イーゼルも額縁も不要のカンヴァス
写実的で美しい絵を描くのがカラーだ、なんて勝手に決められている新人がいる。
風景画を好んで描いている。弱冠十九歳の青年である。
だから、絵の搬入の時に名前を聞き返されることはしょっちゅうだし、勝手に同期の奴だと勘違いされることもある。
十九歳で美しい風景画を描くことで有名らしい、新人。
その新人こそ、名前を言うと聞き返され、同期の奴だと思いこまれる本人である。
名前は、江間龍成。龍に成る、でリューセイと言う。本名だ。
鯉だとか蛇だとかは龍になれるらしいが、果たして人間である孫はどうだろうか。というか、龍になれよ。という思いで祖父がつけたらしい名前だ。
釣り好きの親父と裁縫が趣味の母、俳句が趣味の祖父と料理好きの祖母。
文学部に進んだ姉に、活発な妹。
とにかく美術なんてものとは縁のない家庭に生まれた突然変異、なんて言われている。
遺伝子がどうだろうが関係はない。
今はそれより、早く江間龍成を俺だと認めてほしい一心である。
「……サークルでのご友人とかで、いらっしゃいます?」
受付にいる高校生だか中学生だか判断のつきにくい少女は、困り顔で尋ねる。
「……江間龍成です」
もう慣れたやり取りではあるが、正直毎回こうだとストレスもたまる。
江間龍成はあれか、好青年でないと駄目だっていう決まりでもあるのか、と心の中で悪態をつく。
髪をシルバーに染めて、ところどころに紫のメッシュを入れていたらいけないのか。
真黒い髪で学生服でなきゃ通してくれないのか。俺はもう、大学生なんだが。
ピアスやイヤーカフをしていたら、何か問題でもあるのか。描く時は外すよ、当たり前だろ。
『身分証明書でも見せれば納得するのか?』
めんどくささに顔をしかめながら、ウェストポーチから財布出して漁る。
「これ、学生証」
「……え?」
学生証の顔と俺の顔とを見比べる少女は、何度も何度も確かめるように学生証を見る。
その間に隣にいた少年が連れてきた顧問らしい男性教師が俺を見ると、信じられないものを見るような顔をした。
「江間龍成です。搬入したいんですけど、よろしいですか?」
「……え、えぇ? どうぞ……」
まったく、想定して遅めにトラックを呼んでおいて正解だった訳だ。
「三〇〇号海景用キャンバスだぞ? 他より断然時間かかるんだからよ……」
そう呟きたい気持ちになったが、これ以上印象を悪くするのも自分が困るだけだと思って心の中にとどめる。すれ違う高校生やら中学生やら、他の美術大の奴らがとにもかくにも、振り返る。
振り返って、隣の奴に「あれ誰?」だとか「抽象画系?」だの好き勝手話をしていく人混みを縫うように進む。
江間龍成。十九歳、大学一年生。抽象画は見るのは好きだが描くことはほとんどない。風景画系だ。
てか、抽象画系ってなんだ。あれか、髪の毛見て言ってんのか。
「リューセイ!」
「あい、なんすか先輩」
振り返ると同期の先輩、ようするに浪人した大学で同じサークルの元岡先輩がトラックから頭を出していた。
「時間、かかったな!」
「毎回毎回すいませんね、お待たせしちゃって」
肩をすくめながら言う俺に対して笑いながら、先輩はトラックに出してた頭を戻す。
元岡先輩は絵は描かない、彫刻をする人だ。
俺は時々、この同期の先輩に指導をしてもらいながら彫刻もする。
彫刻の搬入は昨日の内に終わっているから、気兼ねなく先輩に搬入の手伝いをお願いできる訳だ。
もちろん、俺だって先輩の搬入を手伝う。
まぁ、トラックを運転するのは先輩だが。
先輩と三〇〇号の海景用キャンバスを運びながら、ついでにちらちらと既に搬入済みの作品を見ておく。後で時間がある時、なんて言ってもいられないからだ。
「奥部屋なんて、よっぽど期待されてるなぁー」
先輩の言葉にも適当な返事をしつつ、ようやく運んだ奥部屋にはまだ作品がなかった。
白い壁。
無性に壁に絵の具をぶちまけたい衝動に駆られながら、そっと壁にキャンバスを掛ける。
白いものを見ると、どこであろうと無性にそこに色をつけてやりたくなる、困った衝動に駆られるのは俺だけだろうか。
一度体験すると病みつきになってしまう、こまった快感である。
できることなら、一室白い部屋に、海だとか山だとか川だとか、描きたい。それが小学校の体育館くらい広ければ、描き終わった瞬間嬉しさで死ねるかもしれない。
そういうことを言うと、大抵俺の衝動や快感、死因が伝わらないままで、会話は何事もなかったように続けられる。だから、心の中で何度もそう思いながら白い壁を見つめる。
「おい、リューセイ……」
「あ、はい」
先輩の声に反応して部屋を出る。
あぁ、俺にパトロンでもいればどんなにか幸せなのに、とは思わない。好みに合わせて絵を描いていく飼われた画家であるということは、俺の性分ではないからだ。
とにかく、俺の死因はあまりにも満足な条件がそろった絵を描けたことによる満足、となりたい。
そのためにも、最大の課題をクリアしなくてはならないのだ。見た事のない「生き物」を、言葉だけで伝えられる「風景」を描けなければいけない。
それは正直三〇〇号のキャンバスに好きなような海景を描いていれば良いと思っている幼稚な俺が、満足で死ねる大人になるための通過儀礼とも言えよう。
「江間君の課題、なんにしましょうか」
嫌な予感が朝から、というかもうこの講義の後期が始まった時から止まらない俺に、教授は頬笑みながら呟く。
水彩の風景画が大好きな女子に油絵の人物絵を描いてこい、と言ったり。
前期に俺は、得意とは言えない抽象画を三枚描かされた。
しかも、テーマを「山」「海」「空」という俺の胃をストレスでボロボロにする気かと言わんばかりの嫌味ったらしいものにされて。
だからとりあえず黙っておく。決まったものにも、文句は言わない。それだけ心に決めて、教授の顔を見る。
ところどころに白髪のまじった豊かな髪の毛に縁なし眼鏡がよく似合う老紳士のような風貌で、頬笑みの奥に何があるかは考えたくない。
「そうですね。……江間君」
「はい」
課題によって、今後のスケジュールが決まってくる。他の課題をどれくらいのペースで終わらせ、どれくらいの時間大学の美術室にこもるか。
決して他の教授から出される課題はおろそかにしているわけでない。あくまでも真剣にやって、出せるペースがどれくらいか、と考えているだけだ。嘘じゃない。
そしておそらく、同じような悩みを抱えている受講生はこの教授の講義が一番多い筈だ。教授が立ち上がって窓の外を見ながら、笑ったような、気がした。
「火の鳥……にしましょうか」
一気に血圧が下がった。火の鳥って何だ。朱雀って火の鳥だっけ。そんな燃えてる鳥なんて、ゲームとかアニメとか漫画とか、焼鳥屋とかそんなとこでしかお目にかかれないだろう。
「へ……?」
この人はあれか、俺にまた無理難題を押し付けているのか。
火の鳥なんて結果的に描いたら似たり寄ったりにならないか、あぁもうイメージは植えつけられたものでいっぱいになってしまった。
嫌な汗が背中を流れていく感覚にぞっとしながら、教授の背中を睨みつける。
まだ、まだ何か言う。
「後は……これを、宜しくお願いしますね」
そう言って教授が取り出した紙に、また血圧が下がったような気がする。
そっと開ける。
勢いよくだろうとそっとだろうと、内容に変化なんてないだろうが、一応心の準備のために欲しかった。
『今はない私のふるさと。日傘をさした母さんが、笑ってる』
勢いよく閉じる。黙ったままの俺に、教授は微笑んでいた。
「期限はみんなと同じように、二月十二日です」
その後から家に帰って貰った紙を取り出すまでの記憶があまりにもおぼろげであることに気付いたのは、紙を取り出した瞬間である。
誰と話したかも定かでない。というかどうやって研究室を出たかすら、覚えていない。
厄介な、という言葉で片付けられるレベルではない課題が出てしまった。
これは満足で死ねる大人になる前の通過儀礼で死ぬかもしれない、と呟いた。
美術展にも出たい、課題は終わらせなければならない。
そうでなければ、衝動を感じることも快感を得ることもできず、死因は満足に描けないことからくるストレス、なんてことになりそうだった。
「……ちくしょう」
部屋を占拠していると言っても過言ではない五〇〇号のキャンバスを引っ張り出しながら、頭を掻く。とりあえずは始めなければ、何も解決しない。しかし、小さいな。
「……くっつけるか?」
途端口から出た不穏な呟きに自分で身震いしながら、にらみ合いを始める。駄目だ、なんで呟いたんだろう。もう、四枚くらいくっつけて、思い切り描いてみたい衝動が止まりそうにない。大きくため息をつく自分の顔が、笑っている。
「ちくしょう……」
予想に反する絵を描く。
それは、どう見たってコンビニの前で仲間と群がってそうな風貌の青年が、桜や雪景色を描くことを好むことであり。
抽象画系にしか見えない頭がシルバーに紫メッシュの柄の悪い男が、一人静かに海やら川やらを見ながら密やかに感動することであり。
そして時に、言葉で綴られたどことも取れない、見えない風景に思いを馳せながら丁寧に色をつけていくかと思えば、豪快なんて言葉で片付けて良いだろうか、と周囲を驚かせるくらいの予想もできない、灼熱をその身にまとった神鳥を描くことである。
『 』
一人部屋で呟いた言葉は、そのままでなく絵で伝えてやるのだ、と拳を握って、江間龍成は笑った。