9 陛下の寵愛
そんな出来事があって、しばらくは自分の宮殿でおとなしくしていた景貴妃であったが、ようやく謹慎が解け、数日前から皇后への挨拶にも顔を出すことになった。
「皇后娘娘ごきげんよう」
毎日の日課である、皇后への挨拶のため、妃嬪たちが次々と永明宮に現れた。だが、時間になってもまだ現れない人物がいる。
言わずとしれた景貴妃だ。
とはいえ、景貴妃が遅刻するのは今日に限ったことではない。
「やはり時間通りに来ないわね」
「実家が高官で、景貴妃の父も兄も陛下の寵臣だからいい気になっているのよ」
「しぃ、聞かれたら何をされるか分からないわよ」
妃嬪たちは手巾を口元にあて、ひそひそと景貴妃の陰口を口にする。
「ごきげんよう、皇后娘娘」
散々皆を待たせたあげく、ようやく現れた景貴妃は、気だるそうな声で皇后に挨拶をすると席についた。
減俸、謹慎という罰を食らっても、景貴妃は反省するどころか、ますます傍若無人さを発揮し、その勢いは以前にも増しているような気がした。
景貴妃が現れた途端、部屋中に濃厚な香りが漂った。
「いい香りね景貴妃。なんのお香かしら」
いい香りと言いつつも、そのきつい香りに、皇后は手にした手巾を持ち上げ、鼻の辺りを覆った。
「実家から珍しい香水が贈られたの。もしよろしければ、皇后さまにも贈りましょうか」
景貴妃の侍女、春雪が香水を皇后に差し出してきた。しかし、皇后はやんわりと断る。
「遠慮しておくわ。私には華やかすぎる香りだから」
「ふふ、皇后さま、倹約もいいことだと思いますが、陛下の気を引くためにもう少し華やかになさったほうがよろしいのでは? 陛下の訪れはあっても、いっこうに懐妊の気配がないのは皇后さまの責任では?」
「子は天からの授かりものよ」
「ものはいいようですわね」
景貴妃は小バカにしたように嗤い、眠たそうに手巾で口元を隠しながらあくびをする。
「お疲れのようね」
景貴妃は艶やかな笑みを浮かべ、襟元を整える。
「ええ、謹慎が解けたと同時に、陛下がお泊まりにいらっしゃったの。ここのところ毎日。昨夜もずっと陛下と過ごしましたわ」
周りの空気がざわめく。
皇后も心なしか顔が引きつっている。
「朝も陛下が疲れているなら皇后への挨拶は休んでいいと言ってくださったの。でも、挨拶に窺わなければ、皇后のご機嫌を損ねてしまうと思って来ましたわ」
だから、ここへ来るのが遅れた、というわけである。
周りにいた妃嬪たちがあからさまに顔をしかめ咳払いをする。
そんな妃たちを景貴妃はざっと顔を見渡す。
「暇な人たちは羨ましいわ。同じ妃なのに、この違いはどういうことかしら。みんな気兼ねすることなくゆっくり眠れるもの。もっとも、陛下のためでしたら寝不足くらいどうってことはないけれど」
悔しかったら陛下の寵愛を得てみなさいと言っているのだ。
「挨拶に来ないからといって目くじらを立てたりはしないわ。それに、陛下にお仕えすることはいいことよ。これからも真心を込めて陛下に尽くしなさい。陛下の喜びが私たちの幸せでもあるのだから」
言われなくても、といわんばかりに景貴妃は鼻白む。
「景貴妃も疲れているでしょう。今日は特に話すこともないから下がっていいわ」
景貴妃はふんと嗤って立ち上がった。
「では失礼いたします。今日は陛下が夏延宮で昼食を召し上がりにいらっしゃるの。陛下の好きな点心をお作りしてお迎えしなければ」
勝ち誇った笑みを朱い唇に浮かべ、景貴妃は悠然とした足取りで去って行く。
数日前まで謹慎を食らっていたとは思えない、堂々とした態度と余裕さであった。
他の妃嬪たちも席を立ち去って行く。
椅子の肘掛けに肘をつき、こめかみを押さえる皇后に蓮花はすかさずお茶を差し出す。
「茉莉龍珠をどうぞ」
皇后はふっと口元に儚い笑みを浮かべた。
茉莉花茶は美容や健康、リラックス効果があり、不安や緊張を和らげ、気持ちを落ち着かせる作用がある。
皇后は蓮花から茶器を受け取り茶を飲む。
「あまり体調がよくなさそうですが、大丈夫ですか?」
蓮花が後宮に来た時から皇后の体調はあまりよくなかったが、ここ最近、さらにひどくなっているような気がした。相変わらず食は細く、好物を出してもほとんど手をつけない。めまいやふらつきは日に何度も起こすし、つねに眠そうでこっそりとあくびをしている。気持ちが不安定なことも多い。
これもすべて景貴妃のせいだ。
あんな我がまま放題の妃がいたら、誰だって精神が参ってしまう。
皇后って、案外大変な仕事なんだな、と蓮花は同情をする。
「侍医を呼びますか?」
「大丈夫よ。いつものように休んでいれば治るわ」
そうは言っても、やはり辛そうな顔をしているから心配だ。
「それにしても、景貴妃さまはいつもあんな態度なんですか?」
なんだかんだ言っても皇后だし、後宮の中で一番偉い立場にいるのだから、がつんと言ってやればいいのに。
「景貴妃の実家の勢力は無視できないわ。陛下の寵愛も深い」
「だけど、横柄な態度ですよね」
「仕方がないわ。後宮での立場は私の次なのだから」
この場に残った凜妃も、皇后の身体を気遣い側にやってきた。
「皇后さま、よろしければこれをどうぞ」
凜妃は己の侍女に目配せをする。それを合図に、侍女は皇后の前に小箱を差し出した。
「ぜひ皇后さまにと思って、よろしかったら受け取ってください」
皇后は小箱を受け取り蓋を開ける。そこには棒墨が入っていた。
「とてもいい香りね」
墨独特の香りに、皇后は息をつく。
「趣味の書道で、少しはお気持ちも和らぐといいのですが」
墨を磨ることで、漂う微かな香りに心を落ち着かせ、磨る音を楽しむのだ。
「ありがとう、凜妃」
「いいえ、この間いただいた反物のお礼ですわ。では、私も失礼いたします」
あまり長々とお喋りしては、皇后を疲れさせてしまうだろうという凜妃の配慮だ。
「蓮花、凜妃をお見送りして」
「はい」
凜妃を見送るため、蓮花も外に出る。
中庭を歩きながら、凜妃は声を落とし蓮花に話しかけた。
「この間は助かったわ。でも、あなたには迷惑をかけてしまった」
「いいえ、誤解も解けたし、問題ありません」
「あなたみたいな気の利く侍女がいれば皇后も安心ね。だけど、気をつけて、景貴妃があなたに目を付けているから心配よ」
「大丈夫です。この間は油断したけど、注意しますから」
凜妃は本当に優しい人だ。妃なのに偉ぶることもなく、他人への気遣いも半端ない。
「凜妃さまこそ、あの時あたしのことを庇ったりしたから、景貴妃に目の敵にされるんじゃないですか?」
「気にしないわ。そもそも、私では家柄も、陛下の寵愛も、容貌も何もかも景貴妃の相手にはならないもの」
自虐的になったわけではないにしても、返事に困って蓮花は黙り込む。
「そうだわ。これをあなたにあげようと思ったの。雪花酥よ」
凜妃は蓮花の手に菓子の入った包みを渡した。
「わあ、おいしそう!」
瞳を輝かせる蓮花を見て凜妃は笑った。
「甘い物が好きなのでしょう。一颯将軍から聞いたわ」
凜妃は口元に人差し指をたてた。
「他の人には内緒にして。これは蓮花にだけよ」
後宮に来て良かったことといえば、こうして村にいた時では口にすることのない珍しくておいしい菓子が食べられることくらいだ。




