エナジードリンク
オンライン出勤が多い為か、それともまだ早朝の為か、閑散としているオフィスの机の中に、一つだけやたらと生活感がある机があった。
机の隅に山と置かれた空のペットボトル。コンビニのレジ袋。そしてマグカップに差してある歯磨き粉と歯ブラシ。その歯ブラシは相当に使い込まれているように見える。
柊は青色に赤い牛のマークが入った缶を、その机の上にそっと置いた。廊下の隅、最近は照明を落としているせいで、やたらと不気味な存在にしか見えない自販機から買い求めたものだ。
トイレにでも行ったのか、それとも屋上の踊り場に設けられている喫煙所に行ったのか、オフィスの中にその席の人間の姿はない。おそらくは後者なのだろう。
柊はその席の住人に何十年か前の自分の姿を重ねた。今では珍しくはなったが、人生における色々なトラブルと同様に、決してなくなったりはしない。
以前はこの早朝の時間にオフィスに居るなどと言うのは、彼と同様に徹夜明けの時だった。その頻度は彼よりも遥かに多かったのかもしれない。
もっとも柊としてはそれを誇るつもりは毛頭ない。人生のトラブルの多くと同様に、避けられるのであれば避けるべきものだ。
だが都心から少し外れたと言うのは語弊がありそうな場所に中古の一軒家を買い、遠い昔の様に連日連夜タクシーチケットを切るなんて言うのが夢物語となった今では、満員電車を避けようとすれば、この時間の出勤にならざる負えない。
もし出勤時間に間に合うぐらいの電車に乗れば、依然とさほど混雑度の変わらぬ中、吊革に必死に捉まることになる。
柊はテレワークと言うのは、自分の家に自分の居場所がある者の贅沢品だと思ってしまう側の一員だった。電車に乗るシャッツにスラックスを着た人々を見ると、全員が家に居場所がない自分の仲間の様に思えてくる。
だがそれは柊の単なる幻想で、飲食をはじめとしたサービス業や、製造業、運輸業等に携わる人達にとって、テレワークなどと言うのはどこかの異世界で起きている事なのは十分に理解していた。
柊は席の住人が戻ってきても邪魔にならない様に、いつからそこに置かれているのかも忘れた、観葉植物の影にある折りたたみ椅子に腰をかける。
そして自分用に買い求めた暗緑に黒い折れ線が入った缶の蓋を開けると、それを口に含んだ。説明するのが難しい味が口の中に広がる。
口の中の液体を飲み込みつつ、柊は胸ポケットから携帯を取り出した。そこに映し出されるタイムラインを眺める。そのメッセージの一つ一つを読みながら、横にあるハートマークを押していった。これもある種のエナジーチャージだ。
人間と言う者は何をするのにもエネルギーが必要だ。だけどそれは必ずしも代謝を伴うものとは限らない。むしろそうでないものの方が大事だったりするのだ。
今日も一日が始まる。
三寒四温さんの「エナジードリンク」というお題を元に書いた短篇です。