其ノ漆 満月を映す鏡
「やれやれ、世話が焼けるねえ……!」
どこからともなく声がしたかと思うと、僕の上にのしかかっていたあやかしが、文字通り吹き飛んだ。
息を整えながら身体を起こす僕の、すぐ隣の空間がぐにゃりと歪んだ。
「油断は禁物だよ、ゆっきー」
いつも通り野球帽を被り、木製バットで肩を叩くしおりが暗闇からヌッと姿を現す。
「……普通に出て来れないのか? 心臓に悪い」
しおりは幼い頃に遭った神隠しの影響で、自由自在に姿を眩ますことができる。これまでもいきなり姿を消したり、反対に何もないところから現れてみたりして揶揄われたことはあるが、いまだに慣れない。急に姿を現されて悲鳴を上げなかっただけ偉い。
「おや、助けてやったのに感謝の一言もないのかい? 今時の若者は恩知らずだね」
「痛い、痛い」
鼻で笑いながら、しおりは僕のつむじをバットでぐりぐり押さえつけた。相変わらず粗暴だ。
ひとしきりそうした後、しおりはバットを肩に担ぎ直すと前方に向き直った。
しおりが木製バットで打ち返したあやかしは、僕が走って来た廊下のスタート地点まで吹き飛ばされたようだ。当然、しおりの所業に怒り狂っている。あやかしは先程とは桁違いの速さで、猛然とこちらに向かってきた。
「……ったく、怒らせてどうするんだよ!」
「ゆっきーが逃げ切れば問題ないさ」
「無責任なこと言うなよな……」
僕は立ち上がり、半開きになっていた外に通じる扉を全開にする。春の夜の、まだ少し肌寒い風が吹き込んで来た。
「さあ――ゴールはもうすぐだよ」
しおりの言葉に背中を押され、僕は再び駆け出した。
外は一帯が満月の光に照らされて、校舎の中よりも周囲の景色がよく見えた。そのお陰か、難なく予定のコースを突破し、草が伸び放題になっている空き地に辿り着く。
唸り声を上げながら猛追してくるあやかし。荒ぶる気配に内心冷や汗をかきながら、膝下まで伸びた草を踏み分けながら走る。
ここから先、何処に向かえば良いのか、僕は知らない。
こんなところに新たな棲み処があるとはどうにも思えない。
こんな、何もないようなところに、鏡など――
「……あっ!」
ようやくそのことに気付いて、僕は思わず声を上げた。
空き地の中心部には、小さな溜め池がある。
その池の畔に、一人の少女の姿があった。
「――ハル!」
時代錯誤な笠を被り、淡い蝶々の柄が入った羽織を纏う少女。
月の光をその身に受け、亜麻色の長い髪を春の夜風に靡かせながら、彼女はこちらを振り返った。
「――来たね」
池の水面には、夜空と同じ姿で浮かぶ満月。
そう――まるで、鏡のようだ。
「……だから、か」
あやかしの引っ越し大作戦の決行が今夜だったのは、今日が満月だったからだ。
行けば分かる――その言葉は、確かにその通りだった。
ハルがあやかしの次の棲み処に選んだのは、この溜め池だったのだ。
「――さて、始めるとしようか」
ハルは羽織の袂から一枚の紙人形を引き抜くと、口の中で何かを唱え始めた。凪いでいた池の水面が徐々に波打ち、映っていた月の輪郭も崩れていく。空き地を覆う雑草が、音を立てて騒めく。
僕は出来る限りあやかしを池の近くまでおびき寄せようと、ぎりぎりまで走った。道なき道を掻き分けながら、ハルの目の前に躍り出る。
「――今だ」
笠の下、ハルの左目が一瞬強く光った。
ハルが紙人形を月光の下に掲げるのと、僕がハルの背後に転がり込んだのとほぼ同時だった。
僅かの差で、僕を捉え損ねたあやかしが、みるみるうちに巨大化した紙人形に絡みつかれる。あやかしは奇声を上げながらもがいていたが、やがて時間を掛けて少しずつ池の中に引きずり込まれていった。
ポチャン――と最後の一片が水面下に沈んで、辺りは静寂に包まれた。
池の水面もまた、何事も無かったかのように満月を浮かべ直す。
上がっていたはずの息はもうすっかり落ち着いて、夜風が肌寒く感じ始めた。
「お、上手く行った?」
ガサガサと音がして、呑気な声が届いた。振り向くと、しおりがその輪郭を闇から切り出したところだった。
「うん、終わったよ」
ハルはそう返事をしてから、池の畔に座り込んだままの僕を見下ろした。
「ご苦労だったね、ゆきちゃん。久しぶりに走った感想はどうだい?」
「――明日はきっと、筋肉痛だ」
それは大変だ、とハルは微笑んだ。
「君があやかしをここまで連れて来てくれたから、無事に引っ越しが終わった。今日一番の功労者は君だよ、ゆきちゃん」
ハルが素直に僕を労うのは珍しい。何だか居心地の悪い感じがして、僕はハルから目を逸らす。そのまま、何とはなしにあやかしが消えていった池を眺めた。
「あのあやかしは……大丈夫だろうか」
どうしてそう言ったのか、自分でも不思議だった。あやかしの身を案じるつもりはないのだけど、それにしても、何だか少しばかり強引な引っ越しだったように思えたのだ。
だがハルは、一片の迷いもなく断言した。
「大丈夫、何の問題もないさ。その証拠に――ほら、もう君の眼鏡のことは諦めたようだよ」
「え……?」
指をさされて視線をおろす。地面についていた右手首からは、あの醜い痣が驚く程綺麗さっぱり消えていた。軽く動かしてみたが、痛みも全くない。
「本当だ……」
「だろう? だから何の心配もいらないよ。何の心配もね」
「あのあやかしは広くて新しい家が手に入ったし、ゆっきーは眼鏡を守れたし、これで万事解決。めでたしめでたしだな」
しおりがバットで肩を叩きながら、帽子の唾を持ち上げた。
「満月の夜に相応しい幕引きだ」
「――めでたし、か」
そう口に出したことで、緊張の糸が切れてドッと疲労が押し寄せた。早くも筋肉痛の片鱗を感じ始め、僕は地面に投げ出した足を揉みながら大きく息を吐いた。
ここのところ幽霊騒ぎの噂に振り回されて落ち着かない日々が続いたが、ようやく平穏を取り戻せたことに、僕はひとまず安堵した。
だが、ざらついた気持ちを全て拭い去ることはできなかった。
二人の言う通り万事が上手くいったはずだ。
それなのに僕は、どうにも手放しで喜べない。
「――嗚呼、ゆきちゃん。見て御覧。月がとても綺麗だ」
いつもと変わらず穏やかなハルの声に誘われて、夜空を見上げる。
片田舎の、明かりの少ない夜。雲一つない空には、まん丸とした大きな月が煌々と浮かんでいる。そこから視線を徐々に下げると、池の水面にもう一つ、まったく同じ形をした満月が映っていた。
「――まるで本物の鏡みたいだなあ」
僕の隣に立つしおりが、池を眺めながら感慨深そうに言う。
「そうだね。これが見納めかと思うと――少し残念だよ」
「え――」
ハルの言葉に引っ掛かった僕が振り向いた時にはもう、二人は池に背を向けて歩き出していた。
「あ、ちょっと、置いてくなよ……!」
僕は慌てて立ち上がった。
ズボンについた草を払いながら、後ろ髪を引かれてもう一度、池を見ようかと思った。
だけど僕は結局一度も振り返ることなく、二人の背中を追い駆けた。
頭上では、春の夜の満月が僕らを静かに見守っていた。




