7 理不尽なこと
「皇后娘娘」
皇后付きの太監が深刻な顔で部屋に現れた。
「どうしたの?」
皇后は心を落ち着かせるため、久々に書道に集中していたところであった。
その横で蓮花は皇后の美しい文字に見入っていた。
両親から文字は教わったので一応、読めるし書けるが、皇后のように美しい文字を書くことは無理だ。
「景貴妃の侍女春雪が牢で自害しました。壁に何度も頭を打ち付け血を流しているのを役人が見つけたようです」
皇后はひたいに手をあてため息をつく。
一方、蓮花は静かにまぶたを落とした。
自害するなんて、あまりにも気の毒だ。
確かに皇后の子を害そうとしたが、それも景貴妃に命令されてのこと。そして、自害も景貴妃に強要されたのだろう。
蓮花は目を閉じた。
きっと、彼女の魂は浮かばれずに、いまだ暗い牢の中に捕らわれているだろう。
何とかしてあげたいと思った。
「皇后さま、牢に行ってもいいですか? 春雪に会って話をしてみたいです」
「何を言ってるの? 太監の話を聞いてたでしょ? 春雪はもう亡くなったの。話なんかできるわけがないでしょう」
呆れたように明玉が言う。
そう、普通の人なら亡くなった者と会話なんかできるわけがない。だが、蓮花は普通の人にはない力を持っている。
死者と会話ができるのだ。
無念を残した状態で成仏ができず、春雪がまだ牢にとどまっていれば、うまくすれば何か聞けるかもしれない。
どうやら、蓮花の考えていることを皇后は分かってくれたようだ。
「いいわ。太監に連れていってもらいなさい」
「ありがとうございます!」
感謝の言葉を述べると、蓮花は牢へと向かった。
太監のはからいで、牢に入れた蓮花は、春雪が捕らわれていた牢の前で立ち止まった。
思った通り、彼女の幽体はいまだ牢の中に捕らわれ、冷えた地面に座っていた。
ここから動くこともできず、成仏すら望まず。
「春雪さん、あたしの声が聞こえる?」
静かな声で呼びかけると、泣きながら春雪はゆっくりと顔をあげた。
「あなたは皇后さまの……」
「そう蓮花よ。皇后さまに薏苡仁を入れたのは景貴妃に命じられてのことよね?」
春雪は泣きながら何度も頷いた。
ようやく、自分の話を聞いてくれる人が現れたのだ。
自分の無実を証明しようと、春雪は必死に言葉を紡ぐ。
だが、どんなに弁明をしても、もう彼女はこの世の者ではない。
「私は景貴妃さまに命じられた通りにやっただけ。それに、皇后さまが懐妊していたなんて知らなかったの。本当よ」
「やっぱり、命じたのは景貴妃だったのね」
だが、真実を知ったところで証拠はない。
証拠がなければ景貴妃を訴えることはできない。
罪に問うことも。
それどころか、こちらの身を危うくする可能性もある。
蓮花は悔しげに奥歯を噛んだ。
春雪が生きていれば、景貴妃の仕業だということを証人として陛下に訴えることもできるが、彼女はもう亡くなった。
死者の言い分など誰にも聞かせることはできない。
「どうして、自害なんてしたの」
「景貴妃さまの命令に逆らえるわけがない。逆らえば命がないのは私の方だったのに!」
蓮花は哀れな目で春雪を見る。
逆らえば命はなかった。
だが、命令に従っても結局、命はない。
こんな理不尽なことがあっていいのか。
「私はどうしたらいいの?」
手を顔に押し当て、春雪は声をあげて泣く。
「春雪さん、あなたがするべきことは一つだけ。悔しいかもしれないけれど、何もかも忘れて成仏すること。あたしが見送ってあげる」
蓮花は懐から数珠を取り出した。
「春雪さんのためにお経をあげてあげるから」
しかし、春雪は否と首を振った。
「ずっとお仕えしてきた景貴妃に裏切られ、成仏なんかできるわけがない! 故郷にいる母のことも心配で、このままあの世になんていけない! 妹の華雪だって!」
「ならどうして自ら命を絶ったの? 一番やってはいけないことなのに」
「この後宮で生殺与奪の権限は主にあるのよ。私のような下っ端は生きるのも死ぬのも主人の気分次第。あなただってそのことは身にしみて分かっていたでしょう」
ここでは誰もが自由に生きることなんてできない。だがそれは、自分たち下っ端だけに限らない。
妃たちも皇后ですらも、己の思うようには生きられないのだ。
この後宮という鳥籠に捕らわれながら、ただ生きながらえるだけ。
「それでも、ここに残ってはいけないの。ここにいたら、いずれは悪霊となってしまう。この後宮にはそういう女たちがたくさんいる」
未浄化の、この世に未練を残した女たちの哀れな姿をたくさん見てきた。彼女たちは怨み辛みを吐きながら、あるいは嘆き悲しみながら、この後宮をさまよい続けている。幸せそうに笑っている者なんて一人もいない。
「いいえ! あたしは景貴妃を絶対に許さない。取り憑いて呪い殺してやる!」
呪い殺すと言った華雪の形相が悪鬼のようなものに変わった。と同時に、春雪の姿がこの場から消えた。
彼女の魂はおそらく恨みを抱く景貴妃の元へと向かったのだろう。
こうして、景貴妃は新たな因縁をその身に引き寄せていくことになった。だが、それも自業自得だ。




