20 悪魔が相談していました(前)
基地に帰還したらすぐに確認するという言葉どおり、エリゴールは真夜中過ぎにアンドラスに電話をかけてきた。
アンドラスは彼の指示どおり、ヴァッサゴの偽の転属願を総務部に郵送したことを伝え、よくやったと褒められて、まんざらでもない気分を味わった。しかし、その電話を切る直前、エリゴールが思い出したように、とんでもないことを口にした。
『ああ、言い忘れてたが、今日の戦闘中、ムルムスが死んだ。たぶん、自殺だ。医務室で〝エスケープ〟飲んでた』
「え……?」
驚きのあまり、それしか言うことができなかった。ムルムスが自殺。それも戦闘中の軍艦の中で。既視感がアンドラスの脳裏をよぎった。
『その処理のこともあるから、おまえらの自宅待機は延長されるかもな。まあ、そのときはまた大佐がおまえらに連絡入れるだろ』
エリゴールはそう続けて、笑いながらこう言い足した。
『よかったな。これでライバルが一人減った』
「……何?」
はっと我に返って訊ねようとしたときには、すでに電話は切られてしまっていた。
――ムルムスが死んだ。
携帯電話を握りしめたまま、頭の中で繰り返す。戦闘中ということは、ムルムスはザボエスの軍艦の中の医務室で死んだのだろう。
あのムルムスが自殺。やはり信じがたい。生き残るためならいくらでもプライドを捨てたあの男が、今さら自殺などするだろうか。
かつてのマクスウェル大佐隊では、〝エスケープ〟による自殺自体は、そう珍しいことではなかった。エリゴールが班長となり、裏で〝采配〟するようになってからは激減したが、完全にゼロとはならなかったのである。
最悪だったのは一年前、よりにもよってマクスウェルの軍艦の中で、やはり戦闘中に〝エスケープ〟を飲んだ自殺者が出たことだ。
その隊員がなぜ自殺したのかは言わずもがなだったが、マクスウェルは少しでも自分の責任を軽くするために、その日、その隊員は自分の軍艦には搭乗しておらず、基地の待機室で自殺したことにしようとした。
ところが、エリゴールの班からマクスウェルの軍艦に〝出向〟していた通信士が、マクスウェルがブリッジを離れた隙に、戦闘中に〝エスケープ〟による自殺者が出たことを〈フラガラック〉に報告してしまった。
無論、本来ならそれは正しい措置である。だが、マクスウェルにとってはそうではなかった。ブリッジに戻ってそのことを知ったマクスウェルは、即座にその通信士の報告はまったくのデマだと全否定し、当初の予定どおり、その自殺者は待機室で死んだことにしてしまった。
あのエリゴールの、しかもマクスウェルの軍艦に〝出向〟できるほどの部下なら、当然そうなるだろうことは予想できていたはずだ。もしかしたら、除隊狙いだったのかもしれない。
実際、マクスウェルは激怒し、その通信士を不名誉除隊にしようとまでしたらしいが、どんな裏取引があったのか、その通信士は謹慎および降格処分は受けたものの除隊は免れ、その直属の上官であるエリゴールのほうは何の処罰も受けなかった。
エリゴールが〝無傷〟というのは納得の結果だったが、そんな大それたことをしでかした部下を切り捨てなかったことは意外だった。
しかし、それは単に、切り捨てるにはその部下が多くのことを知りすぎていたからかもしれない。内部からより外部からの告発のほうが、揉み消すのは難しい。
だが、マクスウェルはもうこの艦隊にはいない。アンドラスの今の上官はパラディンだ。
どんな〝大佐〟なのかはまだいまいちつかめないが、ムルムスが戦闘中の軍艦の中で自殺したことをごまかさなかった分だけ、あのマクスウェルよりはましだろう。あいつは本当に最低の〝クソ野郎〟だった。
アンドラスは大きく舌打ちすると、ベッド脇のサイドチェストにプライベート用の携帯電話を戻した。そこには、まだ返却していないマクスウェル大佐隊員用の携帯電話も置いてある。エリゴールが言うように、自宅待機延長の連絡が入るとしたら、こちらの携帯電話のほうだろう。
――本当に自殺かどうかはわからねえが、ムルムスが消えて、ヴァッサゴも消えれば、本当にライバルはいなくなるな。
横になる寸前、ふとそのことに気がついて、アンドラスはほくそ笑んだ。
ムルムスの自殺を疑いつつも、それ以上深くは考えない。パラディン大佐隊に転属された元マクスウェル大佐隊の班長たちの中で、この男が今いちばん幸福かもしれなかった。
* * *
モルトヴァンたちがパラディンの執務室に戻ったとき、すでに夜は明けかけていた。
さすがに疲れた様子のパラディンは、自分の執務机の椅子ではなく、一人掛けのソファのほうに腰を下ろすと、大きく息を吐き出した。
「やれやれ。軍艦一隻撃墜されたときより、軍艦の中で人一人死んだときのほうがいろいろ面倒だなんて、実に皮肉な話だね」
薄く笑いながらそう言った後、自動ドアのほうに金色の目を向ける。
「エリゴール中佐。そんなところに立っていないで、こっちに来て座りなよ。君はほとんど立ちっぱなしで、私よりもずっと疲れているだろう?」
「いいえ」
〈オートクレール〉の艦長席の隣にいたときと同様、背筋をまっすぐに伸ばして立っているエリゴールは、痩せ我慢でも何でもなく、本当に疲れていないようにモルトヴァンには見えた。
ちなみに、エリゴールよりは座っていた時間は長かった自分は疲労困憊状態である。もうこの執務机の椅子から立ち上がりたくない。
「それより、自分の所属は十一班ですので、待機室に戻らせていただきたいのですが」
エリゴールがこのセリフを口にしたのは今が初めてではなかった。〈オートクレール〉を降りてから、幾度となくパラディンに言いつづけてきたのだが、そのたび〝お願いだからもう少しだけつきあって〟と笑顔で却下されつづけ、今まで連れ回されていたのである。
〝不名誉除隊上等〟でも、できることならまっとうに退役したいと思っているのだろう。時々苛立った表情を見せてはいたが、パラディンに逆らうことはなかった。
「まあまあ。ここまで来たら、あともう少しだけつきあってくれないか。君の意見も聞きたいんだ」
だが、エリゴールは自分のもの(退役など論外)と思いこんでいるパラディンがそう簡単に解放するはずもない。肘掛けに両肘を置き、両手を組み合わせてニタニタする。
「一介の平隊員である自分に、大佐殿に申し上げられるような意見などありません」
とうとう忍耐の限界を超えてしまったようだ。エリゴールは不快感をあらわにしてパラディンを見すえた。
「しいて言うなら、自分以外の、大佐殿にふさわしい方のご意見を聞かれるべきだということくらいです。とにかく、これ以上はもうおつきあいできません。ご不満でしたら、謹慎でも不名誉除隊でも、大佐殿のお好きな処罰を自分に科してください。いかなる処罰でも甘んじて受けます」
――ひい! 〝除隊カード〟、もう切ってきた!
想定の範囲内だったとはいえ、今このタイミングで切ってくるとは。モルトヴァンは恐れおののいたが、パラディンは悪戯っぽく笑った。
「じゃあ、私と一緒にレストランで食事して」
思わずモルトヴァンは噴き出した。いきなり何を言い出すのか。しかし、エリゴールは表情ひとつ変えずに切り返した。
「それは処罰ではありません。パワハラです。総司令部に直訴します」
これにはパラディンも目を見張ったが、その理由はモルトヴァンの予測とはかけ離れていた。
「え? 食事がパワハラ? 食事代はもちろん私が全額出すよ?」
――いや、お金の問題じゃないでしょう。
そんなモルトヴァンの心の声を代弁するかのように、どこまでも冷然とエリゴールは返答する。
「全額だろうが半額だろうが、食事したくない部下に食事を強要するならパワハラです」
「パワハラの適用範囲を広げたくなるほど、私と食事をするのは嫌なのかい?」
「適用範囲ど真ん中だと思っていますが、食事をするのは嫌です」
「昨日とは打って変わって強気だね。〝気がかり〟が消えたから、少しでも早くここを離れたくなったのかな?」
不意打ちを食らったようにエリゴールはパラディンを見つめ、パラディンはしたり顔でにやりと笑った。
「残念ながら、私には君を辞めさせるつもりはまったくない。レストランで食事は今日のところはあきらめるから、せめて相談には乗ってくれないか?」
「相談?」
訝しげに眉をひそめたエリゴールに、パラディンは眉を吊り上げてうなずいてみせた。
「そう。――自殺がいいか。他殺がいいか」
* * *
各大佐隊の軍港には、隊専属の医師や医療関係者たちが常駐している(ただし、ドレイク大佐隊は不明。たぶんいない)。
軍港到着後、ムルムスの遺体――モルトヴァンたちも〝現場検証〟に立ち会ったが、医務室のベッドの縁に腰かけた格好で横たわっていた彼は、きつく目を閉じていたせいもあり、まるでただ眠っているように見えた――は彼らの手に委ねられ、ただちに検死が行われた。その結果、ムルムスはやはり〝エスケープ〟により死亡したことが確認されたのだった。
「他殺はないでしょう」
パラディンに勧められ、昨日も座ったソファに渋々腰を下ろしたエリゴールは、呆れ果てたような表情を隠そうともしなかった。
「遺書は残されていませんでしたが、あの〝エスケープ〟は製造番号から見てもムルムスのものです。自殺としか考えられないでしょう」
「まあ、それはそうなんだけどね」
困ったように笑いながら、艶やかな黒髪を右手の白い指先でもてあそぶ。
また〝メモ用紙〟としてエリゴールの向かいのソファに強制的に座らされたモルトヴァンは、醒めた眼差しをパラディンに向けた。実際はまったく困ってなどいないだろう。うまく引き止められたと喜んでいるはずだ。
「でも、自殺と断定してしまうには、いくつか不審な点もあるんだよね」
エリゴールは少し間をおいてから、「たとえば?」と先を促した。
「そう……たとえば、なぜ彼は〝エスケープ〟をそのまま口にはしなかったのか?」
あ……とモルトヴァンは声を上げかけたが、エリゴールはパラディンに話を続けるよう目線だけで圧力をかけていた。〝除隊上等〟だとここまで上官に強気になれるのか。モルトヴァンはちょっとだけエリゴールをうらやましく思った。
「よかった。続きを話してもいいんだね? 〝それがどうした〟と一蹴されてしまうかと思ったよ。……普通、〝エスケープ〟で自殺するなら、開封したアンプルに直接口をつけて飲むだろう? しかし、ムルムス中佐はいったん紙コップに〝エスケープ〟を注いでから、わざわざ水で薄めて飲んだらしい。〝エスケープ〟だからそれでも死ぬことはできたが、おそらく即死はできなかったはずだ。まあ、あれは脳を〝壊す〟から、苦しまずには死ねたと思うがね。それでも、最初から原液で飲んでおけば、もっと早く楽に逝けた。そこがどうも引っかかってねえ。……エリゴール中佐。君の意見は?」
にやにやとパラディンに問われ、また意見などないとはねつけるのではないかと思いきや、エリゴールは素直に回答した。
「確かに、あれで自殺するつもりなら、水で薄めて効力を落とす必要はまったくありませんね。しかし、自殺を考える人間の精神状態は普通ではありませんから、死ぬ前にどうしても水が飲みたくて、それなら〝エスケープ〟と一緒に飲もうと考えたのかもしれませんよ」
「なるほど。そう言われてしまえばそれまでだが。最後に水を飲みたかったか。文字どおり、〝死に水〟になったね」
「他には?」
ごく普通にエリゴールに訊ねられたパラディンは、ぽかんとして彼を見つめ返す。
「他って?」
「不審な点がいくつかあるとおっしゃっていたでしょう? 他にどこを不審に思われたんですか?」
「え? 聞いてくれるの?」
とたんにパラディンは相好を崩したが、エリゴールは逆に眉間に縦皺を寄せた。
「たった今、その気が失せました」
「ええ! そんな!」
「では、さっさと話してください。自分はもう待機室で眠りたいんです」
「眠りたいならここで……」
「お先に失礼させていただきます」
「いや、ちょっと待って! 話すから! 話すから待って!」
ソファから立ち上がろうとしたエリゴールを、パラディンがあわてて左手を伸ばして制止する。そんなパラディンを横目で一瞥してから、エリゴールはソファに座り直した。
「では、早く」
「はい……」
もはや完全に力関係は逆転していた。今は班長ですらない平の部下に脅されて、パラディンは教師に叱られた生徒のようにうなだれている。
「あとは、ムルムス中佐が白手袋をはめていたこと。医務室内やウォーターサーバー、紙コップ、アンプルには彼の指紋が残っていた。つまり、彼はウォーターサーバーから紙コップに水を注いだ時点では、手袋をしていなかったことになる。〝毒水〟を飲んだ後に手袋をはめることは難しいだろうから、飲む前にはめたんだろうね。でも、いったい何のために? 死ぬ前に〝正装〟したかったからと考えることもできるけど、そうするとアンプルに付着していた指紋と矛盾が出てくる。ムルムス中佐が水を注ぐ前に〝エスケープ〟を紙コップの中に入れていたなら、アンプルの上部に彼の指紋がくっきりと残されていたはずだ。しかし、それはなかった。あったのは、付け替えのときについたと思われる、ほとんど消えかけた指紋だ」
――そんなことを考えていたのか。
モルトヴァンは唖然としてパラディンを凝視した。〈オートクレール〉を降りてからのパラディンは、エリゴールを連れて歩けるのが嬉しくて、浮かれまくっているようにしか見えなかったのだが。
エリゴールもそう思っていたのか、今度は明らかに驚いていたが、すぐに元の平静さを取り戻した。
「つまり、ムルムスはまず素手でホルダーから紙コップを外し、アンプルを扱うときにいったん手袋をはめ、ウォーターサーバーから水を注ぐ前に手袋を外して、水を飲む前にまた手袋をはめたというわけですか?」
「紙コップの底のほうが〝エスケープ〟の濃度が高かったからね。水に溶けやすい薬だが、揮発性も高いから、紙コップに入れて少し時間をおいたら、すぐに乾いてしまう」
「そうですね。順番としては、紙コップに水を注いでから手袋をはめてアンプルを開封したほうが合理的ですね」
「まあ、君に言わせれば、それも〝自殺を考える人間の精神状態は普通ではない〟ということになってしまうんだろうけど」
「ええ。別に自殺など考えていなくても、不合理な行動をとってしまうことはいくらでもありますから」
「じゃあ、私がいちばん不審に思ったことを言おうか?」
とっておきの秘密を打ち明けようとしている子供のように、パラディンは無邪気に笑った。
「あのムルムス中佐が自殺なんて、〝殊勝なこと〟をするだろうか?」