来店と来宅
そして翌日。今日は珍しく朝バイトに行く前に由美さんに会うことはなかった。
まあ何度も会っていたからそう思うだけで、普通に考えて連絡も取っていないのに会っていた方がおかしいと言える。
だが、逆に今はバイトに行く前に話をしていないと、何かやる気がイマイチ出ないというか、謎の気持ちに襲われていた。
「まあ、今日は店に来るっていうしなんか緊張するな……。なるべくいい姿を見せなきゃな……」
そう切に思うものの、実際いい姿を見せられるという自信もまったくないためテンションはイマイチ上がらなかった。
とりわけいつもと変わらぬテンションで店に裏から入り、ホールに回った。
すると早速血相変えた店長がちょっと来いと言ってきた。
またか? 何かしたか? と考えながら向かった。
「おい前田。お前最近来るのが遅いぞ。この前も言ったぞ。シフトの10分前に店に来て入ってろって」
「はい。すみません」
「ったく」
そう言って店長はフライパンを振り始めた。
話は終わりだ。という事だ。すぐにホールに戻り仕事に戻った。
するとバイトの先輩が近づいてきて口を耳に近づけて、耳打ちしてきた。
「ほら、早く来てないからそうなるんだよ。サボろうとするからだ」
「いや、俺はそんなつもり──」
『ない』と言いかけたところで扉が開き、人が入ってきた。
「いらっしゃいませ。お客様2名様でよろしかったですか?」
そう先輩は男性客に向かって接客する。
通常ならば俺はその間にお冷とおしぼりを準備しておかなければならなかった。が、俺はその入ってきた人の後ろの人に目がいってしまって完全に忘れていた。
「いえ、1人と1人です」
そう言ってその男性客は車椅子に座る女の子に頭を下げられながら席に向かっていった。
それを見るにきっと扉を開けてもらったのだろう。
と、そんな事を考えているとやっと我に戻り業務を思い出し、2人分のお冷とおしぼりをもって先に男性客の元に、そして次に女の子。由美さんの元に向かった。
「まさか本当に来るとは思わなかった」
そう言いながらお冷とおしぼりを置く。
由美さんが座った席は厨房から比較的近い場所だったので、先輩から話しているところを見られるのではないかという不安があったものの、とりあえずこちらから話しかけた。
「まさか嘘だって思ってたの?」
「いや、そんなことはないけど、でも実際来るとそんな言葉しか出てこない」
「まあまあ。今日の私は客なんだから。そう身構えなくていいでしょ」
いや、知り合いが来ているのだから身構えもするだろ。そう言ってやりたかったがそれは言っても無駄な言葉だ。
さて、そろそろ業務をまっとうしなきゃ怒られるな。そう考え俺は一旦この場を離れ戻る。
その途中で先輩とすれ違うものの、特に何も言われなかったので安堵しつつ仕事に戻った。
しばらくしてから注文を受け、料理のセットを組もうとしたのだが、不意にその内容を忘れてしまった。
いや、正確にはまだ覚えきっていなかったと言った方が正しい。
まだバイトを始めて数日というのもあるし、まだ今月の頭から入ったばかりのメニューなのも重なり全く覚えきれていなかった。
訊いたら怒られるだろうか。そんな風に考えながらも、ここで訊かないほうが後々怒られるかと思い先輩に尋ねた。
「あの、すみません。このメニューのセットってなんでしたっけ」
「ん? あれ、これ前教えなかったっけ。こういうのは一回で覚えてもらわないと困るんだけどなー」
そうめんどくさそうに言う先輩の顔は、俺を小馬鹿にして楽しんでいるようだった。
はぁ。やっぱりか。そう思うしかなかった。
「すみません」
「いや、謝られても困るんだけど」
そこまで言ったところで再び客が来店。そこで話は打ち切りだった。
そのまま先輩は客の対応に行ってしまい、結局セットは組めずに時間は過ぎていった。
「ほら、前田。料理提供してこい」
そう店長が厨房の方から声をかけてきたのは数分後のことだった。
ここがラストチャンスだ。そう思った。
「あの、すみませんっ。これのセットってなんでしたか?」
「は? 今更? フォークとスプーンと箸だ。忘れんな」
それだけ言ってまた戻って行った。
すぐにセットを組み由美さんの元に持って行くと、なにやら優しい目で迎えられた。
「君、予想以上に大変なところで働いていたんだね」
「そうですか?」
料理をゆっくりと置き、少しの間話をすることに。
「うん。だって側から聞いていただけでも君の先輩の性格の悪さがとても理解できるよ」
そんなに聞こえていたのか。まあ厨房からすぐの場所にある席だからほとんど丸聞こえな状態なのかもな。
「それに、君の先輩は新人の教育係として致命的すぎるよ」
「は、はあ」
致命的……か。どうなのだろうか。
「でも、実際俺が覚えられなかったのも事実だし、一概にそうと言えないんじゃないかな」
「君は真面目すぎるよ。もっと世の中を知った方がいいと思うよ」
「と、言うと?」
「おい前田」
由美さんに質問しようとしたところで背後から声をかけられた。よく知った声。そう。さっきこの声で怒られてしまったのだ。
ばっと振り返るとすぐ後ろに先輩が仁王立ちしていた。
またやってしまった。そう思わずにはいられなかった。
すぐに頭を下げてすみませんと謝ろうとしたのだが、先に声を出したのは由美さんだった。
「ねえ。あなた、人に教育を施したことあるの?」
「は?」
先輩はいきなり客に話しかけれられていてとても困惑している様子だった。
それでも真剣な顔で由美さんは話を続けた。
「人間は一度言われたことを二度と忘れないなんてことあると思っているの? それにまだ前田君は入って日が浅いはず。それなのに全てのことを覚え切れているはずがないじゃない。そんなこと、少し考えればわかる事よ。これからはもっといい先輩であろうと心がけなさい。じゃないとあなた、一生独り身よ?」
「──………」
先輩は唖然とし、何も言えずに由美さんを見たまま固まっていた。
当然だ。突然客に説教されればそうもなる。
それから数秒もたたずして先輩は仕事中だと言う事を思い出し、気まずそうにしながら厨房に向かって行った。
正直俺も驚いていた。まさかいきなり怒り出すとは思っても見なかった。
「よ、良かったんですか?」
「何が?」
自分で言っておきながら、本当にバカな質問をしたと思った。
こんな事、良いも悪いもありはしない。きっとこの人はそうしたいからそうしたらだけなんだろう。
「──いや、なんでもない。それより……視線が……」
周りを見回すと、辺りはいつの間にかシーンと静まり返っており、代わりに俺たちに向かって視線が集まっていた。
「……そうだね……。うん。ごめんね」
「いや、いいよ」
喫茶店に入って10分もたたずして由美さんは退店して行った。
それから業務が終わるまで先輩はじーっと俺の方を見てきていたが、特に何かを言ってくることはなかった。
途中から後輩も入ってきたが、今日は特にミスも犯さず終えることができた。
そして閉店作業中。掃除機をかけているところで小さな可愛いシーサーのストラップが落ちていることに気づいた。
持ち上げて確認してみるも、流石に名前など書いてあるはずもなく誰のものかはわからない。
さて、この店に落とし物ボックスらしきものなどあっただろうか。そんな事を考えながらとりあえずレジの近くに向かう途中、ついに先輩に話しかけられた。
「それ、車椅子の人がつけてたよ」
「え?」
それは意外な言葉だった。
何か聞き返そうとしたところで先輩は事務所の方に行ってしまった。
「困ったな……」
次はいつ会えるだろうか。来週の土日くらいか? 平日には会ったことがないのできっとそうだ。だが約一週間俺が他人の物を持っているのはな。でも、そうは言っても由美さんの家知らないし。どうしようもないよな……。
迷いに迷った末とりあえず知っているところまで行ってみることにした。
辺りは当然暗くなっており、街灯もほとんど無いため横を通り過ぎていく車のヘッドライトが頼りだった。
歩くこと数分。とりあえず昨日帰りにバイト先に行くと告げられ、ぼーっとしていた時に見えていたところまで着いた。
「でも正直ここから先は本当に知らないんだよな……」
車が通らないと本当に暗いな。ひとまず辺りをキョロキョロと見回し、ため息を一つ。
「これは無理だな」
そう結論づけて踵を返そうとしたところで、
「あれ? また会ったね」
とても聞き慣れた声が、鼓膜を振動させた。
声のした方を向くと、そこには数時間前に来店してきた、俺が探していた人物。由美さんがいた。
「あ、まさか会えるとは思ってなかったな」
そう独り言のように呟く。すると、その声が聞こえていたのだろう。「何が?」と問いかけてきた。
早速俺は拾ったキーホルダーを見せた。
「これ、由美さんの?」
「あ、これ……そっか。これ落ちてたんだ」
意外にも由美さんの反応は探していたと言うわけでは無い感じだった。気づいてすらいなかった。そんな印象を受ける。
「どうぞ」
落とし物を渡し、俺の用はこれにて完了した。
でも探してたわけじゃ無いのならどうしてこんな暗い時間に外で1人でいたのだろうか。
素直に聞いても良いものだろうか。迷ったものの、前に気を遣われる方が嫌だと言っていたのを思い出した。
いや、それはまた別の話か? まあいいか。
「あの、探してなかったのならどうしてこんな時間に1人で?」
「んーー……」
目を逸らし、困った顔で悩むものの、すぐにまあいっかと小さく呟き俺の方に向き直った。
「まぁ、なんて言うのかな。あんまりお母さんと仲良く無いんだよね」
そう言う由美さんの顔はいつもの明るい顔とは少し違い、どこからか暗い感情を感じた。
なぜここで母しか出てこなかったのかと言う質問は俺にはできなかった。
「あ、こんな言い方するとお父さんとは仲良いのかって聞かれそうだから言っておくけど、お父さんは何年も前に他界しちゃったんだ。それから──ね」
そこから先の言葉は続かなかった。
言うのを躊躇っている。けれど俺だって言いたく無い事を無理に言わせるほど鬼では無い。
「別に無理して言わなくてもいいぞ」
その言葉を聞いて、どこか心に余裕ができたように見えた。
別に一度たりとも明らかに暗い顔になったり、ましてや辛そうな顔になったりなど由美さんはしていない。けれどやはりさっきの微笑みは無理をしていた。そう今なら確信できる。
「うん。ありがと」
「あら? あんたそこで何してんの?」
それは笑い混じりで、どこか小馬鹿にしたような声だった。
刹那、由美さんの顔からさっきのお礼と共に出てきた自然な笑顔は、口を小さく開けたまま消えてしまった。
すぐにその声の持ち主は由美さんと良い関係を構築している人では無いと理解した。
振り向くとそこにはぼさっとした髪型で、口元なんかは由美さんにどことなく似ているその女性は、疲れた表情を由美さんに向けながら言葉を続けた。
「別にアンタが何してようが勝手だけどご飯だけは作っておいたんでしょうね」
「──うん。いつも通り」
「そう」
それだけを言うと、その女性は俺を睨みつけてきた。いや、これはきっと目がとても細くてそう見えるだけだ。
少し声をかけるのを躊躇ったものの、勇気を振り絞って声を出した。
「あの、すみません」
「何よ」
「あなたは由美さんの母親──ですよね。はじめまして。前田悠です」
「………高田津久手」
これでひとまず全く知らない人ではなくなった。
けれどここからどうしよう。本当ならば話す事を考えてから話を続けたかったが、考える暇を与えないと言わんばかりに、津久手さんがまるで興味のない事にコメントする時のように棒読みで問いかけてきた。
「それで、何よ」
「……えっと──。ゆ、由美さんとは仲良くさせてもらっていますっ」
そう勢いで言い放ち、そのまま頭をばっと下げてやり抜いた。が、すぐに今言った言葉を思い返して後悔の念に駆られた。
やっちまったー……。もう頭、上げられないぞこんなの……。由美さんもきっと笑っている。いや、引いているかもしれない。
ぐっと手に力を込めて恥ずかしさを押し殺しながら、時間が経つのを待っていると、「そう」という小さなつぶやき声が聞こえたのと同時に足音が聞こえ始めた。
恐る恐る頭を上げると津久手さんはもう既に近くの家に入っていくところだった。
きっとそこが高田家なのだろう。
そして、その女性の姿が見えなくなるのと同時に由美さんは口を開いた。
「はあっ。ねえ、ちょっと悠君。君は私を帰らせないつもりなのかなぁ」
「え? どう言う事ですか?」
「──いや、どう言うことも何も……あんなの……さ。本当に挨拶……みたいじゃん!」
「まあ、俺は一応そのつもりでしたけど……」
全く知らない人だとただの不審者みたいなものだからな。きっとあの人も仕事で疲れているのだろうし、俺なりに気を遣ったつもりだ。
無駄に心配をかけさせないための手っ取り早い方法だと思ったのだが……。なにかまずかったのだろうか。
「そ、そう」
少しだけ頬を赤く染めながら顔を逸らしてしまった。
それから少しの間沈黙が続き、しばらくして由美さんの方から沈黙を破った。
「ねえ。今晩、泊めてくれないかな」
「…………え?」
由美さんの表情は結構真剣な感じだった。が、それとは反対に俺は間抜けな声を出して動揺してしまった。
当たり前だ。だって、意味がわからないじゃないか。今晩泊めてくれないかだって? はっ。男の友達すら一度も家に来たことがないんだぞ? なのに初めてくる人が知り合ってまだ日の浅い女の子だなんて。幻聴とは……また恐ろしいものだ。
「すまん。俺疲れてるのかもしれない。ちょっとゆっくり言ってくれ」
「も、もう一回っ? 仕方ないなぁ。こ、今晩……泊めてくれない?」
そう照れながらも頑張ってゆっくりと言う由美さんはとても可愛らしく、それと同時に何を言わせているんだ俺はというちょっとした後悔が同時に出てきて複雑な気持ちだった。
「すみません。2回も言わせてしまって。ちょっと親に確認してみますね」
「あ、うん」
流石に確認も無しに人を招くことはできないので、俺はスマホを取り出し親に電話をかけた。
数秒間呼び出し音がなり、出た。
『はい、もしもし』
「あ、お母さん? あの、俺なんだけどさ」
『俺ってだぁれ?』
「いいだろそんなこと。それより今日さ、」
『今すぐに一千万円!? そんなの無理よ!』
「あぁぁーっ! もうそのノリはいいからっ。俺は前田悠だ! って、つい乗っちまった!」
ばっ! と音が鳴るほど勢いよく体を半回転させて由美さんの方に振り向いた。
由美さんは──口元に手を当てて「うふふふっ」と楽しそうに笑っていた。
あぁ。いつもの変なものが出てしまった。親と。いや、お母さんが変な人だから俺も何故かそのノリに乗ってしまうんだよな……。
スマホのスピーカーから『悠? もしもーし』と聞こえるが今は恥ずかしさでいっぱいで、そんなものに答えているほどの余裕はなかった。
そんな状況で俺がとった行動。それは──。
「それじゃ、今日友達が泊まるからっ」
それだけ言って電話を切り大きく息を吐いた。
由美さんは今もなお声を出して笑っていた。そんなに面白いかよ……。あぁ、恥ずかしっ。
「なあ、由美さんよ。今の会話は全て忘れてくれないか?」
「えぇ? そんなの無理だよー」
そう小悪魔のような笑みを浮かべながら言う。
まあ今の俺からすれば『子』など付けなくてもいいくらいだけどな。
次は明日です。