其ノ捌 忘却の彼方に
幽霊騒ぎを起こした鏡は、あの夜、老朽化に耐えきれずに割れた。
翌日の放課後、僕が再び現場に訪れた時にはもう、飛び散った破片も綺麗さっぱり片づけられ、額縁も撤去されていた。四角く日に焼けた壁の色だけが、そこに何かが存在していたことを辛うじて示していた。
踊り場で立ち尽くしていた僕の前を、何組かの生徒が通り過ぎていった。彼らは皆一様に、ふと何かに引っ掛かるようにその壁のコントラストに目をやった。だが、それが何なのか思い出そうとするほど興味も無いのか、その視線は一瞬で壁を素通りしていった。
きっとここにあった鏡のことを、すぐに皆忘れて行くのだろう。
そのことを僕は、ほんの少しだけ、寂しいな、と感じた。
幽霊騒ぎは、あっという間に収束した。
もしあのままあやかしが次の棲み処を探し続けていれば目撃者も増え、更に校内を賑わせただろう。だが、原因となった鏡もあやかしもいなくなったことで、噂は完全に消滅した。
最北の鏡――やはりそれは、あの鏡のことだったのだろうか。
結局ハルは、お告げの真意を最後まで教えてくれなかった。だが全ては終わったと――災いを退けたのだと言った。だから僕も、その言葉を信じたいと思った。
あれから数日経って、僕はひとり、溜め池の様子を見に行った。
ハルはあの夜以来、幽霊騒ぎのことなどまるで初めから無かったかのように、この件について触れることはなかった。きっとハルの中ではもう終わったことなのだろう。
だが、僕にはそう思えなかった。何がそうさせているのか、自分でも分からない。ただあれ以来、繰り返し脳裏に浮かぶのだ。あやかしの最後の一片が池に沈んでゆく光景が。
あの夜と同じように校舎裏のフェンスを潜り、草が伸び放題になったままの空き地へと向かう。
日が高いうちに見る空き地には、あの夜感じたような怪しげな雰囲気はなかった。だが、この前とは違う違和感のようなものが、途中から僕を支配した。
違和感は段々と嫌な予感に変わり、最終的には確信になった。
半ば駆けるようにして、空き地の真ん中辺りまで来た僕は、つんのめるようにそこに立ち止まった。
息を切らしながら、しばらく呆然とその場に立ち尽くす。
目に映った光景が信じられず、何度も目を擦った。
「――嘘、だろ」
あやかしが移り棲んだはずの池は――跡形もなく消えていた。
◇ ◇
「――おや、遅かったね、ゆきちゃん」
特別棟二階の怪異研究倶楽部の部室では、既にハルとしおりが宴会の準備を始めていた。
「昨日出たばかりの新作を手に入れたんだ。ほら、美味しそうだろう? この季節は良いね。桜や抹茶、苺と限定味が目白押しだ」
ハルは喜々として手元の袋菓子を僕に見せびらかしてきた。僕は返事をせず、古臭い柄の座布団がかけられた椅子に座る。
「どうした、ゆっきー? 元気がないなあ」
一言も発しない僕を横目に見ながら、しおりは匙で大雑把に掬った茶葉を急須に放り込む。よそ見をしながら手を動かしているせいで零れた茶葉が机に飛び散ったが、しおりは気にもせず話し掛けてきた。
「何か悩みでもあるなら、アタシが聞いてやろうか? 遠慮はいらないさ。ゆっきーとアタシの仲だからね、特別に無料にしておいてあげる。この前の学力テストの結果が散々だったことか? 新しいクラスにまだ一人も友人ができないことか? それとも――」
しおりはハッと何かに気が付いたかのような顔をして、急須にお湯を注いでいた手を止めた。
「――まさか、恋愛相談か?」
「全然違う」
押し殺した声は思いのほか低く響き、しおりの表情から冗談交じりの感情が消えた。
「じゃあ一体何なんだ? どうしてそんな不機嫌そうな顔をしている? お茶が不味くなるからやめておくれよ」
しおりは溜息を吐いて、並べた三つの湯呑みにお茶を注ぎ分ける。僕はジッとその手元を見つめた。
言いたいことも訊きたいこともたくさんありすぎて、何をどう伝えればいいのかが定まらない。そんな混乱した状態で話を切り出しても、真相を捕まえられないままハルに軽くあしらわれるのがオチだ。そう身に染みているからこそ、僕は迂闊に話し出すことができないでいた。
沈黙が広がった部室で、次に口を開いたのはハルだった。
「――ゆきちゃんは何か、私に言いたいことがあるんだね」
「――――」
「だけど、何をどう訊いたらいいか分からない、そうじゃないかな?」
心の内をずばり見透かされて、僕はぐうの音も出なかった。
顔を上げると、ハルがその翠色の左目で真っ直ぐ僕を見つめていた。だがそれよりも強く、前髪に隠れて見えないはずの右目から視線を感じた。
「この話を口に出したら、何か良くないことが起こる……或いは、望んでいない変化が訪れる……そんな不安が、君の中に渦巻いているのが見えるよ」
ハルはいつも、いとも簡単に僕の考えていることを当ててしまう。それどころか、僕自身が気付いていない無意識の感覚でさえも、見透かして、表に引きずり出してしまうのだ。
ここまで見抜かれているならば今更繕っても無駄だと、半ばやけになりながら僕は切り出した。
「――さっき、池を見てきた」
視界の端で、しおりが手に持っていた湯呑みをコトリと机に置く。
「あの夜の光景が……あやかしが池に沈んでいく様があれからずっと頭から離れないんだ。あのあやかしは確かに新しい棲み処を探していたけれど、本当にあの池で良かったのか、僕らのとった方法が最善だったのか、それをどうしても確かめたいと思った。だから、もう一度池を見に行った。そうしたら――」
僕は目を伏せて、先程見た、いまだ信じられない景色を瞼の裏に思い浮かべる。
雑草が生い茂る中、そこだけぽっかりと、丸く切り取られた大地。
まるで一夜にして池が干上がってしまったかのような、あまりにも不自然な光景だった。
「池がなくなっていた」
ハルは黙って僕の話を聞いている。
僕が言いたかったのはここまでだ。そして、ここからが、僕がハルに訊きたかったこと。
「あれは――ハルの仕業か?」
時々ふと忘れてしまうが、この目の前の女子生徒たちは、人ではないのだ。
いくら僕と同い年の見た目をしていても、その中身は最早人の領域を逸脱した存在。僕の想像を遥かに凌駕する時の中を生きてきた人ならざる彼女たちにとって、小さな池の一つや二つ、消えたところできっと何の問題もないのだろう。池とともに一体のあやかしがこの世から消えてしまったとしても。
ハルは古ぼけた笠を乗せたまま、小首を傾げた。
「さて、一体何の話かな」
「とぼけるな。全てはお告げに従うためにやったことなんだろう? 最北の鏡とは――あの池のことを指していた――違うか?」
ハルが興味深そうに目を眇める。
僕はずっと、あの幽霊騒ぎを起こした鏡が、お告げの云う最北の鏡だと思い込んできた――否、思い込まされてきた。
だが恐らく、お告げの指す本当の最北の鏡は、あの池だ。ハルはきっと、初めから分かっていたのだ。
あの池が災いを引き起こす何らかの予兆を放っていたとしたら、それを阻止するためにハルが手を打つことは当然だ。災厄を阻止するためなら、彼女は何だってやる。
例えば――あやかしを供物として捧げることさえも。
「ハルの目的は、最初からあの池を――「ゆきちゃん」
ハルが僕の言葉を遮った。
椅子を引いて立ち上がると、ハルは机を回り込んで、僕の目の前に立つ。見上げたハルは背中に西日を背負い、笠の陰になって表情がよく見えない。
「いいかい、ゆきちゃん。よくお聞き」
ハルは暗示をかけるように、そっと囁く。
「この学校の裏にはね、初めから池なんてなかったんだよ」
頭上から降って来た思いがけない言葉に、僕は耳を疑った。
「何を言ってるんだ……?」
「あの空き地に池があったことはない。これまでも――そしてこれからもね。分かったかな?」
「嘘つくなよ、だって――」
「ゆきちゃんは何か勘違いをしているね。それとも夢でも見たのかな?」
「違う、勘違いなんかじゃない……!」
駄目だ、おかしい。会話が噛み合わない。
あの夜、確かに三人で見たはずだ。まるで鏡のように水面に満月を浮かべる池の姿を。
それに、そもそもあやかしをあの池に引っ越しさせようと言い出したのはハルなわけで、今更何を――
「――可哀想に」
ハルが一歩、僕に近づいた。陰に隠れていた表情が現れる。
彼女は心の底から僕を憐れんでいた。ガラス玉のように綺麗な左目が、労わるように僕を覗く。
「きっと君は、疲れてるんだよ。だからそんな、おかしなことばかり言うんだね」
「――は?」
「少し眠った方が良い。大丈夫だよ。次に目が覚めた時は――全て元通りだ」
ハルが人差し指と中指で、トン、と僕の眉間を突いた。
それほど強く押されたわけでも無かったのに、僕の意思に反して、身体から強制的に力が抜けていく。
「な、ん……で……」
周囲の景色に輪郭が溶けだしたハルが、囁く。
――おやすみ、ゆきちゃん。いい夢を。
急激に視界が暗くなって、僕はそのまま眠りに落ちた。
◇ ◇
「――良いのか? ちゃんと説明しないままで」
崩れ落ちかけたゆきの身体を間一髪で支えたしおりが、ハルにそう尋ねた。ハルはすぐには答えなかった。しおりは力の入っていないゆきの上半身をそっと机に横たえてやった。
「珍しく、自力で正解に辿り着いたんだ。褒めてやっても良かったろうに」
「…………」
「可哀想にね。次に目を覚ました時にはもう、何もかもすっかり忘れてしまうんだから」
ハルはかけたままになっていたゆきの眼鏡をそっと外した。あどけない寝顔をしばらく眺めた後、度の強いレンズを通して歪んだ天井を見上げた。
「良いんだよ。ゆきは何も知らなくて良い。その方が身のためだ」
「……ま、ハルがそう言うなら、好きにしたらいいさ」
ハルは眼鏡を机に置くと、先程ゆきに差し出した新作の菓子袋を手に取ってその封を開けた。中から取り出した小袋から、ピンク色をした二枚入りのクッキーを取り出す。それを眼前に掲げながら、溜息のように言った。
「――この季節は良いね。菓子の色も鮮やかで心が躍る」
「ハルは本当に限定ものに弱いよね」
アタシにも頂戴と手を伸ばしたしおりに一つ、小袋を渡してやる。
「良い言葉じゃないか、期間限定。永遠なんてものより、遥かに素晴らしい」
桜味のクッキーを一口齧ると、ハルは部室の窓から空を見上げた。
「――さて。次のお告げは何だろうね」
第壱章 完




