其ノ壱 古田ゆきの受難
古来より、天の意志を民に伝える役目を与えられし者。
右目と引き換えに稀有な力を宿したその者を、人は「告げ師」と呼んだ。
◇ ◇
高校生活二回目の春が来た。
朝、校舎の玄関口に貼りだされた組分け結果を前に、僕――古田ゆきは絶句した。
「おいおい、嘘だろ……」
所詮は田舎の高校。少ない生徒数ではどうしても組み合わせに限りが出てくるというもの。
それは承知の上だが、それでもまた、あの厄介者たちと同じ組になるとは思ってもみなかったのだ。
「偶然、だよな……?」
そう願いたい。あの厄介者たちならば偶然を必然にするぐらい朝飯前だろうが、これは公平公正な先生たちの評議によって決まった組み分けなのだと信じたい。そうでなければ怖すぎる。
僕の名前の隣に平然と並ぶ二つの名前。
目を擦って何度見ても、あるものはある。残念ながらこれは夢ではなさそうだ。
僕は溜息を吐いて、がっくりと肩を落とした。二週間前の終業式の日、これでやっと厄介払いができるとほくそ笑んだ自分を殴りたかった。
「おはよう、ゆきちゃん。また同じ組になるとは奇遇だね」
囁くような声が耳元を掠めた。落ち着いた、しかし春の陽気のように暖かみのある声。
「うげ……」
いつの間にか隣に、亜麻色の髪の女子生徒が立っていた。まさしく今思い浮かべていた厄介者其の一の華麗なるご登場だ。
「おやおや、随分とご挨拶じゃないか。そんな態度をとって後々後悔するのは君の方だよ、ゆきちゃん」
「そう呼ぶのはやめろと、何度言ったら分かるんだ」
厄介者其の一こと神田ハルは、僕の反論に目を細めて笑った。
「さて、何の問題があるのかな? 私は気に入っているのに」
「問題大ありだ、馬鹿。僕は高校二年生になったんだぞ。もう子どもじゃない」
「残念だけど、私から見たら君はまだ赤子も同然。ゆきちゃんと呼びたくなるのも至極当然だと思うがね」
「ハルからしたらこの世の人間は皆赤ん坊だろ。だったら全員そう呼ぶべきじゃないか。なのに何で僕だけ……」
神田ハルは、笑みを深める。
「そりゃあ、目に入れても痛くない赤子は君だけだからだよ――それにほら、ゆきちゃんも知っての通り、私には目玉が一つしかないだろう? だから可愛がれるのもひとりだけなんだ」
「……それは冗談のつもりか? 笑えないぞ」
「そうか? しおりならきっと大笑いするのに」
小首を傾げるハルの動きに合わせて艶のある長い髪がさらりと流れ、その下に見え隠れしていた端整な顔が日の下に曝け出された。
ハルはその名の通り、春の幻のように儚げで美しい。だけど僕は、まだ一度も彼女の顔の右半分を見たことがない。
ハルには――右目がないという。
その昔、ハルは右目と引き換えに人智を越える力を身に宿した。
それは僕が生まれる遥か昔のことだ。
「ゆきちゃんは頭が固いのが玉に瑕だね。まあ、そこが可愛いところでもあるけど」
「だからそう呼ぶな! 可愛いって言うな――うわっ!」
眼鏡を押し上げ反論しようとした僕に、誰かがいきなり背後から抱き着いた。
「おはよう、ゆっきー。喜べ、今年も同じ組だぞ!」
「うげ……」
厄介者其の二――常夜しおりのご登場だ。
しおりは目鼻立ちがしっかりしていて、キリッと勇ましい眉毛が印象的な女子生徒だ。ハルとはタイプが違うが、彼女もまた美少女と言われる類なのは間違いない。ただし――口を開かなければ、の話だ。
「何だね、その納得いかないという顔は。ええ?」
しおりは自慢の腕力で、不満げな顔をした僕の身体をぎゅうと圧縮する。骨が軋んだような音がした。
「おはよう。しおりは朝から元気だね。良いことだ」
「おはよう、ハル。ゆっきーと違って、アタシは元気だけが取り柄だからさ」
意図的なのか無意識なのか、しおりは締め付けを強めてくる。ボロ雑巾のように絞られて、身体が悲鳴をあげた。降参したくても、しおりが僕の腕ごと固めているせいで意思表示もままならない。
「うう、ギブ……」
僕の情けない声は、組み分け表に見入る他の生徒の耳にはまったく届いていない。
それどころか、彼らはしおりの風変わりな出で立ちにもまったく関心を示さない。
頭に古ぼけた野球帽を被り、背中に背負うのは木製バット――これがしおりの通常装備だ。今時そんな女子高生があるものかと初めて出会った時に思ったが、残念ながら存在する。
だが、微笑ましく戯れる僕ら――きっとそう見えているのだろう――を横目に、各々の行き先へ向かっていく他の生徒たちの誰ひとりとして、しおりの妙ちくりんな恰好に目をとめる者はいない。
彼らには、それが視えていないのだ。
「――おや、ゆっきー。今、あそこの可愛い娘に見惚れていたね? アタシというものがありながら、何という不届きな」
酸素不足でぼんやりしながら人の波を見ていたら、そんな言いがかりをつけられた。
「……ちょっと何言ってるか分からない」
「アタシを怒らせたら怖いということを、この身に教えてやらないとね。さあて、どこから焼こうか――」
耳元でそう囁かれ、背筋が凍る。
彼女たちならやりかねないのだ。人ではない彼女たちなら。
「――ちゃん、ゆきちゃん?」
ハルが僕の名前を呼んで顔を覗き込んでいる。どうやら一瞬気が遠くなっていたようだ。翠色の瞳が、何かを見透かすように僕を見つめる。その視線から逃れるように僕が顔を背けると、ハルがふっと溜息を吐いた気配がした。
「――しおり、放しておやり。お前の力ではゆきちゃんが死んでしまうよ」
それだけ言うと、ハルは僕にしか視えない羽織の裾を翻し、校舎へと歩いて行った。
「ああ、待ってよう、ハル」
しおりは呆気なく僕から手を離すと、そのままハルの後を追って行ってしまう。解放された途端、目一杯吸ってしまった空気が気管支に障り、僕は背を丸めながら咳き込んだ。
――まったく、相変わらずゆっきーは軟弱だねえ。
既に姿なきしおりの苦笑いが聞こえた気がした。嫌な幻聴だ。
予鈴が鳴る。まだまばらに残っていた生徒たちが足早に校舎に吸い込まれていく。後れを取った僕だけが独り、玄関口に取り残されてしまった。
砂埃を含んでざらついている春の風が、桜の花びらを彼方へ連れ去っていく。
それを見送り、僕はその場にしゃがみ込んで文字通り頭を抱えた。
「嗚呼――」
せっかく縁が切れたと思っていたのに、また一年、あの厄介者たちに振り回されるのか。
新学期早々先が思いやられ、胃がキリキリと痛む。
「さようなら……僕の平穏な学校生活」
見上げた空は、悲しいかな、晴天も晴天であった。
◇ ◇
僕がハルと出会ったのは、ちょうど一年前。麗らかな木漏れ日が眠気を誘う春のことだ。
新入生だった僕は、入学式を放棄して無人の中庭を彷徨っていた。からりと晴れた空の下、僕は気分の悪さを抱えながら目に着いた古木の根元に倒れ込むように腰をおろした。
「――はあ」
無意識に溜息が零れる。眼鏡を外して、気を紛らわせるように眉間を揉んだ。
昔から、人が集まる場所とはどうにも相性が悪い。式が行われている体育館には、全校生徒とその保護者がすし詰めの状態だ。そういう場所は、決まって他のものも引き寄せる。
壇上で祝辞を述べる来賓客の背後にそれが視えた瞬間、息が止まった。目が合ったら最後、彼らは僕目がけてやって来るに違いない。そう思ったら居てもたっても居られず、体育館を飛び出した。
――そう。僕には、本来目には視えないものが視える。
僕はそれを、あやかしと呼ぶ。
目を閉じていたら、いつの間にかうとうとしていたらしい。何かが頬を撫でた感触に、ふっと意識が浮上した。
「――――っ!」
瞼を持ち上げた僕は、声にならない悲鳴を上げた。
目の前に黒い影がぼんやりと浮かんでいて、そこから伸びた触手のようなものが僕の頬を撫でている。
――あやかしだ。
体育館から僕の後をつけてきたのだろうか。
思わず後ずさろうとしたが、背後の木に邪魔されて思うように距離が取れない。そうこうしているうちに、もう一本手のようなものが伸びて来て、今度は反対の頬に触れた。
「ひっ……!」
ヒタリ、と頬を撫でる冷たい手の感触に、鳥肌が立った。
その姿を視ることはできても、彼らと意思疎通ができるわけでも、退治できるわけでもない。
僕はただ、あやかしを視ることができる、それだけだ。
その上、僕の目では彼らの個体差をほとんど識別できない。どのあやかしも黒い影のような姿をしていて、時々その影の中に手足のようなものや、目や口のようなものが視えたりする。その程度だ。
目の前のあやかしも、いつもと同じように黒い影のような形をしていたが、不意に影の中心の、一番黒い部分がガバリ、と口を開けるように大きく開いた。
僕は、咄嗟に目を瞑る。
――喰われる。
そう覚悟した時だった。
「――君には……何かが視えているのかな?」
思いがけず、頭上から人の声が聞こえた。
驚いて見上げると、僕のすぐ隣にひとりの女子生徒が立っていた。セーラー服を校則通りに着こなしたその女子生徒は、春の陽光のように優しい笑みを浮かべている。
きちんと結ばれたリボン、膝丈に揃ったスカートの裾、指定通りの白い靴下。
腰ほどもある亜麻色の髪がサラサラと風に流れているが、右目にかかった長い前髪だけはその下の正体を頑なに隠したままだ。
「君は……」
その見覚えのある姿に気を取られたせいで、一瞬、目の前のあやかしの存在が意識から外れた。黒い影は容赦なく覆いかぶさろうとしてきて、僕は反射的に腕を突き出した。
だが、何かに触れた感触はなかった。
「――大丈夫かい? 怪我はないかな?」
柔らかい声が労わるように尋ねた。
恐る恐る見ると、そこにいたはずのあやかしは影も形も見当たらなかった。
「え、あ……」
一体何が起きたのだろう。疑問符を浮かべながら彼女を見返す。
まるで陽だまりのような暖かい表情を浮かべる女子生徒の頭には、網目のほつれた古ぼけた笠。
華奢な肩に引っ掛かっているのは、年季の入った羽織。その裾には、淡い色の蝶々の柄が入っている。
そしてその手には、人の形をした白い紙が一枚。
「――君には……何かが視えているね?」
彼女はもう一度同じことを、今度は断定的に言った。
――バレている。
僕は口を半開きにしたまま、固まった。
今朝、見知らぬ顔ばかりの教室に足を踏み入れた時から視界の端に引っ掛かったそれを意図的に無視していたのに、見抜かれていた。
僕には、本来目には視えないものが視える。
その女子生徒の笠と羽織もまた、他の生徒には視えていないものだった。
彼女の名は神田ハル。
僕のクラスメイトであり、人ならざる存在であり、その昔――「告げ師」と呼ばれた者である。




