其ノ参 噂の幽霊騒ぎ
「ゆ、幽霊……?」
「あれ、聞いたことない?」
しおりは首を傾げると、まだ半分ほど中身が残っているポテトチップスの袋を机の上に放り投げ、椅子に背中を預けた。
「春休みの間の出来事だから、まだそんなに広まってないのかもな。内容としてはありきたりな怪談話さ。屋上に通じる階段の踊り場にある古い大きな鏡に、幽霊らしきものが映ったのを生徒が数人見たって話」
しおり曰く、幽霊らしきものとはぼんやりとした人影だったそうだ。
僕の中に芽生えた疑心が二人に対する視線に含まれたことに、いち早く気付いたのはハルの方だった。
「――おやおや、ゆきちゃん。もしかして私たちのことを疑ってるのかい?」
「……違うのか?」
探るように問う。
日頃から僕に面白おかしくちょっかいをかけてくる二人ならやりかねない。暇を持て余し過ぎて、ちょっと幽霊騒ぎを起こしてみたと言われても驚きはしない。
だが、しおりはとてつもなく心外だという顔をした。
「失敬な。アタシたちが揶揄うのは後にも先にもゆっきーだけさ。他の生徒たちに手出しなんてしないよ」
「そうだよ、ゆきちゃん。私たちがこんな陳腐な幽霊騒ぎを起こすわけがないだろう? やるならもっと派手にやるさ」
「……余計駄目だろうが」
聞き捨てならない台詞ばかりだが、確かにこれが二人の仕業だったとするならばちょっとばかり地味ではある。人通りの少ない鏡にわざわざ人影を映して怖がらせるなんてちまちましたことはしないだろう。
「それにしても幽霊騒ぎとは――時代が変わっても人は変わらないものだねえ」
ハルはクッキー缶に手を伸ばしながら、可笑しそうに笑った。
「でも、本当に幽霊なんかいるのか?」
何気なくそう言うと、頬杖をついたしおりが興味深そうに目を細めた。
「へえ……面白いな。ゆっきーは幽霊を信じないんだ? あやかしは視るのに?」
「だって、あやかしと幽霊は別物だろう?」
ハルが「ほう」と呟いた。
「ゆきちゃんは何故、そう思うんだい? あやかしと幽霊が別物だと」
「何でって……そりゃ、あやかしは人間とは全く別の存在だろ? だけど、幽霊は元々人間だったものじゃないか」
「なるほど――ゆきちゃんの中ではそういう区別になっているんだね」
「……何だよ。違うって言いたいのか?」
「まさか。この話に正解も不正解もないさ。君がそう思うなら、それで良い。でもね――」
ハルは肩から滑り落ちかけていた羽織を手繰り寄せると、柔和な笑みを浮かべた。
「この世の中、そう簡単に区別をつけられるものばかりじゃあない。いつだって境界は曖昧だ。ほら、まさに良い例が目の前にいるだろう?」
言われて僕はようやく思い至った。
目の前の二人はまさしく幽霊ともあやかしともつかない存在だ。
幽霊と言うには存在感がありすぎるし、あやかしと言うにはあまりにも人間臭い。ハルたちを型にはめて定義しようとするのは難儀だ。
人ならざる存在――そんな曖昧な表現が、この二人には丁度良い。
「あやかしとか、幽霊とか、妖怪とか、怪異とか、一々大袈裟に区別する必要なんかない。そんな名前に拘るよりも、目の前にいるその存在自体の本質を見極めることの方が、よっぽど大事だと私は思うよ」
まあ、老人の戯言だと思って聞き流してくれと付け加えて、ハルは手元のクッキー缶に視線を落とした。
「何はともあれ、新学期早々愉快な出来事に胸が躍るね。今年も良い一年になりそうだ」
「……僕は愉快より平穏が良かったけどな」
「相も変わらずつまらない男だなあ、ゆっきーは」
しおりはそう言いながら、ハルが放置した空の菓子袋を器用にゴミ箱に投げ入れた。
「五月蠅いな。ほっといてくれ」
「はいはい……ああ、ちょっとハル、煎餅は湿気るからすぐに封をしなきゃ駄目っていつも言ってるだろ、まったく」
しおりは封が開けられたままの煎餅の袋を急いで取り上げ、ついでに一枚口に咥えながら洗濯ばさみで袋を閉じる。
「――で、話を元に戻すけど、その幽霊騒ぎの発端は誰なんだ?」
ふがふがと煎餅を齧っていたしおりは、それを飲み込んでから思い返すように説明した。
「ええと……一人目の目撃者は確か一年生の――ああ、春休みの時点だから、今は二年生――つまりアタシたちと同学年の女子生徒だよ。夕暮れ時、踊り場を通ってふと鏡を見たら、その中に人影のようなものが映っていて、こちらをジッと見ていたらしい。驚いてその子はすぐにその場を離れたらしいんだけど、その数日後、今度は別の男子生徒がやはり夕暮れ時だね、その鏡の前を通りかかったところ、同じように鏡に幽霊が映っているのを見たんだとさ」
ハルが「人影ねえ……」と意味深に呟いた。
「何か、思い当たる節でもあるのか?」
訊いてみたが、ハルは首を横に振った。
「いいや、残念ながらその話だけでは何とも。それが本当に幽霊なのか、あるいはただの見間違いなのかまだ何も分からない。情報が足りないよ……しおり、そこの、それ、取ってくれるかい。ええと――」「甘納豆ね」
指さされた甘納豆の大袋を渡してやりながら、しおりが独り言のように言った。
「まあでも、幽霊じゃないけど、あの鏡にあやかしが棲んでいたことはあるねえ」
「えっ、そうなのか?」
それは初耳だ。それほど頻繁に通る場所ではないものの、この一年で何回か前を通ったことはあるはずだ。だが、これまで一度もあの鏡にあやかしの気配を感じたことはない。
僕の驚きように、しおりは笑って訂正した。
「大丈夫、今はもういないよ。随分と昔の話さ」
「なんだ、びっくりした……」
「あの鏡はこの学校が開校した時、記念に寄贈されたものでね。ここで一番の地主が、自宅にあった曰くつきの鏡の処分に困り、寄贈という形で体よく学校に押し付けたんだと、当時もっぱら噂になったんだよ。懐かしいねえ。曰くつきなのは本当だったんだけど、結局あそこに棲んでいたものはそれほど悪さをすることもなく、気付いたら他所に移って行っていたな。それからは何度か住人が入れ替わって、今は空き家になっていると思ってたんだがね」
「しおりは本当に昔のことをよく覚えているねえ」
感心するハルに、しおりは照れ隠しするように早口で続けた。
「あれはアタシが初めて高校にあがった年のことだから、よく覚えているだけさ。ほら、入学式の後に開校記念の式典があって、とても退屈だったから抜け出して中庭で花見をしただろう」
「ああ――そんなこともあったかもしれないね」
この学校は昨年創立五十周年を迎えたところだ。記念に作成されたアルバムの白黒写真よりも鮮明な記憶が目の前に並んでいることに、何だか奇妙な気持ちになる。
話に花が咲いてしまい、完全に僕は蚊帳の外になってしまった。年寄りの昔話は恐ろしく長い。しばらくは軌道修正不可能だ。僕は机の上に散らばった菓子を片付けながら、二人が回想から戻って来るのを待った。
僕の知らない遥か昔の学校を、しおりはよく覚えてるようだ。ハルの記憶を呼び覚まそうと、しおりはあれこれと当時の情景を語っている。その姿はどう見ても僕と同じ高校二年生にしか見えないが、しおりもまた、ハルと同じく人の道を踏み外して久しい。
しおりは幼少の頃、弟とともに八坂の森で神隠しに遭った。
暫く経ってから、弟の所持品だった野球帽と木製のバットとともに、彼女だけが森の中で発見された。
神隠しから生還したしおりは、身体が透明になるという特異体質になった。人として生きることが困難になった彼女はハルに拾われ、それ以降ハルとともに高校生として気の遠くなるような長い余生を過ごしている。
「……それにしてもハル、アタシたちは今年で二年生が何度目になるんだっけ?」
「さあねえ、もう両手両足の指で足りなくなった時に数えるのをやめたから、覚えていないよ」
「ま、それもそうか。流石にアタシたちも手足は二本ずつしかないしね」
「そうそう」
頷きながら、ハルはまだ未開封だった箱菓子を手に取り、中から取り出したピンク色のチョコレートを口に放り込んだ。
「うん。期間限定の桜味、なかなか美味だね。ほら、ゆきちゃんもお食べ」
ようやく昔話に一区切りついたようで、ハルが思い出したように僕にチョコレートを箱ごと寄越してきた。嫌な予感がした。ハルが僕に気前よくお菓子を与える時は、決まって何か面倒事を押し付けたい時だ。
「――で、ハルは僕に何をさせる気だ?」
先回りして尋ねると、ハルはわざとらしく片目を見開いてみせた。
「おや、ゆきちゃん。珍しく察しが良いじゃないか」
「珍しくは余計だ」
「ふふ、ゆきちゃんもようやく倶楽部の一員としての自覚が芽生えたのかねえ、嬉しいねえ」
ハルは戯言を言いながら、目を閉じて顎に手を当てた。
「まずはその、面白そうな幽霊騒ぎの詳細を知りたいね」
「この件、今回のお告げと何か関係があるのか?」
「馬鹿だね、それをゆっきーが調べるのさ」
横から口を挟むしおりを僕は無視した。
「幽霊を見たという生徒のところに話を聞きに行っておくれ。その時の状況をなるべく詳しく――ああ、できればその時何を持っていたのかも聞いておいて欲しいな」
「あれ、鏡の方は見に行かなくても良いのか?」
てっきり、まずは現場を調査しろと言われるものだと思っていた。これまで何度も使い勝手の良い囮として現場に放り出されては、危ない目に遭わされてきた。見た目の穏やかさを裏切るハルの人使いの荒さに、この一年僕は頭を痛めてきたのだ。
「うん、そっちは後でも良いんだ。とにかくまずは、もう一度幽霊が出た時の状況を整理したい。きっと幽霊を見たという生徒には、何らかの共通点があるはずだからね。それが分かれば、この幽霊騒ぎの輪郭も鮮明になるだろう。そして最北の鏡に注意されたし――このお告げの意味も、自ずと理解できるはずだ。頼んだよ、ゆきちゃん」
「……だから、そう呼ぶのはやめろって」
窓の外で強い風が吹き、桜の花が散った。
高校二年生の春は、こうして鏡に纏わるお告げから始まった。
僕にとっては初めての、そして彼女たちにとってはもう何度目か分からない、二年生の始まりである。




