其ノ陸 真夜中の引っ越し大作戦
その日の夜、僕らは再び学校に集結した。
あらかじめ開けておいた一階の教室の窓から校内に忍び込んだ僕は、一度靴を脱いで、窓の外に土を払い落とした。明日の朝、廊下に足跡が残っているなんて事態は絶対に避けたい。
懐中電灯で慎重に足元を照らしながら、鏡のある踊り場に向かう。
静まり返った校舎の中は、水を張った桶のように張り詰めている。ポタリ、と一滴落ちただけで、あらゆるものが溢れ出してきそうな、そんな怖さがあった。あやかしが視えるからといって、別に耐性があるわけではない。あやかしも、幽霊も、暗闇も、怖いものは怖いのだ。
二階に辿り着いた。階段の目の前に現れたのは、各階に設置されているトイレ。扉のない四角い入り口が、深い闇の奥を見せつけるようにぽっかりと口を開けている。そこから何かが飛び出してくる想像が容易にできてしまい、僕はそれを振り払うように口の中で念じた。
「……駄目だ。何か楽しいことを考えろ」
だが、そう簡単に気持ちを切り替えられるはずもなく、「楽しいこと」という文字だけが頭の中をぐるぐると回る。暗闇は僕の肌に触れる距離にぴったりと寄り添って離れない。
三階を通り過ぎてもそんな状態が続いた。僕は無理に明るく振る舞う――脳内においての話だが――のをとうとう諦め、この後の段取りをもう一度反芻した。
ハルの立てたあやかし引っ越し大作戦の内容はこうだ。
まず、不本意ながら修理から戻ってきたばかりの僕の眼鏡を餌に、鏡からあやかしを引っ張り出す。
現れたあやかしを、僕が引き付けながら新たな棲み処へ誘導する。
新居に辿り着いたら、ハルがあやかしをその場に定着させる――といった具合だ。
毎度のことながら、一番重荷を背負わされるのは僕だ。僕があやかしに捕まってしまったら、この作戦は失敗に終わる。万が一捕まりそうになったら助太刀するから心配無用だとしおりは豪語していたが、彼女がどこであやかしを待ち受ける手はずなのか、僕は全く知らされていない。これもいつものことだ。
不安に包まれながらも、足は着実に現場に向かっていく。そうしてとうとう、再びあの鏡の前にやって来てしまった。
「夜だと尚更、おどろおどろしいな……」
今宵は満月だ。いつにも増して輝く月明かりが、頭上の窓から差し込んでいる。とはいえ、暗闇は変わらずそこかしこに潜んでいて、いつでも僕を覆い隠そうと息を潜めていた。昼間と同じように佇んでいるはずの鏡も、どことなく怪しげに見えてくる。
「……よし。とにかくさっさと終わらせよう」
僕はごくりと唾を飲み込み、懐中電灯を消して鏡に近づいた。
反射した月明かりが、前には気が付かなかった鏡面の汚れを浮き上がらせている。やはり相当年季が入っているようだ。
左上部のヒビは、どうなっているだろうか――
視線を持ち上げたその時、こちらをジッと見つめる二つの目と、バッチリ目が合ってしまった。
「うわあ……!」
一気に汗が吹き出した。腰を抜かさなかっただけ自分を褒めてやりたい。あやかしは、その大きな目を少しも逸らすことなく、たじろいて数歩後退した僕の眼鏡に狙いを定める。
『――シイ、――エ、――ア――シイ、イエ――』
低いとも高いともつかない奇妙な声をあげると、あやかしは前と同じく鏡の中から飛び出してきた。と同時に――左上部のヒビがみるみる全面に広がり、ついに、パリンと音を立てて鏡面が崩れた。
「……くっ!」
キラキラと輝きながら頭上に降り注ぐ鏡の破片に、僕は思わず目を瞑って腕で頭を覆う。それでも腕をすり抜けた鋭利な欠片が、頬を掠めてチクリと痛みが走った。
大小さまざまな破片が踊り場に跳ねる耳障りな音が、その場を賑わせる。
『――エ、――ア――』
それに負けず劣らず、あやかしの不気味な声が鼓膜を震わせた。
その声が間近に迫ってきているのを感じた僕は、顔も上げずに脱兎のごとく階段を駆けおりた。
少し遅れてあやかしの気配が僕の背中を追い駆けてくる。鏡から誘い出すという第一段階は、何とか成功したようだ。
急いで灯した懐中電灯の光が、腕の振りに合わせて大きく揺れる。スニーカーが床に擦れる音が、真夜中の校舎に大きく響く。心臓が弾む音、一定のリズムで呼吸する音。僕自身が発する音が、僕とともに階段を駆け抜ける。
準備運動は入念にしたつもりだったが、久しぶりの全力疾走に身体が悲鳴を上げている。明日は全身筋肉痛かもしれない――そんな感想がふと過った。
のぼってきた時の半分以下の時間で一階まで駆けおり、地面に飛び降りるように着地した。ここからは先は、突き当たりを目指して廊下を一直線だ。背後のあやかしを意識しながら、僕は頭の中にこの先のコースを思い浮かべた。
廊下の突き当たりには外に通じる扉があり、そこから校舎裏に出られる。外に出たらすぐに敷地を囲うフェンスに出くわすが、フェンス沿いに数メートル行くと、金網が壊れている箇所がある。そこを潜り抜けて、更に荒れ果てた空き地を縦断する。その先に、ハル曰く「とっても素敵な新居」があるらしい。目的地がどこなのか、ハルは最後まで教えてはくれなかった。
――大丈夫。行けば分かるよ。
ハルはそう言って、笑った。
別に彼女を信じているわけではない。そんなあやふやな作戦で大丈夫かという不安はある。それでもこうして、今、深夜の学校を駆け抜けているのは、多分――大いに不本意だけれど、僕は、走りたかったのだと思う。
――ゆきちゃん、久々にひとっ走りしないかい?
そう尋ねられた時、確かに身体が疼いた。
毎日走り続けていたあの日々が、脳裏に蘇った。
そう昔のことでもないのに、思い出さないように押し殺していたせいか、やけに色褪せた記憶。
見慣れたグラウンドの景色、等間隔に引かれた白線、スタートの合図をするピストルの音、表彰台で首にかけられたメダルの重み――
あの頃、走ることが生きていることと同じぐらい当たり前に生活の中にあった。
何の憂いもなく、迷いもなく、この先も走り続けることができると純粋に信じていた。
けれど、その未来は呆気なく絶たれた――あやかしに視力を奪われたことによって。
それ以来、僕は走るのを辞めた。
廊下の突き当たりは、この世の全てを煮詰めて凝縮したかのように暗い。
外へ通じる扉はあらかじめ開けておくとハルは言っていたが、この暗闇では扉の輪郭自体、もっと近づかなければ掴めそうもなかった。
『ア――エ――』
あやかしの気配は僕の背中にピッタリとくっついて離れない。伸ばした手がギリギリ届かないぐらいの距離をつかず離れずついてくる。
廊下に差し掛かったことで、僕は少しばかり強気になっていた。階段に比べたら、直線距離の方がまだスピードが出しやすい。窓から差し込んだ月明かりが廊下の床に等間隔に描いた模様を、リズムを取る基準としながら、呼吸を合わせる。
硬い廊下を蹴る足の裏の感触が、思考すらも支配していく。
僕は束の間、ただ走ることだけに没頭した――それがいけなかった。
あやかしの存在が意識の外に押し出されたその一瞬で、僕はあやかしの気配を見失った。
「――え」
ハッと我に返り、急停止して振り返る。だが、そこにいたはずのあやかしの姿はなかった。
肩で息をしながら、周囲を見渡す。
慎重に、闇に目を凝らす。
世界が明るかろうが暗かろうが、あやかしが視えることに変わりはない。
なのに、見つからない。
「どこだ……? どこに……、あっ!」
突如、背後から力任せに引っ張られ、廊下に引き倒された。
『――ア――シイ、――エ――』
強かに後頭部をぶつけ、涙目になっている僕の目の前に、ゆらりとあやかしが現れる。
黒い影はその境目を闇に溶かしていて、まるで夜闇に二つの大きな目玉が浮いているかのようだ。
その二つの目は僕を射ぬくように捉え、口は僕を呑み込むほどに大きく開かれ、黒い手が僕の眼鏡を目がけて迫る。
僕はギュッと目を瞑った。
あやかしが視えるからと言って、対処ができるわけではない。それなのに僕は、あやかしと勝負をしている気になっていた。捕まらない自分が、あやかしより優れているような気にさえなっていた。あやかしにとっては僕など、取るに足らない存在であるにも関わらず。
僕はただ、気まぐれに遊ばれていただけなのだ。
その気になればこのあやかしは、いつでもこうして僕を捕まえることができたのだから。
『――ット、――エ――ケタ……!』
最早これまでか――そう覚悟したその時だった。




