其ノ伍 ハルの推測
「――いやあ、それは災難だったね」
僕の報告を聞き終えたハルは開口一番そう言った。相変わらず呑気な物言いがとても癪に障る。
「こんなに酷い目に遭ったのに、言うことはそれだけか?」
怪異研究倶楽部の部室で、いつも通りの席に座り、いつも通りお茶とお菓子を机に並べているハルを、僕は精一杯の力で睨んだ。
昨日、壊れた眼鏡で家まで辿り着けたのは奇跡だった。今日は引っ張り出してきたお古の眼鏡を使っているが、年々視力が落ちているせいか度が合っていない。一日中頭痛に悩まされた苛立ちをぶつけるように、僕はハルを問い詰めた。
「知っていたんだろ?」
「……何のことかな?」
「とぼけないでくれ。最初から分かっていたんだろ? 噂の幽霊の正体が、鏡に棲むあやかしだってこと」
ハルは黙ってお茶を啜っている。しおりも目を伏せて腕を組んだまま動かない。口を挟むつもりはないらしい。
「最初から分かっていて、聞き込みさせたり、現場に行かせたりしたわけだ。僕が阿呆みたいに翻弄されるのを見てさぞ楽しかっただろうな」
この学校に長く居座るハルが、鏡のあやかしのことを知らないわけがない。それなのに彼女は、お告げの示した最北の鏡のことも幽霊騒ぎのことも、何も知らない振りをして、僕にあれこれと指示をしてやらせたのだ。それが何の意味もないことを分かっていながら。
「――君の言う通りだよ」
ハルは湯呑みを置き、頭の上の笠を少し持ち上げた。ガラス玉のような左目が僕を真っ直ぐに捉える。そこにいつもの柔和な笑みは無かった。
「私はあそこにあやかしが棲んでいることを確かに知っていた。開校から何度か住人が入れ替わって、一番新しいあやかしが棲みついたのがだいたい半年前ぐらいになるかな。しおりが知らなかったのも無理はない。ほとんど人前に姿を現さないとてもシャイなあやかしのようでね、私もその姿を見かけたのは一度きりだ」
「ほら、知ってたんじゃないか――」
「けれど私が君に調査を依頼したのにはちゃんと理由があるのさ」
僕の言葉を遮り、ハルは続けた。
「私もね、分からなかったんだ。あやかしがあの鏡に棲みついてから暫く経つが、何故今になって人前に姿を現し始めたのかということを」
「それは……」
僕は言い淀んだ。
確かにその理由はいまだに不明だ。半年前からあの鏡に潜んでいながら、どうして今になって姿を見せ始めたのか。そのきっかけは、一体何なのか。
「でも、ゆきちゃんが目撃者に話を聞いてくれたお陰で、その理由が判明したんだ。あのあやかしはね――次の棲み処を探していたんだよ」
「次の、棲み処……?」
ハルは軽く顎を引いて頷いた。
「そう。次の棲み処――つまり、鏡だ。目撃者に共通していたのは、鏡を所持していたということだ」
ハルが彼らの荷物を気にしていた理由はここにあったようだ。
一人目の村岡さんは、手鏡を持っていた。二人目の星野先輩は望遠鏡。確かに共通点はある。
しかし――
「三人目の小堀くんは、確か手ぶらだったはずだぞ? 鏡なんて――」
「――眼鏡」
「え……?」
「彼は眼鏡をかけていたと、君はそう言ったはずだよ」
――背はちょっと低くて、髪の毛は少し長めで、眼鏡をかけていて、どちらかといえば大人しそうな感じの子だったな。
ハルに小堀くんの容姿を訊かれてそう答えたのは紛れもなく自分だ。
「じゃあ、僕が襲われたのも……眼鏡をかけていたから……?」
「そうだろうね。その上君が視える側だと分かったことから、勢い余って飛び出して来たのだろう」
あのあやかしが僕の顔面を狙って来たのは眼鏡が欲しかったから、ということか。だが眼鏡は運悪く弾かれて手の届かないところへ飛んで行ってしまった。だからあやかしは、大人しく鏡の中へと戻って行ったのだろう。
「でも……他の三人にあやかしが視えたのはどうしてなんだ? 彼らにあやかしを視る力があったってことか?」
「そこは色々な偶然が重なったのだろうね。もちろん、彼らも自覚が無いだけであやかしを視る力があるのかもしれないし、鏡を媒介として一時的に親和性が高まった可能性もある。単に黄昏時の悪戯だったということも考えられるけど……まあ、その辺の理由には興味が無いね。彼らが人ならざる何かを目撃したということは事実なのだから」
ハルは電気ポットから急須にお湯を足した後、目の前の菓子袋から次に開けるものを選び始めた。僕は先ほどまでの苛立ちも忘れ、脱力するように椅子の背もたれに身体を預けた。
幽霊だと思われていたのは本当は鏡に棲むあやかしで、そのあやかしは新しい棲み処を探すため、鏡に相当する物を所持していた人の前に姿を現した――ハルの考えは確かに納得がいく。
だが、これだけではまだ足りない。
鏡のあやかしは、何故今になって次の棲み処探しを始めたのか――ハル自身が呈した疑問に対する解答としては不十分だ。
僕の心中を察したかのようなタイミングで、煎餅の袋を手にハルが尋ねた。
「ところでゆきちゃん。昨日現場で実際に鏡を見てきたね? あの鏡、どこかおかしなところは無かったかい?」
「おかしなところ……?」
頭の中に昨日見た鏡の姿を思い浮かべてみる。そう特別気になるところはなかったはずだ。ある一点を除いては。
「そういえば、鏡の上の方にヒビみたいなものがあったような……」
真っ二つに割った煎餅を目の前に掲げて、ハルは力強く言った。
「それだよ、ゆきちゃん。この幽霊騒ぎの発端はそれだったんだ」
「……どういうことだ?」
「あの鏡はこの学校の開校記念として寄贈されたもの――つまり、かなり年季の入った代物なわけだ。君が見た通り、あの鏡はヒビが入り始めていて、そろそろ寿命を迎える。だからあのあやかしは新しい棲み処を探し求めるようになった。恐らくこれが、半年前に棲みついたはずのあやかしが、今になって人前に姿を現すようになった理由だよ」
「なんだ、幽霊騒ぎの真相は、蓋を開けてみればただのあやかしの引っ越し案件だったってことかい」
しおりは拍子抜けしたように組んでいた腕を解いて、空になった湯呑みをハルに差し出した。
「新たな棲み処は今より良いところがいいからね。物件探しは慎重にもなるさ」
ハルはしおりと自分の湯呑みにお茶を注いだ後、新たに取り出した紺色の湯呑みに残りを注ぎきる。
「……でも、その話だとあの鏡はそのうち割れてしまうってことだよな? それは危ないだろう。早く先生たちに伝えないと。もし誰かが通りかかった時に割れて怪我なんかしたら……」
「まあまあ。そう焦らず、お茶でもお飲み」
そう言ってハルは、湯呑みを僕の前に置いた。
思わず利き手の右手を伸ばしかけ、僕は小さく顔を顰めた。ハルはそれに目敏く気付く。
「――ところでゆきちゃん、こちらも一つ訊きたいんだが?」
「……何かな」
「その右手はどうした?」
「えっと……うわっ」
言い訳を考える前に、身を乗り出したハルに腕を掴まれて袖をまくられた。その下に貼っていた、既に乾いて使い物にならない湿布も容赦なく捲られる。覗き込んだしおりは、輪のように手首に残った赤黒い痣を見て眉を顰めた。
「わお、こりゃまた、派手にやられたねえ」
「酷い痕を付けられたね。さぞ痛いだろうに、ずっと我慢してたのかい?」
ハルがするりと手首を撫でる。たったそれだけのことで鋭い痛みが腕を走り抜け、僕は呻いた。
「あのあやかしは、どうやら君の眼鏡が気に入ったようだね。これは君にもう一度会いたいって印さ。熱烈なラブコールだよ」
「それは……とても迷惑だな。これ、どうやったら消えるんだ?」
「確証はないけど、新しい家が決まったら、解放してくれるかもしれないね」
「でも、僕の眼鏡はあげられないぞ」
「実は昨日、次の家に相応しい物件を下見に行って来たんだ。もしかしたら、気に入ってくれるかもしれない」
ハルは僕の腕からそっと手を離すと、天井を仰いだ。
「確か今日は満月だったね。ゆきちゃん――久々にひとっ走りしないかい?」




