禁忌の研究所
のどかな田園風景を走る電車に、若い男が一人乗っている。
その若い男は、週末を利用して旅行にやって来ていた。
見知らぬ電車にふらっと乗って、見ず知らずの土地を訪れる。
ちょっとした気分転換のための小旅行が、
その男を、禁忌の研究所へ向かわせることになる。
都会から電車に揺られること二時間ほど。
その男が降り立ったのは、見ず知らずの小さな田舎町だった。
走る電車と同じく小規模な駅の周囲には、
いくらかの商店と背の高いマンションが立ち並ぶ。
ひときわ背の高い建物は市役所だろうか。
小さな駅を取り巻く町並みはそこまで。
その向こうには田園風景が広がり、さらに周囲を山々が取り囲んでいる。
「うーん、何も無いところだな。
でも、こういう場所が意外に楽しかったりするんだよな。
どこか観光案内所でもあると良いんだけど。」
駅前の標識を見ると、
どうやら市役所の中に観光案内所があるようだ。
観光の足がかりにしようと、
その男は、まず市役所へ向かうことにした。
「ようこそ、お越しくださいました。」
受付にいた職員の男が、朗らかに声をあげた。
その男は今、市役所の中にある観光案内所に来ていた。
その観光案内所は、市の観光協会によるもので、
訪れた観光客よりも大人数であろうたくさんの職員たちが、
待ってましたとばかりに観光客に食いついていた。
そんな浮足立った活気の中に、その男がいる。
その男が口を開くよりも前に観光協会の職員がまくし立ててきた。
「観光でお越しですよね?
いやぁ、お目が高い!
この町は観光地としての知名度はまだ高くありませんが、
知る人ぞ知る穴場として話題なんですよ。
四方を山に囲まれて自然が豊かで、
駅前には小さいですがショッピングモールもあります。」
大きな写真を手に、職員の男が説明している。
その男は説明を小耳に挟みつつ、
受付に積まれている観光案内のパンフレットを手に取った。
歴史ある神社仏閣、美しい自然、豊かな街並み、などなど、
月並みな観光名所に、精一杯の美辞麗句が添えられていた。
その男の失望を感じ取ったのか、職員の男はますます声を張り上げた。
「この町の周囲の山は、ほとんど人の手が入っていないんです。
自然が豊かできれいなんですよ。
ちょっとした山登り気分も味わえます。」
言われてその男は、並べられた写真を手に取ってみる。
町を囲う代わり映えしない山々に、ふと見慣れない異物の姿。
大きくて真っ黒な墓石のようなものが、山を覆う森の中に忽然と鎮座していた。
「あの、この黒いものは何でしょう?
何かの建物でしょうか。」
その男は、まくし立てる職員の男の口を塞ぎたくて、
咄嗟にそんな質問をした。
すると、職員の男は、急に顔を寄せてひそひそ話になった。
「え?そちらですか?
・・・あまり大きな声では言えないんですが、
それは禁忌の研究所と呼ばれています。」
「禁忌の研究所?」
「ええ、そうです。
その黒い建物は、ある企業の研究所なんです。
十年ほど前、町に進出してきた企業が、山の中に建てたものでして。
なんでも、その研究所では、禁忌の研究をしているんだそうです。
周囲は私有地になっていまして、我々役所の者もあまり近付きません。
数年前に、それでも中に入ろうとした物好き者がいたんですが、
その人は二度と町には帰ってきませんでした。
そんなこともあって、誰もこの禁忌の研究所に近付こうって人はいません。
ですからあなたも、決して近付こうなどとは思わない方がいいですよ。
下手に近付けば、人体実験の対象にでもされかねませんから。
・・・そんなことより、こちらの市営公園はどうですか。
高台にあって町を一望できるんですよ。」
思い付きの質問だったのだが、
禁忌の研究所などという物騒な言葉が帰ってきた。
のどかな田舎町にある、禁忌の研究所。
その男はどうにも好奇心をそそられて、
職員の男の説明はさっぱり耳に入らないのだった。
その男は観光案内所を後にして、今は市営公園に足を運んでいた。
職員の男の説明通り、市営公園は高台にあって、町の様子が一望できた。
小さな駅を通る電車の線路が山々を貫き、周囲に小さな町並みが広がっている。
町には神社仏閣などがいくつかあるらしい。
月並みだが落ち着く風景。
そのはずなのだが、その男にはどうもしっくりこない。
後ろを振り返って町の逆側を見てみる。
逆側には、背の高いマンションやショッピングモールらしい広い施設、
そして、その背後を囲う山々には、真っ黒で大きな建物が顔を覗かせていた。
遠目に見ると、草原に真っ黒な墓石が突き刺さっているような光景。
そんな明らかに異質な禁忌の研究所。
その話が頭から離れない。
あの黒い建物では、禁忌の研究が行われているらしい。
近付こうとしたものは、町に帰っては来なかった。
決して近付いてはならない。
そんな厳しく戒める言葉が、返ってその男の好奇心をくすぐる。
「入るなと言われると、余計に入りたくなるんだよな。
まるで人里を避けるような場所で、禁忌の研究所は何を研究してるんだろう。
どうしてこんなへんぴなところにあるんだろう。
この町には他に興味をそそられる名物もないんだよな。
・・・ちょっと行ってみようか。
ここからそんなに遠くないようだから。」
そうしてその男は、好奇心に突き動かされるようにして、
禁忌の研究所と呼ばれる黒い建物へ向かうことにした。
好奇心は猫を殺す。
そんな諺の意味を、その男は身をもって知ることになる。
禁忌の研究所と呼ばれる黒い建物を目指して、
その男は町を外れ、山の中に足を踏み入れた。
山の中に車道などはないものの、
踏み固められた獣道のような道ができていて、
幾分か歩きやすくなっていた。
「方向から考えて、この獣道は禁忌の研究所に向かってるみたいだ。
おかげで道に迷うことはなさそうで助かった。
・・・おや?」
すると、その男の向かう先に、何やら大きな立て看板が姿を現した。
この先、私有地につき立入禁止。
大きな立て看板にはそう書かれていた。
その男は立ち止まって頭を掻いた。
「この先、立入禁止、か。
それじゃあ、これ以上は進めないな。」
先の様子を伺うが、森の緩い斜面に獣道が伸びているのが見えるのみ。
あの黒い建物は、まだまだ先のようだ。
仕方がなくその男は、来た道を引き返そうとして、
それから、はたと足を止めた。
「・・・この先、私有地って、どこまでが私有地なんだろう。
聞いたことがあるぞ。
野山や山林って、大抵は誰かの私有地なんだって。
でも、登山道を外れない限りは、そうそう処罰されたりはしない。
もしかして、この看板が言う立入禁止って、
道を外れてはいけないって意味なんじゃないか?」
立入禁止の看板は、獣道の脇に立てられている。
見ようによっては、
獣道ではなく森の方を指しているように見えなくもない。
その男は自分の言葉にうんうんと頷いた。
「そうだよな。
この看板はきっと、獣道を外れてはいけないって意味なんだ。
それなら、獣道を外れないようにすれば、中に入ってもいいはずだ。」
好奇心が法を曲げていく。
そうしてその男は、私有地につき立入禁止という立て看板を越えて、
森の奥へと進んでいった。
私有地につき立入禁止という立て看板を越えてからしばらく。
獣道を進むその男の先に、またしても立て看板が現れた。
この先、工事中につき立入禁止。
立て看板にはそのように書かれていた。
看板にはヘルメットを被ってお辞儀をする人の絵が添えられている。
その立て看板は、またしても獣道の脇に置かれていた。
その男は足を止めて、それから腕組みして言った。
「この先、工事中につき立入禁止、か。
この先ってどっちだ?
獣道が向かう先なのか、それとも森の中か?
こんな看板だけじゃ、よくわからないよ。
さっきも似たようなことがあったし、中に入っても大丈夫かな?
大丈夫だよな。きっと大丈夫だ。」
先ほどの看板と同じく、立入禁止とは森の中を指しているのかもしれない。
その男はそんな言い訳のような理屈を持ち出して、
工事中につき立入禁止という看板の横を、おっかなびっくり抜けていった。
そうしてその男が森の中の獣道を進むことしばらく。
またもや立て看板が姿を現した。
崖崩れの可能性あり、立入禁止。
立て看板の文字を見て、その男はまたしても言い訳を口にした。
「崖崩れって、この辺に崖なんてどこにもないじゃないか。
ははーん。さてはこの看板、間違えて置かれたんだな。
きっとそうだ。
だって、看板が本来どこに置かれていたかなんて、
こっちには知りようがないんだから。
それなら、この先に進んでも問題ないだろう。」
そうして言い訳を用意したその男は、
崖崩れの可能性あり立入禁止という立て看板の脇を抜けていった。
すると行き先にさらに何度目かの立て看板が立ちはだかった。
種の保存のため、立入禁止。
立て看板にはそのように書かれ、
立入禁止を示すロープが木々の間に張られていた。
今度は明らかに立入禁止の範囲を示している。
しかし、その男は引かない。
「種の保存のためってことは、その辺の野草の保護のための立入禁止かな。
それだったら、植物が生えていないこの獣道の上を歩けば問題ないはずだ。」
立入禁止の看板を何度も目にして、感覚が鈍ってしまったのかもしれない。
その男は、少しの躊躇の後、張られたロープを跨いで、
種の保存のため立入禁止という看板の脇を平然と抜けていった。
それからも、いくつもの立入禁止の看板がその男の行く手を阻んだ。
火山の噴火のため立入禁止。
遺跡発掘中につき立入禁止。
放射線管理区域、立入禁止。
などなど。
中には、軍事施設のため立入禁止などというものや、
割れた円を重ねたような、
その男には理解できない図形が描かれた看板も設置されていた。
そんな立入禁止の立て看板に行き当たる度、その男は、
適当な言い訳を用意しては立入禁止の看板を無視して進んでいった。
立入禁止と言われれば、通常であれば黙って従うもの。
しかし、今のその男は、好奇心に突き動かされて、
何度も立入禁止を無視してしまっていた。
どんな警告も、一度無視して通ってしまえば慣れてしまう。
もういかなる立入禁止の看板も、その男を止めることはできなかった。
そうして、現れた立て看板を見るのも面倒そうに、
何が書いてあるのかも確認しないままに立て看板を越えた先、
森が急に開けたかと思うと、
目の前にあの真っ黒な建物が姿を現したのだった。
禁忌の研究所。
そう呼ばれた真っ黒な建物が、その男の目の前に現れた。
山の中、森の奥に突如として現れた人工物は、
決して周囲に溶け込もうとはせず、違和感とともにそびえ立っていた。
開けた場所の広さは、ちょっとした電車の駅よりも広いくらい。
そこに、周囲の木々よりも背が高い、真っ黒な四角い建物が建てられていた。
真っ黒な壁に開けられた窓には黒い目張りがされていて、
外部からのいかなる侵入も固く拒絶している。
それなのに、一階の玄関らしい部分には、
ガラス張りの自動ドアが設置されていた。
玄関の中は白々しいほどに真っ白で、そこだけを見るとまるで病院か薬局のよう。
人の気配もないのに、玄関だけは来訪者を歓迎しているかのようだった。
その男は玄関に近付いて自動ドアの周囲を確認した。
あれだけたくさんの立入禁止の看板が立ちはだかったのに、
肝心の建物の入口には立入禁止の表示などはみられない。
「・・・立入禁止って書いてないということは、
ここは自由に出入りしていいってことだよな。」
森の中の私有地に建てられた建物に、
外部の人間が自由に出入りしていいわけがない。
そのはずなのだが、今のその男は、
いくつもの立入禁止の看板を無視することによって、感覚を狂わされていた。
無警戒に自動ドアをくぐり、真っ黒な建物の中に足を踏み入れてしまった。
真っ黒な建物の中は、真っ白な光景が広がっていた。
壁も床も真っ白で、人の気配はない。
ただ空っぽの通路が建物の奥へと続いている。
「これが、禁忌の研究所なのか?
見たところ空っぽみたいだけど。」
何もなくとも奥に続く通路は人の好奇心を掻き立てる。
その男は真っ白な通路を進んでいった。
通路の左右にいくつかの部屋らしきものがあるのを見つけたが、
ドアにはドアノブすら見当たらず、
鍵がかかっているのか開けることができなかった。
そうして白い通路を進むことしばらく、袋小路に行き当たった。
行き止まりだが部屋があるようで、そこだけはドアが半開きになっていた。
固く閉ざされた数々のドアの中に、一つだけ誘うように半開きのドア。
明らかに不自然。
それでも、その男は止まることができない。
度重なる立入禁止の看板を無視した経験に操られるようにして、
その男は袋小路の部屋の中に入った。
通路の先、半開きのドアを抜けた先の部屋の中も、やはり真っ白だった。
かといって、何もないわけでもない。
真っ白な壁に囲まれた部屋の中央に、真っ白な箱のようなものが置いてある。
大きさは冷蔵庫程度で、実際に冷蔵庫なのかもしれない。
真っ白な箱は引き戸になっているようで、コードが伸びて壁に繋がっていた。
耳を澄ますと、低くて鈍い動作音が聞こえてくる。
そして、その白い箱には、今日何度目かの警告がされていた。
開閉禁止。
白い箱にはそのように書かれていた。
その横の、箱を開ける絵に赤い円と斜線が重ねられたものは、
きっと開閉禁止を絵にしたものだろう。
「・・・これ、箱を開けるなって意味だよな。
この箱の中に、何が入ってるんだ?」
開閉禁止という言葉は、もうその男には届いてはいない。
無視してきた数々の立入禁止に、変わった一つが加わっただけ。
その男の手は、真っ直ぐに白い箱に伸びて、箱の引き戸が開けられた。
すると、箱の中に封じられていた空気がぶわっと広がった。
冷気に僅かな苦味が混じっているような気がして、
その男は咳き込んでしまった。
すると四方の壁に変化が。
壁に何人もの人影が浮かび上がった。
どうやら四方の壁はただの壁ではなくモニターになっているようだ。
白衣姿の男たちが映し出されて、
向こうからも姿が見えているのか、その男の方を興味深そうに眺めていた。
咳き込むその男に、正面の白衣の男が口を開いた。
「ようこそ、禁忌の研究所へ。
ここまでっ辿り着いた人が現れたのは、久しぶりですよ。」
「禁忌の研究所?ここが?」
ようやく咳が収まって、その男が聞き返した。
画面の中の白衣の男は声が聞こえているようで、にんまりと笑顔で頷いた。
「そうです。
あなたも町で、ここに禁忌の研究所があると聞いて来たのでしょう?
ここは禁忌の研究所。
その名の通り、ここでは禁忌の研究をしています。
禁忌の研究、それはつまり、
人が禁忌に触れた時にどう行動するか、その研究です。
あなたはここに来るまでに立入禁止の看板をいくつも見てきましたね?
あれは、人が立入禁止と言われた時にどう行動するか、
それを調査するために用意したものだったのです。」
つまり、白衣の男の言う通りだとすれば、
禁忌の研究所とはつまり、禁忌に触れた人の習性を研究する所だという。
「あれが、禁忌の研究?」
その男はそう言うのが精一杯で、目を白黒させている。
事態をまだ理解できていないその男を差し置いて、白衣の男が話を続けた。
「あなたは数々の立入禁止を乗り越えて、ここまで辿り着いた。
それは研究職としてとても大事なことです。
研究職を志す者にとって、好奇心は何よりも大事なもの。
知識は後からでも身につくが、好奇心は人に教わって身につくものではない。
あなたには、我々に共通するものがある。ここで我々の仲間になる資格がある。
是非、一緒に働いてもらいたい。」
正面の白衣の男が、その男に向かって手を差し出した。
握手のつもりなのか、しかし画面越しでは握手をすることは叶わない。
その男は握手することもできず、白衣の男に応えた。
「申し出はありがたいのですが、
何が起こっているのかもよくわからなくて。
詳しく説明してもらえますか。
できれば、どこかで座って話したいです。
ここまで山を歩いてきたので少し休みたくて。」
疲れた様子のその男を見て、白衣の男は手を引いて口を開いた。
「おや、それは気が付かずにすまなかったね。
休憩できる部屋を用意しましょう。
別の部屋に入れるようにしておくので、そちらに移動してくれるかな。
詳しくはそちらで話しましょう。
なに、帰りの足は心配いりません。
ここにはヘリポートがあるから、どこへでも一飛びですよ。」
「わかりました・・・。」
そうしてその男は、白い箱の部屋から出ていった。
その男が部屋から出ていくのを見計らって、
画面の中の白衣の男たちが話し始めた。
「所長、よろしいのですか?
あのケースの中には、例の感染性の試薬が封入してあったはずですが。」
「構わんさ。
いずれは人体で試す必要があるものだ。
事故や盗難で漏出したのであれば、不可抗力という言い訳もできる。
法的にも問題はない。」
「そうでしょうか。」
「そうともさ。心配はいらない。
彼はきっと我々に協力することを選ぶだろう。
我々と同じく、彼には才能があるからね。
抑えられない好奇心という名の才能が。
そうすれば、彼はもう身内。
外部に情報が漏れることもない。
君、すぐに実験室の準備をしてくれたまえ。」
「わかりました。」
そんな会話の後、白衣の男たちもまた画面から姿を消してしまった。
そんなことがあって、その男は姿を消した。
山へ入ったままで町へも戻らなかったので、
町の人たちからは、禁忌の研究所に向かった人がまた一人姿を消した、
などと恐ろしげに噂されることになった。
そうして今、その男は、禁忌の研究所の奥の部屋にいる。
理由も知らされないまま、自由を奪われ、部屋の外に出ることもできない。
あの時に開けた白い箱の中に何が入っていたのか、詳しく知らされてはいない。
しかしどうやらあれは、何か公にできない実験だったらしい。
つまりその男は、研究職でありながら人体実験の被験者でもあるという。
法的には到底認められてはいない存在。
禁忌の研究所を追い求めたその男は、
今や自分自身が禁忌の存在になったことを知るのだった。
終わり。
立入禁止をテーマにした話でした。
同じ警告を何度も受けていると、警告自体に慣れてしまう。
その先にあるのは、同じく警告されることに慣れきった無法者の集まり。
そんな結末になりました。
禁止と言っておきながら取り締まりされないもの。
それは、破っても問題がない出来損ないの警告などではなく、
警告を破る人を探すための仕掛けなのかもしれません。
お読み頂きありがとうございました。