不安な心
由美さんの母親である津久手さんが運ばれた病院は自宅から結構離れた大きな総合病院だというので、俺たちはそこまでバスと電車を継いで行かなくてはならなくなった。
けれど別に苦には感じなかった。逆に由美さんといられる時間が長くなったという事で、少しだけ良い事だとも思えた。
まあ人が病院に運ばれたんだから、そうそう浮かれてもいられないけどな。
バスと電車に揺られる事約1時間。ようやく目的地である病院に到着した。
「時間、もう7時になるけど本当に大丈夫? 帰るのたぶん9時くらいになっちゃうよ?」
車椅子を押していると、そこに座る由美さんがそう心配そうに問いかけてきた。
「別にいいよ。親に連絡したし、それにここまで来て帰る方がおかしいだろ。一緒に行って、一緒に帰ろう」
「うん。ありがと……」
俺が当然のことを言うようにサラサラとそんな事を言うと、由美さんは安心したように前を向いて、お礼の言葉を短く言った。
もしかしたら由美さんは少しだけ不安だったのかもしれない。
それから俺たちは病院に入り、受付の人に聞くと、どうやら一般病棟にいるようで、すぐに面会することができるそうだ。
最大限の覚悟をしていたので、すぐ面会できるというのは少しだけ安心することができた。
まあ病院に運ばれた時点で全然安心できないけどさ。
案内された階に行き、病室のドアの前で止まった。
「行くよ」
「ちょっと待って」
俺がスライドドアの取っ手を持とうとしたところで由美さんに声で止められた。
「少しだけ……待って」
「ああ」
何度か深呼吸をする音が聞こえる。けれど一向にもう大丈夫の声が聞こえない。
そのまま数秒ほどが経過したところで「あの、すみません」と声をかけられた。
「はい」
「入るなら入ってもらえますか? 通行の邪魔になりますので」
看護師らしき人にそう言われてしまった。
俺たちは慌ててスライドドアを開き、由美さんの覚悟が決まる前に入ってしまった。
そして、病室の奥に視線を向けるとそこには津久手さんの姿があった。
「お、お母さん……」
疲れきった母親の姿を見て、由美さんは自然と言葉を漏らしていた。
その声に気づいた津久手さんは、ゆっくりとこちらに振り向いた。
「あら……由美……。それにあなたは確か……」
「前田悠です」
「ああ、そうそう。ごめんなさいね」
「いえ」
そこで会話が一旦途切れると、津久手さんは話す気がないのかそのまま窓の外に目を向けた。
この病室は大部屋で、他にも2人入院している人がいるので、声を出すことが躊躇われるが、普通の会話程度ならば別にしたっていいだろう。そう思い俺は由美さんを押しながら津久手さんに寄り、ベッドの隣につき、近くにあった椅子に座った。
そこでしばらくの沈黙が続いた。
長い間ちゃんとした会話がなかった2人からすれば、いきなりこんな状態で喋る方が難しいか。
だったらここは関係の薄い俺から喋り出す方がいいだろう。
「あの、津久手さん。体調の方は……大丈夫なんですか」
そう意を決して問いかけると、津久手さんは窓の外に向けていた視線を俺の方に向けた。
「……ええ」
一体、この人は俺を見て何を考えているのだろう。
何故少しだけ安心したような、悲しいような、それでいて脱力した目を向けるのだろうか。
俺には理解できなかった。
「なら良かった。それでですね、津久手さん。今日は話があって来たんです」
「話?」
「はい」
俺は今日ここに来た理由の一つである、2人の仲直りについての話を切り出そうとした。けれど、ここで一つの疑問が浮かんだ。浮かんでしまったのだ。
ここで俺が話を切り出したとして、それで本当に2人の仲は良くなるのか? と。
そもそも俺は手助け役でしかない。ならば俺が話を切り出すこと自体おかしいじゃないか。
俺が津久手さんに提案して、はい分かりましたとなるだろうか? 次の日から仲の良い親子になるだろうか……。
結論は簡単だった。
由美さんは俯き、津久手さんと顔を合わせようとはしなかった。けれどここは由美さんが話をして、親子で会話をしなければならない。だったらその手伝いである俺がするべきことは決まっている。
俺は横で車椅子に座る由美さんの手を取った。
「へっ?」
由美さんの口から小声で動揺が漏れる。けれど俺は気にせず横顔に近づき耳打ちをした。
「今週終わったら冬休みだし、一緒に旅行に行こう。だから頑張れ」
「……──うん」
どのくらい効果があるのかは分からない。けれど今の俺にできることはこのくらいだ。
俺の提案を聞いた由美さんはゆっくりと俯けていた顔をあげ、母親である津久手さんを見据えた。
「お母さん。私、ずっと辛かった。1人で全部頑張ってきた。でも、私以上にお母さんが頑張ってるってことは知ってる」
母子家庭の母親の苦労は俺には分からない。けれど、経済面から見てもとても大変であることは容易に想像がつく。
「私たち、お父さんが他界してからずっと苦しみ続けて、それで同じようにずっと頑張ってるんだからさ、仲、悪くしてるなんて……。馬鹿らしいって思わないかな」
「………」
「お母さん。今後はさ、もっと……助け合っていこうよ」
それが由美さんの素直な気持ち。ならば、津久手さんも素直な気持ちで応えなければならない。
お互いに苦しみを知った親子の母親は、いったいどう答えるのか。
「──無理よ」
「──え?」
純粋な声が、病室に響いた。
津久手さんの答えは由美さんにとっても、そして、俺からしても予想外の言葉だった。
「ど、どうして……?」
必死な言葉を聞きながらも、津久手さんはゆっくりと口を開いて答え始める。
「だって、あなたにはこの人がいるじゃない。でも、私には……由美がいなくなったらもう1人なのよ」
俺たちは黙って聞くしかできなかった。頭の中では疑問や驚きの言葉など様々な言葉が行き交っている。けれど、どれひとつとして声にはならなかった。
「あなたがこの人を連れてきた時、もう、私はいらないんだって……用済みなんだと思った。そうしたら急に仕事が手につかなくなって、頑張ろうとしてもやる気が起きなくて、目の前が急に暗くなったのよ」
そう言って津久手さんは視線を由美さんの方にやった。
その時の津久手さんの目は、まるで我が子を見るかのような目をしていた。
けれど、俺はその話を聞いても納得できなかった。なぜなら津久手さんはそう思いながら暮らしてきたのだろうが、実際はただ自分の娘の介護もせずに働いた人なのだ。
その気持ちは、どうやら由美さんも同じのようで、閉じていた口が開いていた。
「じゃあ、どうして私のことをずっとまるで娘とも思わない対応で察していたのよ」
その言葉には確かな悲しみと疑問と、そして怒りも混じっている気がした。
「ごめんなさい。あの日、夫が他界してからずっと良い母親であろうと頑張ろうとしたけれど、私は良い母にはなれなかった。ずっと何もできなかったのよ……」
その言葉を言い終えると同時に津久手さんは頭を下げた。
親が子に向けて頭を下げることは、並大抵の覚悟ではできることではない。
俺こそただ見ていることしかできなかった。
それから数秒ほどの沈黙が続いた後、由美さんは津久手さんの目を見て話し始めた。
「そう──だよね。私こそ、何もしなかったし……文句を言える立場じゃないよね……」
彼女は傲慢じゃない。だからこそ人を許すことができるのだ。
「ありがとね……由美……」
この瞬間、2人は家族に戻ったのかもしれない。
それから俺たちはもう夜遅いと言うわけで2人で病院を出た。
冬の夜というのは身体の芯から冷えるな。白い息を出しながら車椅子を押し、バスに乗る。
そのままバスに揺られていると、不意に由美さんがこちらを向いて話しかけてきた。
「さっきはありがとね」
と突然礼を言われた。
「え? ああ、あれば別に。大したことじゃない」
「でもあの時手を掴んでくれなかったら、あのまま私帰ってたかもしれない」
いや、流石に由美さんに限ってそれはないだろう。そう考えながら、俺は内心ほっとしていた。
正直津久手さんが由美さんを嫌っていたならばこう上手く話は進まなかっただろう。何年も心がすれ違っていただけだったから上手くいっただけの話なのだ。
そんな事を真剣に考えていると、いつの間にか由美さんが俺の方に振り向いて見ていた。
「それよりさ、あの時の話」
「ああ。旅行のね。え、本当に行くの?」
「え? 嘘だったのっ?」
一瞬にして消沈した顔になる。どれだけ旅行に行きたいんだよ。
「いや、俺とでも良いのならだけど……」
「意地悪なこと言うなー」
そう言って前を向いてしまった。今のは俺が悪い……のだろうか。女の子の気持ちはよく分からない。
こ、ここは男が堂々と誘う所なのだろうか……?
覚悟を決め、恥ずかしさを押し殺して言い放つ。
「い、一緒に行こうよ」
一応親指を立てて、グットマークをつけて話したのだが……正直やっちまったなと後悔しかない。
こんな哀れな男の姿を見て、由美さんはうふふふっと声を出して笑っていた。
ああ。存分に笑えば良いさ。それがせめてもの情けだと受け取ろう。
「あぁ。笑ってごめんね。うん。行こっか」
そう軽やかな笑顔と共に、俺の行動を真似て親指を立ててグットマークを作り言い放った。
その無邪気な笑顔は俺の心に突き刺さった。正直、可愛くて仕方がなかった。
「ん? どうしたの?」
突然顔を不自然に背けた俺を不審がって由美さんが声をかけてきたのだが、こんな赤くなった顔を見せるのは恥ずかしいので、「な、なんでもない」と言ってなんとか誤魔化そうとし、話を変えることにした。
「そ、そういえばさ、その……もう歩くことは出来ないの?」
待て。何故俺はいきなりそんな思い質問を投げかけてしまったんだ……。
「あっ、いや。無理に答える必要はないから」
すぐにそう付け加えて一旦深呼吸をする。
さっきまで赤くなっていた俺の顔も、今はすでに真顔になっている気がする。空気の読めないやつめ……。そう自分の中で自虐した。
「悠君になら話すよ。別に、隠すようなことじゃないしね。それに、大した話じゃないから」
そう話始める由美さんの顔にもやはり先ほどまでの笑顔は消えていた。
けど、きっと今質問しなくてもいつか質問していたはずだ。それが少し早まったと思って受け止めよう。
そう結論づけて俺は話を待った。
「私、病気なんだ。小学校高学年くらいの時に発症してから、だんだん歩けなくなっていって、それから数ヶ月で歩けなくなったんだ」
由美さんは真っ暗な車窓を見ながらゆっくりと語る。
その時の口調は落ち着いていて、もうすでに受け入れているようだった。
「難病指定されてるみたいでさ、名前もすっごく難しいんだよ……。それだけだよ」
やはり、この質問はするべきではなかった。もっと親しくなってから。いや、ずっとするべきではなかったのかもしれない。
ただ由美さんが苦しむだけじゃないか。
そう考えると、俺の口から自然と言葉が漏れていた。
「ごめん」
「なんで謝るの? もう、どうしょうもないことなんだから」
「それでも……ごめん」
「──……」
真っ暗な夜道をバスは俺と由美さんと、そして運転手を乗せて進む。
車内はエンジン音しかせず、ただ空虚な空間でしかなかった。
そんな中でも、バスの『とまります』というボタンだけがいくつも赤く光っていて、少しだけ不気味に思えた。
バスを降りると、俺はまた由美を乗せた車椅子を押し始める。
しばらく無言で歩き続ける。けれど、その沈黙は重苦しいものではなく、心落ち着くものだった。
「あ、ここで良いよ」
「ん、分かった」
突然の声に驚くが、驚きをなるべく見せないように返事をした。
「それじゃ、また今度」
「うん」
そう言って反対に歩き始めた。
不意に時間が気になりスマホを取り出し時間を見ると、時刻はすでに10時を回っていた。
早く帰らなければ。そう思ったところで、俺は突然由美さんのことが頭に浮かんだ。
「そういえば、今日は本当に由美さんは1人──なんだよな……」
そう考えると、何故だかそばに居たいと思う気持ちが湧き出てきた。
後ろを振り返ると、家に入ろうとする由美さんがちょうど見えた。そこで俺は後先考えずに足を踏み出した。
すぐに由美さんの家の玄関に辿り着くと、玄関を閉めようとした由美さんと目が合った。
「ど、どうしたの?」
「あのさ、今日、と、とと、泊まっても──いいかな」
「…………え?」
動揺と疑問が混ざった声と、呆然と俺を見つめる目。当然だった。
けれど俺の表情はいつになく真剣だった。正直なところ、俺は彼女が心配だった。本当に大丈夫なのだろうかと。
余計なお節介と言われそうなことだがそんなことは百も承知で言っている。
数秒間の沈黙が続いたあと、由美さんは顔を赤くして体を抱いて「うん。いいよ」と、言った。
悠からすれば顔色などは暗くて見えなかった。
はて、自分の体を抱いたのは寒かったからだろうか。若干間が空いたのはそりゃ当然だよな。男を泊めるんだから。それなりの覚悟が必要だろう。