婚約破棄!?いいえ、円満な解消です。
実は名家の血筋であったのです。
「とうとうこの日が来てしまったのだな・・・」
そう呟き、感慨深くも悩ましいといった面持ちで息を吐き、天井を仰ぎ見る。
金髪に翡翠色の瞳をした、細身ながらも程よく筋肉のついた体躯の持ち主。
19歳になるその男性は、稲穂国の今上帝【延嬉】である。
ここは稲穂国の首都【彩杜】にある、帝の住まう帝居の謁見の間。
帝の座す上段18畳から下がり、下段の33畳の広間の中央で、私は許可を得て帝に拝謁していた。
採光、通風、そして装飾のために設けられている欄間は、帝居に相応しく豪華絢爛な造形を魅せ、また奥襖は絵師の技巧を凝らした珠玉の作品であり、その迫力に圧倒される。
「何ということだ!何代も前からの悲願が漸く成就されようというところであったのに―――!」
「葵の姫。どうか再考を・・・!」
謁見の間の広間に控えていた大臣を始めとした官僚達は、蜂の巣を突いたかのように、上へ下への大騒ぎだ。
「帝の許嫁という立場を反古にしたいなどと!!ご乱心召されたか!?」
―――そう、実は私は産まれた時から、帝の許嫁と決まっていたのだ。
今は帝へ献上する米を育てる農家だが、過去へと遡ると葵家が稲穂国宗家の血筋なのだ。
とある戦がきっかけで、分家である桜家へと帝位を譲渡して、山間部の農村へと退いたとされている。
古い因習を重んじる旧家の人間ほど、宗家の血筋の人間を帝の后として迎え入れたいという想いが強いようだ。
それ故に、今はしがない農家の娘を、葵の姫と呼ぶ。
「克巳殿。其方の意見が聞きたい」
帝は、私の父の名を呼び意見を促した。
この謁見の間の広間に入り、私の隣に座ってから、父は気配をひそめ目を閉じていた。
ゆっくりと目を開け顔を上げると、場の空気がピリッと張り詰めた。
騒いでいた者達も固唾を呑んで黙り込む。
父が宗家の血筋の人間だから、というだけではないだろう。
この国の武門の頂点として存在している【真武山】の頭領であり、最高師範の位にいる玄雲老師より認められ、武術【真拳】の使い手として、師範の称号を与えられた人物なのだ。
稲穂国の宗主の血筋の人間でなければ、真武山本拠地へと連れて行き、真拳を継ぐ次期頭領として指名したかった。と言わしめる程の傑物である。
真武山の門下生の数は、風雅一族程の人口はいないものの、戦力の高さは国内でも有数である。
その師範たる父の判断は、決して軽んじるべきものではない。
この謁見の間にいる者達の見守る中、父はとある内情を語った。
「確かに、御隠れになられました先帝と、今は亡き我が父との盟約により、わたしに娘ができたら、今上帝陛下と婚約をさせると確約されております。それを覆すなど臣下たる者として、してはならない事でありましょう……」
「それが分かっておりながら何故です!本来ならば葵の姫様には、学舎を出で直ぐにでも婚儀に向けて準備をしていただかなくてはなりませんでしたのに!」
女官長の尚侍を任じられている藤田がそのような主張をした。
「我は克巳殿に訊いている。お前はいつから我の会話に口を挟める程偉くなったのだ?」
帝の冷えた声音と視線を受け、女官長は顔を青ざめさせ平伏した。
「も、申し訳ございません―――!」
「もうよい。お前は下がれ」
手に持った扇で指し促すと、女官長は立ち上がり、謁見の間の出入り口の前にて一礼の後に退出した。
「克巳殿、続けられよ」
「畏まりました。では、婚約に際しての内容についてですが、わたしの娘……となっておりますが、ここにいる花音であるとは書状にも記されてはおりません」
その言葉を聴いて、周囲が一斉にさざめきたつ。
「―――そう。葵家の次女である詩愛を推挙致します」
ざわめきは更に大きくなったが、帝の表情を見て、この場にいる者は皆察した。
先程までの眉根を寄せた不機嫌なそれではなく、実に明るく嬉しげな顔だったのだ。
『次女である姫君との縁談はまとまるだろう』
それが判り、部屋の雰囲気は軽くなった。
「克巳殿。花音。別室にて話をしよう」
言うなり立ち上がり、スタスタと歩いて行った。集まっている人々を置き去りにして。
帝の直属の側近である近衛や侍従は、動揺も見せずに即座に付き従う。
帝の退室に際して、臣下一同は跪いたまま胸の前で手を交差し、頭を下げて恭順の意を示し見送った。
それに克巳と花音も続く。
―――謁見の間がある正殿から北へと向かう通路を抜け、玻璃の間と呼ばれる休所へと通された。
「さて!もう堅苦しいのは要らないよ。普通に喋っていいからね~」
うーん。と頭の上で組んだ手を伸ばしながら言う。
先程までの凛々しい佇まいとはうってかわって、のんびりとした雰囲気を漂わせている。
この軽い調子の男性こそ、稲穂国の今上帝である。
「主上!そのような振る舞いは困ります」
「石塚は真面目だなぁ」
近衛の石塚が諫めるも、帝である延嬉は何処吹く風といった面持ちで聞き流している。
「師匠と妹同然の花音だから、いいじゃない!ねっ!」
延嬉は武術の指導を受けている為、父のことを師匠と呼んでいる。
その他の近衛や侍従達は諦め顔だ。
「主上っ……」
項垂れる石塚をよそに、延嬉はニコニコしつつ席に着いた。
「詩愛にも意思確認を取りまして、了承を得ておりますよ」
父は侍従に用意してもらったお茶を一口飲んだ後ホッと息を吐く。
ひとつの大仕事を終え、肩の荷が下りたと言わんばかりだ。
詩愛が自分との婚約を受けてくれた事に、延嬉は顔を綻ばせる。
「そ、そうか…!」
そして幸福感を噛みしめるように頷く。
「主上。途中にて会話に加わります事、平にご容赦を賜りますようお願い申し上げます」
そう発言したのは、年の頃40代半ばの侍従長。
延嬉が許可を出し、今度は私の方を向き、話し掛けてきた。
「葵の姫。予定では葵家次女である詩愛姫が18歳になられる、1~2年後に話し合うはずだったと記憶しておりますが、予定変更になった理由をお聞かせ願えますかな?」
その言葉に父は目に見えて不機嫌になった。
但しそれは、侍従長の発言に問題があった訳では無く、花音が婚約解消を願い出た理由が気に入らなかった為だ。
……男親の心境は複雑なようだ。
侍従長の言葉から分かるように、実は花音との婚約解消と、妹との再婚約は予定されていたものだ。
帝と妹は本が好きで趣味の話も合い、一緒にいて心地いいようだ。
両想いではあったが、后教育等の都合もあり、公表は控えていた。
ちなみに花音は延嬉を兄のようにしか見てはいない。
「えへへ。実はね、好きな人が出来たの」
頬を赤く染め、相手を想い微笑みが溢れた。
東の領主である風雅璃空は、あの出会いから約2ヶ月が経過しているが多忙な為、花音の元へと訪ねて来たのは僅か2回ばかり。
立場のある人なので、お互いの家族に結婚の確約も得られていない状況では、一線を越える行為は無く、あくまでも清い関係を保っていた。
私の家族に会いたいと言っている。
「相手は花音がオレの許嫁だったと知っているのか?」
侍従長の代わりに、延嬉が花音との会話を続ける。
「最初は知っているかと思ったんだけど、帝に忠誠を誓っている人だから、それは無いなと思ったよ」
そこで、おやっ?という顔をする延嬉。
「という事は、身分の高い御仁かな?」
「風雅一族の頭領なの」
部屋にいる父以外の人は、「ほう!」と感嘆の声を出した。
「相手は花音をどう思っているんだい?」
延嬉は自分の顎に手を当て、首を傾げる。
「何度か会ってるけど、お付き合いしたいって」
私は自分で言っていながら照れた。
「太陽神殿の経理一課に勤めているのは知っているんだね?ならば、その立場を信頼して、まだ花音の家については調べが及んでいないと考えるべきだね。もしくは探りを入れても、神殿の個人情報の管理が徹底されていて掴めなかったのかな?」
私はなんとなく、帝の許嫁であった事は言い難くて、そのままにしていたが、今後は伝えるべきだろうなと考える。
「面白そうだから、まだ言わないでよ。オレも立ち会う場面があれば、その時に言うことにしようよ!」
悪戯っ子のような表情で延嬉は笑った。
「それは悪趣味だよ」
私は思わずジト目になった。
「あー。それにしても、帝の許嫁という立場に嫉妬して、私に散々嫌味を言って来た下級女官達とも顔を会わせなくて済むってなったら、気が楽になったぁ~!あ、でもね、今度は詩愛が何か言われるかも知れないから、キチンと護ってね!延兄さん!」
私は帝に対して、子供の頃の呼び方である『延兄さん』と声をかけ、妹の詩愛を悪意から護ってくれるように釘をさす。
「今まですまなかったな。悪意に晒されているのは知っていたが、迂闊に庇うと拗れると言うから……」
決まりが悪そうに眉を下げ、情けない顔をする延嬉。
「私の事はいいのよ。でも詩愛は慣れてないから、知らないふりで放置してると心労が積もってしまうと思うの!」
「分かった。必ず護ると誓おう!」
延嬉は凛々しく宣言した。
「その台詞は詩愛本人に言って!」
言う相手が違う。と指摘すると、頭をかき、「そ、そうだな」などとバツが悪そうにしていた。
「嫁に出す話などまだ早いのに………」
すっかり拗ねてしまっている父に気がつき、私は慌ててフォローした。
「あのね。私はまだ仕事を頑張りたいって相手に伝えてあるから、父さんの言う通りに、まだ早いのよ」
言って父に抱きつき甘える。
「そうか……」
猶予が少し延びただけではあるが、父としては心の準備期間が出来て安堵したのか、少し気分を持ち直したようだ。
「師匠。まだ早いとは仰いますが、花音との婚約が解消された今、詩愛との話を進めるために、これから打ち合わせをしなくては……」
延嬉は父の顔色を伺いつつも、今後の予定の調整の為に動き始めようとしていた。
「………」
父が再び不機嫌になったのは言うまでもないだろう。
花音としては自分はただの農家の娘。と思っているが、実は影から護衛する兵士が多数存在します。