2 捕らえられた蓮花
皇后懐妊の知らせはすぐに宮中に広まった。
だが、この知らせをよく思わない者もいる。
まさに、景貴妃がそうであった。
「まさか皇后が懐妊するなんて。景貴妃さま、もし、これで皇后が皇子を産んだら」
知らせを聞いてから、ずっと不機嫌な景貴妃に、侍女の美月は主の顔色を窺いつつ言葉を選びながら尋ねる。
景貴妃にはいまだ子はいない。
もし、皇后が子を産めば、それもその子が皇子なら、皇后の地位は盤石なものとなるだろう。その座を奪うのは難しくなる。
ぎりぎりと奥歯を噛んでいた景貴妃だが、強ばっていた肩の力を抜き、笑みを浮かべた。
「ようやく子が授かったのだから、お祝いをしなければいけないわね」
なにか企みを思いついたのか、景貴妃は側にくるよう美月に手招きすると、その耳元に唇を近づけ小声で囁いた。
「かしこまりました」
一礼して美月が去って行くのを見届けた景貴妃は、にやりと笑った。
◆◇◆◇
「とにかく今は、お身体のことだけを考えてください。何事にも慎重に」
皇后が懐妊したと聞き、永明宮はいつも以上に賑わいをみせていた。
誰もが嬉しそうに笑顔を浮かべ皇后の懐妊を祝った。
しかし、喜んでばかりはいられない。
ここから先、皇后が無事、子を出産するまで気の抜けない日々が続くのだ。
だが、皇后が子を産めば、永明宮で働くすべての者に褒美を与えようと陛下が約束してくれた。
皇后の座を奪われることを心配していた皇后であったが、懐妊したことで状況はかなり優性となったはず。
皇后の次に偉い立場である景貴妃を押さえ込むこともできる。
何しろ、陛下の寵愛を一身に受けている景貴妃ですら、いまだ子に恵まれていないのだから。
「いいですか。用心にこしたことはないんですからね。食事にも本当に、ほんとーに、注意を払ってくださいね!」
蓮花はくん、と鼻を鳴らした。
かすかに甘い香りがする。
今まで気にしなかったが、皇后が身ごもったと分かってから特に、においには敏感になった。
「皇后さま、子が生まれるまでお香は絶対に禁止と言ったのに焚きましたか? 衣服に染みこませるのもだめですよ」
昔から頭痛持ちで、精神的にも不安定だった皇后は、よく香を焚き心を落ち着かせていた。だが、懐妊した者には、お香ですら危険なものがある。おしろいにも気をつけなければならない。
「蓮花に言われて、お香はいっさいやめているわ」
皇后はお腹に手をあて、くどすぎる蓮花の忠告に苦笑いを浮かべた。
「じゃあ、誰かこの部屋に入って来ましたか。暁蕾や明玉の他に」
「華雪よ。さっき、内務府から贈られた鉢植えを届けに来たわ」
景貴妃が強引に押しつけてきた侍女だ。
蓮花は彼女が何かやらかさないかと、常日頃から目を光らせている。
今のところ怪しい行動は見当たらない。
景貴妃とも連絡を取り合っている気配もない。
「蓮花の言う通り、じゅうぶん気をつけているわ。今度こそ、無事にこの子を産みたいもの」
「そうです。その意気です!」
ぐっとこぶしを握り、蓮花は頷いた。
「皇后さま、景貴妃さまがいらっしゃいましたが」
景貴妃がいったい何の用でやって来たのかとみなが訝しむ。
どうしましょう、と明玉は不安そうな声で言い、侍女頭の暁蕾の指示を仰ぐようにちらりと視線をやる。
「いったい何をしに来たのかしら。皇后さまはお休み中と言って帰ってもらいましょう」
暁蕾は気を利かせるが、皇后はいいえ、と首を振った。
「通しなさい」
すぐに景貴妃が現れた。
彼女の背後に従う侍女の手には提盒が握られている。
「ごきげん麗しゅう皇后娘娘。滋養に効く山参が実家から送られたので、身体によい羹を作ってお持ちしましたの」
どうぞ、と侍女は提盒の蓋を開け、皇后に羹の入った器を差し出した。
蓮花は差し出されたそれを注意深く見る。
いやいや、いきなりそんなもの持ってきても、怪しいに決まっているではないか。絶対、危険なものが混入している。
それも皇后と敵対する景貴妃だよ。
「わざわざ気遣ってくれたのね。だけど申し訳ないけれど、今は食欲がないの。後でいただくわ」
「皇后さまは、もしかして私を疑っているの? 毒が入っていると思っていらっしゃるのね。だとしたら、ひどいわ。私たちは姉妹よ。姉のお身体を心配するのは当然ではなくて?」
どの口がそれを言う!
わざとらしく景貴妃は手巾を目元にあて、嘘泣きをする。
「それに、山参は懐妊された皇后さまに是非と私の実家から届けられたもの。皇后さまは私の実家すらもお疑いになるというのですね」
あんたを含め、あんたを皇后の座につけようとするあんたの一族だって敵よ!
皇后は息をつくと、器を手に取った。
匙を手に器の中の汁物をゆっくりとかき混ぜるのを見て、景貴妃はにこりと微笑む。
皇后は匙を口元に持っていこうとする。
『飲んではだめ』
突如、蓮花の脳裏にその声が響いた。
視線を巡らせると、景貴妃の横に一人の女性の霊が立ち首を横に振っている。
例の霊!
凜妃の簪を見つけてくれた時、景貴妃から処罰を受け自ら舌をかみ切るのを止めた時と、二度も蓮花を救ってくれた女性だ。
「だめ! 飲んじゃだめです!」
蓮花は叫んで皇后の手から器を取り上げた。
「失礼な。せっかくの景貴妃さまの好意を! 毒を盛ったと疑うのか!」
景貴妃の侍女美月が怒りの声で、蓮花に指を突きつける。
蓮花はちらりと、みなには見えないその女性に視線をやる。
その女は頷いた。
『間違いなく、それを飲めば取り返しのつかないことになる』
「景貴妃さまの気遣いを無駄にするとは、なんて無礼な侍女でしょう!」
「何が入っているか分からないものなんて、飲ませられないでしょ! 皇后さまに万一のことがあったら責任をとれるの!」
「そう。では、私が飲んでみればいいのね。それで納得するかしら」
そう言って、景貴妃は蓮花の手から器をとり、羹を匙ですくい一口飲む。
口元を手巾で拭い、景貴妃はにっと口角をつり上げ笑った。
「これで、私の疑いは晴れたかしら」
そんな……何でもないなんて。待って、即効性のない毒かもしれない。
ううん、と蓮花は心の中で首を振る。即効性がないにしても、毒の入った汁物を、景貴妃自ら飲むなんて考えられない。
蓮花のこめかみに汗が流れ落ちる。
もしかしてあたし、しくじった?
毒なんて入っていなかった。あたしの勘違い。あるいは、はめられたのはあたし?
蓮花は再びあの女性が立っていた場所を見るが、すでに女の姿は消えていた。
「せっかくの私の好意を疑われるなんて不敬にもほどがあるわ」
「ま、待って。その汁物、もっとよく調べっ!」
景貴妃が蓮花の頬を叩いた。
「この娘を慎刑司送りにしなさい」
「待ちなさい。蓮花は私の身体を気づかっただけですよ」
皇后が蓮花を庇おうとするが、景貴妃は取り合わなかった。
「皇后がこの娘を甘やかすからいけないのだわ。これでは後宮の、他の宮女たちにも示しがつかないでしょう」
「私がかまわないと言っているのです」
「たとえ皇后の身体を気づかったとしても、たかが侍女ごときがこの私に不敬を働くのは許せるものではない」
それでも皇后が蓮花を庇おうとするが、側にいた暁蕾がいけません、と引き止める。
「今は大切な時です。ここで興奮されてはお腹の子にも影響が」
員子、と呼んで景貴妃は側に控える太監に目配せをする。
「この娘を慎刑司に連れて行き、罰を与えなさい」
太監に腕をとられ、蓮花は半ば強引に引きずられて行った。




