呼び、それ以来、彼は度々皇后の宮にやって来るようになった。


 暁蕾は皇后に目配せをする。

 先程の話を蓮花に話してみるべきではという意味だ。しかし、皇后は否と首を振る。

 陛下の心を他の妃に向けないために蓮花を利用することは、やはり気が進まないようだ。


 自分のいないところでそんな会話がされていたとは知らない蓮花は、皇后と暁蕾の様子に違和感を抱きながらも、特に問うことはしなかった。

「皇后さま、安胎薬をお持ちしました。私が煎じたのでどうかご安心ください」

 恵医師から差し出された薬湯の器を受け取ったものの、皇后の表情はやはり浮かない。


「自分でも分かっているの。こんなことではいけないって。でも、毎日が不安で」

 蓮花はぐっとこぶしを握りしめる。

「皇后さま、そんな弱気じゃ、お腹の皇子さまも不安に思いますよ。かわいそうです」

「皇子?」

「そう、皇后さまには元気な皇子を産んでもらわなければ」

 もうその言葉は聞き飽きたというように、皇后は一瞬不機嫌な表情を浮かべる。


「本当にこの子が皇子だったらよいのだけれどね」

「だから、皇子さまですよ」

 皇后は眉根を寄せ蓮花に厳しい視線を向ける。しかし、蓮花の顔は真剣そのものであった。冗談とか気休めでお腹の中に皇子がいると言った様子ではないと分かり、皇后は肩の力を抜いた。


「ええと、言うべきじゃないと思っていたから黙っていたんですけど、皇后さまの今の状態を視たら言わずにはいられなくて。間違いないです。だって、あたしの目にはお腹の中にいる子が皇子さまに視えるから」

 皇后は唇を震わせ目を見開いた。


「本当なの? 視えるの?」

「はい、元気で健やかな皇子さまです。もし産まれた子が公主さまだったら、あたし裸で後宮を歩き回ってもいいです」

「いや、それ死罪だから」

 と、明玉はぽつりと言う。

 皇后は両手を顔にあて、涙を流した。


「だから、しっかりとご飯を食べて、元気な皇子を産んでください!」

「そうね。この子のためにも私がしっかりしなければいけないわね。安心したらお腹が空いてきたわ。明玉、何か食事を持ってきてくれるかしら」

「はい……はい! ただちに厨房に行って作ってもらうよう指示します!」

 明玉は元気よく返事をし、部屋の入り口まで走ると、近くにいた侍女を呼びつけ食事を持ってくるよう指示しながらも、自分も厨房に走って行く。

 蓮花は皇后に向き直る。

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