25 お礼参りさせました(結)
一瞬の沈黙の後、コールタンとエリゴールは声をそろえて叫んだ。
「クッキーッ!?」
だが、ドレイクが気にかけたのは、クッキーそのものではなかった。
「やっぱり、電話も殿下に〝検閲〟されてるんじゃねえのかな。何であの人が知ってるんだ?」
「盗聴器は?」
息するようにコールタンが問う。
「調べたことないけど、ないと思うよ。ここでいくら殿下の悪口言っても、何にも言われないから」
「でも、一度しっかり調べたほうがいいと思いますよ。念のため」
それもそうだ。ヴァラクやコールタンなら仕掛けかねない。
コールタンが帰ったらさっそく調べようと思いつつ、イルホンは眉間に皺を寄せているドレイクに声をかけた。
「大佐。返信はどうします?」
「まあ、クッキー一つで配置換えしてくれるなら有り難いけど、上官としてやっちゃいけないことだよね。……『お持ちしたいのは山々ですが、上官への贈答は厳禁だって聞きました』」
「殿下に説教ッ!?」
コールタンは驚いていたが、イルホンにとっては茶飯事である。ただ、ここでそんな説教をする必要はないような気はした。
しかし、ドレイクは司令官を楽しませるスペシャリストなのだ。イルホンは言われたとおりの文章をよどみなく作成した。
「では、また送信します」
「はい。お願いします」
コールタンもエリゴールも、未知の生物を見るような目をドレイクに向けていたが、コールタンのほうが耐えきれなくなったように口を開いた。
「あの……いつも殿下とこんなやりとりを?」
「いつもじゃないよ。用がなければしないよ。用があっても、たいていはイルホンくんに代筆してもらってるよ。俺、話し言葉でしか書けないから」
「ああ……そういやそうでしたね……」
そのとき、ドレイクの端末が再びメールの到着を訴えた。
上官たちの視線が、執務机の前で立ったまま待機していたイルホンに集中する。
「大佐。……殿下から返信です」
「やっぱり早ッ!」
「まあ、内容はだいたい想像つくけど。また読み上げてもらえる?」
「はい。――『ヴォルフとキャルに持ってこい』」
「お。俺の想像を超えてきたな。『何でもいいから持ってこい』ってゴリ押しするかと思った」
「もう、あんたたちのやりとり自体、俺の想像超えてますよ……」
ドレイクはにやにや笑っていたが、コールタンは真顔になっていた。
エリゴールとクルタナは、何も言わずにやりすごすことにしたようだ。確かにそれがいちばん賢明だろう。ついでに、黙秘もお願いしたい。
「よし、それなら。『上官の側近への贈答もいけないことだと思います』」
「まだ説教するんですか?」
「上官を正すのも部下の務めでしょ」
「いや、あんたはその上官に、とんでもない頼み事しようとしてるじゃないですか」
そんな部下から説教された司令官の返信は、やはりとんでもなく早かった。
「大佐。……殿下から返信です」
「今度は何?」
「――『ここに私を罰せる人間はいない。クッキーを持ってこい。さもなくば配置換えはしない』」
「交換条件ッ!?」
これには、コールタンだけでなく、イルホンも驚いた。
あの司令官がここまで言うとは。よほどドレイクからクッキーをもらいたいようだ。
だが、わかっていないドレイクは、苦笑いして一蹴した。
「〝私を罰せる人間はいない〟ときたか。ほんとに悪い上官だなあ。そんなにクッキー食べたいの? 殿下なら店ごと大人買いだってできるでしょ?」
「いや、殿下は別にクッキーが食べたいわけじゃなくて……」
わかっているコールタンが訂正を入れようとしたが、ドレイクは耳を貸さなかった。
「しょうがねえなあ。またクッキー買って、明日あたり、殿下に届けるか。……イルホンくん、殿下に返信。『わかりました。明日午後二時に〝大佐〟に配ったのと同じクッキー持って伺います。そのかわり、今すぐ左翼の前衛と後衛を入れ替えてください。あと、ちゃんとみんなが納得できる理由をつけてください。パラディン大佐のときみたいなのは駄目です』」
「やっぱり子供の手紙!」
「……送信しました」
「ありがとう、イルホンくん。これでしばらく殿下からメールは来ないだろ」
「おそらく」
自分の席に戻れとは言われていなかったが、イルホンはただちにドレイクの執務机から避難した。今回は口述筆記なので、司令官を騙してはいない。それでも、やはり気は咎める。
しかし、椅子に座って一息ついたとき、イルホンの端末とドレイクの端末両方から、メールの通知音が上がった。
自分にも届いたということは、司令官の個人的なメールではない。
全員が固唾を呑んで見守る中、イルホンは震える手で内容を確認した。
「大佐……」
「あいよ」
「殿下から……左翼入替の通達出ました……ついでに配置図も……」
「ええッ!? 早すぎないッ!?」
コールタンが律儀に突っこみを入れてくる。
ドレイクも同じことを思ったに違いないが、冷静にイルホンに訊ねてきた。
「入替理由は書いてある?」
「はい。……『この艦隊が敗北しないために』だそうです」
「さすがは殿下。どうとでも解釈できる理由つけてくれるね。ほんとに悪い上官だ」
にやにやとドレイクが笑っている間に、イルホンは再びドレイクの執務机に行き、勝手に端末を操作した。
「あ、やっぱり。……大佐、通達とは別に、殿下からメールが届いています」
「え? まだ何かあるの? まさか、今すぐクッキー持ってこいとか?」
「いえ、違います。『約束は守れ』だそうです」
「はいはい。了解了解」
恐れていた事態ではなかったせいだろう。ドレイクはおざなりに答えて前に向き直った。
「でも、何でクッキーにこだわるのかね? チョコレートじゃ駄目なのかね?」
「だから、クッキーが食べたいわけじゃなくて」
焦れたようにコールタンがまた訂正を入れようとしたが、ドレイクはそれを無視してエリゴールに話しかけた。
「何はともあれ、これで君の希望どおり、左翼の前衛と後衛が入れ替わった。あとはアルスター大佐の決断しだいだが、いずれにしろ、君たちのやるべきことは一つ。……〝この艦隊が敗北しないために〟全力を尽くせ、四班長」
「はい。承知しました。……ありがとうございます。ドレイク大佐殿」
神妙な顔で、エリゴールが軽く頭を下げる。
それに対して、ドレイクは鷹揚に笑って応じた。
「いえいえ、こちらこそ。君を無理やりここに呼びつけてよかったよ。アルスター大佐を〝よかったね〟で終わらせてしまっては、どうやらいけなかったらしい」
「それでは、自分はこれで失礼させていただきます」
結局、イルホンが出したコーヒーには手をつけないまま、エリゴールはそう切り出した。
「パラディン大佐殿に、早急に報告しなければなりませんので」
「それはそうだ。……おっと。ちょっと待った、四班長」
「何でしょうか?」
すでに腰を浮かしかけていたエリゴールは、またソファに座り直した。
「このクッキー缶なんだけど」
そう言いながら、ドレイクはクッキー缶を右手で持ち上げ、中に入っていた個別包装の飴をローテーブルの上にぶちまけた。
「ああ! パラディンの飴をそんな乱暴に!」
コールタンが悲鳴のような声を上げる。だが、ドレイクもエリゴールも、まったく気にかけていなかった。
クルタナも特に反応はしていなかったが、ドレイクに優しくこう言われ、びくりと肩を震わせた。
「クルタナくん。悪いけど、この缶に徳用チョコ詰めるの手伝ってくれる?」
「は、はいっ!」
なんとドレイクは、イルホンが皿に盛って出した徳用チョコレートを、空になったクッキー缶の中に無造作に投げ入れていた。
その横ではクルタナが、さすがに丁寧な手つきでクッキー缶の中に入れている。
「ドレイク大佐殿……?」
「よし、こんなもんか。クルタナくん、ありがとう。……四班長。中身、徳用チョコで悪いけど、これ、また持って帰ってよ」
蓋をしたクッキー缶を差し出されて、エリゴールは間の抜けた声を漏らした。
「は?」
「パラディン大佐にはこの缶ごとあげたんだ。こんな形で返されても困る。だから、〝お返し〟の〝お返し〟。パラディン大佐の口には合わないかもしれないけど、まあ、気持ちということで」
「はあ……ありがとうございます……」
エリゴールとしては、そう答えるより他はなかっただろう。ドレイクから中身の入れ替わったクッキー缶を受け取ると、またあの黒い紙袋の中に戻した。
「ところで、ここでした話、パラディン大佐には何て報告するつもり?」
「殿下に左翼の入替をされてしまっては、もう隠しておける段階ではないでしょう。ここでお話したことを、そのまま報告いたします」
「確かにね。もうそうするしかないね。……パラディン大佐のところへは、次の出撃の後にまた遊びにいくよ。大佐に伝えといて。俺、うっすいコーヒーしか飲めませんって」
ドレイクのくだけた言葉に込められたメッセージを正しく理解したのだろう。
この執務室に来てから、初めてエリゴールはにこやかに微笑んだ。
「承知しました。必ずお伝えいたします」