朝目覚めれば
「なあ、本当に忘れてくれないか?」
頭を軽く下げながらそう言うものの、由美さんは全く聞き入れてくれない。
それどころかさっきからずっと微笑みっぱなしで俺の話を聞いているのかさえもわからない。
まったく恥ずかしいものだ。
「ほら、いつまで頭下げてるの? 信号、青になったよ?」
「ああ……」
ゆっくりと車椅子を押し始める。
彼女はいつからこんな車椅子生活を送っているのだろうか。
普段車椅子の人を見かけても特に何も思うことはなく、素通りすることがほとんどだ。だから、そういうひと一人一人のことなど考えもしなかった。
けれどきっと由美さんとの関係だってきっとずっと続くものではない。これまでクラスが変われば話さなくなった友人たちのように、なにかを機に話さなくなる。だから、その日まではいい友人でいよう。
「ねえ、由美さん」
「ん、なに?」
「どうして今日、いきなりうちに泊まりたいなんて言い出したんですか?」
「えっ?」
俺の言葉を聞いた瞬間、由美さんは戸惑いの声を漏らした。
そんなに意外な質問だったかな。
「………それは、だって君が『由美さんとは仲良くさせてもらっています』なんて、そんな恥ずかしい事を言うからだよ……」
「そ、それはすみません」
この短時間によくもこんなやらかしを二回もしたものだ。
由美さんはずっと前を向いているのでどういう顔をしているのかはわからない。けれど、声からして恥ずかしがっていることはわかった。
それに、喋り方が今思いついたみたいな感じだった。
それから歩く事数分。前田という表札が見えてくる。
「ここが君の家か」
「言っておくけど、お母さんは……なんか変っていうか……まあ変わってるっていうか、そんな感じだから覚悟して大人しくしていてくれよ?」
「はいはい。私だってそんな礼儀知らずじゃないよ。だから大丈夫」
まあ、そう言うなら信じるけどな。まあ問題なのは由美さんじゃなくてお母さんなんだけどさ。
「それにしても『覚悟して大人しくしていてくれ』ってなんかおかしくない?」
「ゔっ。それはまあいいんだよ」
たしかお母さんには友達が泊まるってことくらいしか言ってなかったよな。まあ大丈夫か。
それほど深く考えずに俺は玄関の鍵を開けて家に上がった。
「ただいま」
「おかえり。え? お友達って……女の子だったの?」
「初めまして。悠君の友達の高田由美です。今日はよろしくお願いします」
そう丁寧に自己紹介をしてから頭を下げていた。
そんな由美さんの姿を見てお母さんは口元に手を当て、17年間一緒に暮らしてきて一度も見たことがないほど驚いていた。
「──っそ、そんなっ! 悠が女友達をっ!?」
「違っ──て、そっちかよ! 俺はてっきり彼女を連れてくるなんてって言うかと思ったよっ」
って、またお母さんのノリに乗せられてるぞ俺! 自我を保つんだ。大きく深呼吸をして母親の声を全て忘れるんだ。
「よし」
なんとか落ち着きを取り戻した。のだが、ふと横を見ると今度は由美さんが何やらぶつぶつと呟いている。
「あの、由美さん?」
「っへ? あ、ごめん。何かな」
「いや、どうしたのかなって」
「別に?」
あくまで由美さんは何もなかったかのように冷静に振る舞っており、この周囲に向けられている笑顔はまるで鉄壁の如く揺るぎない可愛さがあるが、俺はさっき『彼女……彼女だって……』みたいな事を聞いてしまったので、俺の頭はその事でいっぱいなのだ。
さて、合わせて早々に騒がしくなってしまったがなんとか落ち着きを取り戻した。
「それじゃ、上がってね。あ、私は前田佐味」
「あ、よろしくお願いします」
そんなこんなで俺たち家に上がった。
そういえばお母さんの名前って普段呼ばないし聞かないからあんまり聞きなれないよな……。
そんな事を1人考えながら靴を脱ぎとりあえず一階にある自室に向かった。
「それにしてもお母さん、車椅子について何も触れてこなかったな」
それはきっと由美さんにとって一番ありがたい事なのだろう。さりげない配慮。それがきっと一番の優しさなのだろう。
制服を脱ぎ、部屋着に着替えてリビングに戻ってくるとそこには俺の知らない光景があった。
「あら、悠も早くご飯にしましょ」
「へ? ちょっと待って、お母さん」
手で待ったをかけながら食卓に近づく。
「何よ」
「いや、何、このティーカップ。それに何この皿」
一つ一つ指を指しながら指摘していく。
そう。その一つ一つが17年間この家で暮らしてきて一度も見たことがないめちゃくちゃ高そうな食器だった。
「結婚祝いで親戚から貰ったんだけどね、ずっと使ってないものだったのよ。それで丁度いいからって出してみたの」
なんでこういう来客がある時は見栄を張るのだろうか。どうせたかが知れていると言うのに。
ため息をつきながら由美さんの方を見ると、こっちはこっちで本当に楽しそうに笑っていた。
って、俺たちの会話を聞いて笑っていたのか? 笑われていたのか俺は。
「うふふっ。本当に楽しいですねっ」
「あら、そう?」
そしてどうしてお母さんはそんなに自信満々に反応できるのだろうか。
やはりうちに連れてくるのはいけなかったな。
今更ながらに後悔する。だが今更後悔したところでどうにもならない。今はどう乗り切るかを考えよう。
それから騒がしい食事が始まり、食事が終われば普通ならば絶対に出てこないようなお茶菓子が出てきたりしながらも時間は過ぎていった。
***
「え? お風呂1人で入れるの?」
「はい。慣れてますから」
「でも、危なくない?」
「もう、何年もそうやってますから大丈夫ですよ」
テレビを見ていると、風呂場の方からそんな会話が聞こえてきた。
別に盗み聞きしていたわけではない。普通に聞こえてきたのだ。
そんなことはいいとして……。何年も、1人で。と言うことはやはり由美さんの母親である津久手さんと仲が良くないというのは本当なのだろう。
それから45分ほどして由美さんは風呂から出てきて、そのまま流れるようにお母さんが入って次に俺が入った。
風呂から上がり、熱った身体のまま自室に向かい、しばらく1人で居ると、突然トントンとノックの音がした。
「はいっ」
「私です」
ああ。由美さんか。
すぐにベッドから降りてドアを開けてやる。
そこには見慣れぬパジャマ姿の由美さんが居た。
肩までしかない髪の毛も、普段よりとてもサラサラしている印象だ。
「突然なんですか?」
「少し、話がしたくなってね」
それを拒否する理由などどこにもないのでそのまま部屋に上げる。
部屋は普段から綺麗にしていたのでそこら辺に関しても焦る理由はどこにもない。
由美さんは部屋に入るなり部屋中を珍しそうにキョロキョロと見回している。
「あの、何か珍しらしいものでも?」
「ん? まあ珍しいっていうか、新鮮なものはたくさんあるな。私だって男の子の部屋に入ったのは初めてだし。それなりに緊張してるんだよ?」
そう言いながら目につけたのは、勉強机の片隅に飾ってあるいつか行った旅行先で撮った家族写真だ。
ずっと放置されているので埃だって被っているその写真を見ながら、由美さんはただ無言で見つめていた。
「その写真、気になるのか?」
そう声をかけると、由美さんはまるでさっきまで話を聞いていなかったかのように少し遅れてパッと視線を写真から外し、「へ?」と返してきた。
「あ、写真? ううん。別に写真自体が珍しいなって見てたわけじゃないよ? まあ、でも私からしたらあんな家族写真は……珍しいものかな」
そう話す顔に笑顔はほとんどなかった。
そういえば由美さんの父親はすでに他界していたって聞いたな。それに母親との仲も良くないと聞いた。そして当の由美さんは車椅子での生活を強いられている。そんな状況で由美さんはどうやって1人生活しているのだろうか。
ここまで思考が回った時、俺は自然と一つの質問をしていた。
「由美さん……辛くないのか?」
まったく、馬鹿みたいな質問をしてしまったと言った側から後悔する。
けれど俺はこの質問をせずにはいられなかった。たとえどんな答えが返ってくるとしても。
小さく間が空いた。そして、数秒ほど沈黙が続いた後由美さんは天井を見ながら口を開いた。
「悠君の家族ってさ、とっても明るくて、毎日が楽しそうだね」
「え? ま、まあ」
「私の家族とは大違いだよ。お母さんは毎日朝早くに仕事に行ってしまって、帰ってくるのは普段は10時くらい。それで私には何もしてくれなくて……。寂しい食卓で1人食べてる私とは……本当に大違い」
一つ一つの言葉が重く、胸に刺さってくるようで辛い。けれど俺は聞かなくてはならない。
「今日一緒に食卓を囲んだ時、こんな家族があったんだって、正直驚いたよ。ずっと1人でいた私なんかとは全く違って、ここの食卓は温かかった。それを見た時さ。私、あぁ、これが普通なんだって思ったよ」
ただ、黙って聞いている。彼女は何を思って言っているのだろうか。ここに来たことを、後悔しているのだろうか。辛いものを、見せてしまったのだろうか。
「もちろん私の家が普通じゃないってことはわかってたよ。でも、こんな明るい家庭を見たあとじゃさ、私の家がひどく冷め切っていて、本当に暗いものに見えても……おかしくないよね……」
無神経だった。胸が痛くなり、胸の辺りの服を掴み握る。
「辛くないのかって聞いたよね。つまり、そう言うこと」
「………そうか」
「あ、でも別にここに来たことを後悔してるわけじゃ無いよ? 悠君の家に来れたことは楽しいし良かった」
そう言う由美さんの顔には頭の笑顔が戻っていた。やはり由美さんには笑顔が似合う。
『ごめん』そう言いそうになり口を噤んだ。
きっとこの人はそう言われれば怒るだろう。だから心の中で思うだけにし、そして考えた。
由美さんが笑顔でいられるようにするにはどうすればいいのだろうと。
「あのさ、由美さんは津久手さんと喧嘩とかしたわけじゃないんだよね」
「うん。まあお父さんが他界してから自然と会話が減っていったって感じだからね」
「だったらさ、また、仲良くできるんじゃないのか?」
そこまで言って由美さんは俺がしようとしていることを理解して「え?」と驚きの顔を見せる。
「そんな、もう無理だよ」
「どうして。俺はただ由美さんにどうすればずっと笑顔でいられるか──ってことはいいとして、まあ力になりたいんだよ」
口が滑った。そうとしか言いようがない。今すぐにでも頭を抱えて転げ回りたい気分だ。けれどそんな奇行したら引かれちまうしぐっと堪える。
そうしてじっと目を瞑っている悠とは反対に、由美は口元を両手で隠していた。
お互い声にならない声を出しながら悶える。
そんな、側から見たら思わず馬鹿じゃないのか?と言いたくなるような光景を繰り広げ、数秒後。先に口を開いたのは悠だった。
「──それでっ。あ、あの。お願いです。協力させてください」
もう自分でもよくわからなくなってしまい、勢いでそう言った。
それに対し、由美さんは一度大きく深呼吸をしてから返事をした。
「うん。私だってこのままじゃいけないって……分かってるから。こちらこそ、よろしくお願いします」
そう言って頭を下げていた。
その日は泊まっていくと言っていたのだから当然なんだが、由美さんは家のリビングに布団を敷いて寝た。
当初はお母さんが、誰かの部屋のベッド使ったらいいわよ。なんならこいつのなんてどう? なんて言って俺を指差していたのだが、由美は意外にもなかなか頑固で、これ以上ご迷惑はおかけできませんと言ってリビングで眠ることを譲らなかった。
両者一歩も譲らない戦いに終止符を打ったのはそう。お父さんの『高田さんが嫌がっているんだからそう無理強いすることないだろ』という強烈な一言だった。
それによりお母さんの心は多大なダメージを負った。
そんな変なことがあった翌日。俺は忌々しい目覚まし時計の音によってに目を覚まされた。
時刻は6時半。デジタル時計ということもあり時刻を表す場所の近くには曜日も表示されていた。
「ぇ、月曜かよ………」
終末の始まりだった。
さて、ブツブツと文句を言いながらも準備をしてしまうのは一体なぜだろうな……。
そんなことを考えながら着替え、リビングに行く。
「悠、おはよ」
「あー、おはよ」
いつものお母さんの言葉。適当にいつも通り返した。
「悠君、おはよう」
「おー、おはよ──へ?」
いつもは聞かぬ言葉。適当には返せなかった。
まだ完全に覚めきっていなかった頭が急速に覚醒していく。
頭の中で動揺が響いた。
「おはよーへって何よっ」
そう言いながら微笑んでいる人が、キッチンで料理をしていた。
これは夢か? それとも…….走馬灯? 今日、俺は突然死するのだろうか。
「ねえ、悠君今変なこと考えてるでしょ……」
「ん?」
「顔が険しいもん」
朝起きて頭がまだ冴えきっていないのに、こんな光景が家のキッチンにあったら自分の目を疑いもするさ。
ここまでの二人の会話を全て聞いていた悠の母親である佐味は、恥ずかしいわね。と密かに思った。
それからみんなで朝食を食べ、時計を見ればいつの間にか時刻は8時になっていた。
「お、もう行かなきゃな」
自宅から学校までは大体20分くらいでいけるので焦る必要はないのだ。
「それじゃ、俺はそろそろ行くけど……由美さんって──高校生? 大学生?」
今までなぜ一度も訊かなかったのだろうかと、今にして思えば疑問でしかない質問をすると、由美さんは突然、口をぱっくりと開けていかにも驚いた顔をする。というか、動揺した顔にも見える。
「──すっかり忘れてたよ……。私、今日学校あるのに……私服着てる……」
あまりにも間抜けな話を聞いて思わず滑りそうになる。
「えっ? ちょ、今すぐ家に行こう!」
「無理だよ。確かに家にはもうお母さんはいないし、制服は着れるだろうけど、学校にはどう頑張っても間に合わないよ」
「……普段はどのくらい時間かかるんだ?」
「バスを使ってるからね。大体50分くらいかな」
確かに……バスなら時間が決まっているからもし逃せばそれで間に合わなくなってしまう。
それに次のバスまで待てば必ず遅刻するだろう。
簡単な話、間に合わせることは不可能というわけだ。
二人は黙り込んでしまった。
少しの間沈黙が続くが、すぐに由美さんが沈黙を破る。
「まあ、悠君は学校に行くと良いよ。間に合うんだから」
「………」
その時、俺は由美さんの笑顔がとても儚いものに見え、黙っていることなどできなかった。
そうだ。もういっそのこと──。
「由美さん。一緒に……サボらないか?」
正直、勢いで言ってしまった感は否めない。
というかこんな真面目そうな人がこんな提案を受け入れるのか?
言ってからすぐに身体が熱くなってきた。
恥ずかしい……。早く結論を言ってくれ! どうしてうーんと考えているんだ! 俺は恥ずかしさで死にそうなんだぞっ。
俺がクソみたいな提案をしてから数秒ほどが経ち、由美さんはようやく俺に視線を向けた。
「うん。良いよ」
「──え? 本当に言ってる?」
「なんで言った本人がそんなに疑ってるのよ」
「いや、正直白い目で見られるんじゃないかって」
「そんなことしないよっ」
ああ、良かった。
次第に熱くなった身体は冷めていき、安堵することができた。
「それじゃ、決まりね」
「ああ」
というわけでいきなり今日はズル休みすることとなった。
じゃあ一体どこに行こうかと考えていると、お母さんが「ねえ」と話しかけてきた。
「なに?」
「えーっと……なんだったかしら。さっきまで覚えてたんだけど忘れちゃったわね」
「え? それ大事なことだった?」
「ま、忘れたってことは大事なことじゃないってことよ」
そうお母さんは楽観視するものの、俺は気になって仕方がなかった。けれど本人が忘れてしまったと言っているのだからどうしようもない。
それから俺は私服に着替え再びリビングに戻ってくると時刻はすでに9時を回っていた。
もうこの時間ならば誰かが登校していることはそうそうないのでもう出発することができた。
由美さんの準備もすでに完了しているみたいだし、もう出てもいい頃か。
「それじゃ、いってきます」
「お邪魔しました」
「いってらっしゃい。由美さんもありがとね」
そう言って別れた。
それから俺は由美さんの車椅子を押しながら歩き始めた。
その頃、佐味は言おうと思っていた事をようやく思い出した。
「あっ。そうだった。高校まで車で送ってあげようかって提案しようとしたんだったわ……。まあいっか」
次は夜です。