第1事件-8
窓もなく、古い紙の臭いと埃が充満している倉庫は背の高くないルナでも身軽に動き回れるような空間はない。
中を見るために持ち込んだランプに明りを灯すと、念のため扉も開け放しておく。
今、奥の語学準備室には誰もいない。サティは授業中なのだ。
「私も授業時間なのですが。」
「グランド先生には話しているよ、今日は考査に関係のない国内地形と、国境線についての話らしい。だから安心して欠席しなさい。」
「サミット先生、私は考査のために通っているのではなく受講に来ております。知識は得なければなりません。」
「気になるなら後で聞きに行けばいい。ただ、フィオレンティーナ辺境伯の方が詳しいだろうね。」
ルナの眉間に刻まれた皺に、ザグレブが苦笑を返してくる。
授業を行う立場として、他の生徒が考査内容以外に関心を示していない姿をザグレブは見てきたが、ルナは違う。
それが今、彼女を形成しているのであれば素晴らしい考え方だ。
「大衆にフィオレンティーナ嬢の姿勢を真似して頂きたいものだね。」
「学ぶ理由は人それぞれで構いません。私は気になってしまう性分なので要領が悪いこともございますから。」
「そうだとしても上位に君はいる。誇ることも必要だ、たとえ自分が納得しておらずとも、結果と見栄は使いようだよ。さて、この時間しかここを調べられない。フィオレンティーナ嬢、存分に探ってくれ。」
倉庫の入り口付近で腕を組み、ザグレブがルナを見ていた。
そう、文字通り、見ているだけだ。
(探索も結局、私がするのね…好きに触れることが出来るから良いけれど、助手がどちらを指すのかよく分からないわ)
軽く溜息を吐いた後、ぐるりと辺りを見渡した。
きちんと棚に立てかけられているのは過去の考査問題らしい。ザグレブが簡単にルナの目に触れさせているのは、先輩から代々過去問題を受け継いでいる風習があるのだ。
ただ過去問題を参考にしたところで上位に食い込めるほど、この学園の試験は甘くない。
傾向を把握するうえでの参考として、しか効果がなかった。
ルナは過去考査問題を兄らから受け継いでいるが、一度見てテトラやフェリスに渡している。
空いたスペースには、創業記念パーティーやイースターでしか使われない小道具がいくつか置かれており、その中で一部、拭き掃除でもされたように埃がない綺麗な床が見えていた。
(ここに何か、置かれていたようね。これくらいの四角い跡なら、土台付きの置物か、レンガかしら)
血痕は見えず、余程気を遣っていたのだろう。
語学準備室に続く壁面をコツコツと軽く叩いていくと、床に近い位置で軽い音に変わっていた。
(空洞…やはり、ここは穴が開いていたみたいね。壁を壊してみなければ分からないけれど、床を這えば通れるでしょう)
近くの床に触れてから、入り口に立つザグレブへしゃがんだ姿勢のまま声を掛けた。
「ミレット先生、お伝えしていたものをお借り出来ますか?」
「あぁ、これだよ。使い方は分かるかい?」
「以前、ミレット先生の講義中に話を挙げて頂きましたので、書籍で勉強致しました。ただ薬剤までは私では手に入りませんでしたので、実技は初めてです。」
「容易に扱っている方が驚くよ。消毒液やナトリウムはまだしもニトロフタル酸なんて販売しているところにご令嬢が行けるわけがないからね。これが、所望されていた化合物だ。」
血液成分の一つである鉄に反応する薬品がある、とザグレブが科学講義中に言ったことがあった。
そのときにルナは文献でアルカリ性化合物の中でも特定の薬品、ならびに消毒液にも代用されるオキシドールまたは、学生の科学実験でも生成できる過酸化水素水を混合させたものが効果的と調べていた。
この化合物が血液に触れれば青色に発光するというもの。
ザグレブに相談すれば「それぐらいなら作っておこう。」とにこやかに微笑んでくれたため、頼んでいたのだ。
「化学教師としてこれくらいならば実験の一つだよ。」
「それでも、私には知り得ないものでした。有難うございます。」
「ただ、これは鉄や銅にも反応する。血液とは限らないけれど良いのかい?」
「はい。一つの目安として。それに、血液の存在を確認したいというよりは、血液があるならば跡の付き方を知りたいのです。」
「跡の付き方、かい?」
受け取った薬品はすでに散布しやすいよう、デュフューザーに入れてくれていたためルナが屈んでいた語学教室側の壁面近く、床へ吹きかける。
「ミレット先生、扉を閉めて頂けますか?」
このままでは廊下からの明かりが入ってくるために発光反応が見えにくい。
言われた通りにザグレブが倉庫に入り、扉を閉めた。それと同じく、持っていたランプをルナが吹き消す。
バッと暗闇に覆われ、いきなりの暗転に瞳が慣れるまで何も見えない。
暗闇は苦手ではないものの、嫌な感覚に思わずルナの背中に緊張が走った。
「…発色反応、か。」
「ここには、反応の齟齬を生む他金属は見当たりません。それに、お分かりでは?」
「この壁に繋がるような線状、髪にでも残っていた血痕が微かに跡を残したのか。それに、語学教室へ抜けるように繋がるこの跡は血液以外の成分だとしてもおかしい。」
「ご想定なさった通りだと思います。このあたりの壁はおそらく中が空洞でしょう。響き方が異なりました。修繕は業者に頼まれたのでしょうが、杜撰な仕上がりです…!」
手探りでランプを灯せば、思いの外近くにザグレブが立っていたため思わず、ビクリと震える。
触れてこそいないが少し体を傾ければ、ザグレブの胸に頬を寄せられるほどの距離感に、ルナが視線を床に下げた。
「空洞も広めか、ネズミのせいには出来ない規模だな。」
ザグレブは何とも意識していないのか、頭上に視線を落とされていることを感じますます顔を上げることが出来ない。
冷静に考えれば、ルナはまだ17歳。
25歳であるザグレブからすれば子供や妹の域にいるため、意識されること等ないのだろう。
「そ、そうですね…この通路、ならびにこの反応痕は確証に一歩近づきます。」
「動揺を誘うには有効だ、向こうは完璧に隠せたと思っているだろうからな…?フィオレンティーナ嬢?どうかしたか、気分でも優れないのか?」
「え…あ、いいえ。とんでもございません。」
「そうか?伏せたままだが…何か、懸念事項でも?」
顔を覗き込もうと身を屈めてくるザグレブの行動に、思わずルナが固まる。
しかし、強張ったのは一瞬で、肩に手を置かれたと同時にザグレブの顎に向けて掌底を打ち込んでいた。
「…っ!し、失礼を!失礼いたしました!」
「いや…さすがの防衛反応だ。たしかにこの暗闇の中、この距離だ。私の配慮が足りていなかったね。」
ギリギリに平常心を取り戻したため、寸で止めた。
腰を逸らして避けようとしていたザグレブに慌てて謝罪を伝えれば、少し青い顔をしながら答えてくれる。
(あぁ、父様と母様にも言われていたのに!制圧よりも回避を目的としなさい、とあれほど!)
先程とは違う意味で顔を上げることが出来ないルナを見つめているザグレブの表情は怒ってなどいない。むしろ、面白そうにルナを見つめていた。
ガチャ
扉の開く音に、二人共ドキリと其方へ視線を投げた。
「警戒をするのなら扉を開けて音が聞こえるようにしておいた方が良い。もうすぐ、終わりになるよ。」
ユアンが腕を組み佇んでいる。その様子から、心配してこちらに来てくれたようで、ルナが淑女らしい礼を取って「有難うございます」と頭を下げた。
「状況を知っている私ですから宜しいですが、フィオレンティーナ嬢も教師と言えども男性と二人きり、こうして密室に居ない方が良いです。いらぬ誤解も生まないためにも、貴女を守るためにも。」
「はい、思慮に欠ける行動はなるべく控えます。」
「そうして頂けますと私も協力を続けられます。さて、ザグレブこそ理解していると思ったが、まさか君も思慮に欠けるとはね。」
「そう言うな、代わりに欠片は拾えた。ただ、揃ってはいないな。」
ユアンとザグレブがこそこそと小さな声で話している。ルナの耳に入れていないということは、あまり公に出来る話ではないのだろう。
「それでは、私は次限より講義に戻ります。失礼致します。ミレット先生、また放課後に。」
制服のスカートを軽くつまみ、左足を下げて完璧な淑女の礼をとる。
シルバーブロンドがサラリと肩から流れ、倉庫に注ぐ少ない光の中でも輝いている姿は美しいの一言に尽きる。
ルナの姿が見えなくなった後、きちんと戸締りをしてユアンとザグレブが並びながら廊下を、保健室に向かって歩いていた。
「何か掴めたようだね、もう一押し?」
「一押しも、二押しもまだ必要だ。欠片が見つかっただけでも収穫だが…まだ時間がかかるか。」
「やはり彼女は地頭の良さというか勘が良い。容姿も礼儀も、淑女の礼をしている姿は絵画だね。」
「…中身はおいておくとして、たしかに彼女は淑女の鏡と言えるか。」
(人に掌底を食らわせるようなご令嬢はそういないけどな)
心の中で呟き、迷いなく自分の急所を狙ってきた彼女の速さを思い出し、ザグレブがフッと笑う。
それに、ユアンが訝しい表情を返し、珍しく固い声のまま小さな声で囁いた。
「さすがに、生徒へ手を出すのは大人として止めておけよ。」
「するわけない。まだ子供だろう、そこまで苦労している訳じゃないからな。」
「拐かすようなこともしないように…と思ったが彼女の方が靡かないか。」
「だろうな。」