0話 令嬢side*矢玉
ガス燈の投げかける光が、水晶硝子越しに虹のように乱反射し、真昼のように屋敷を照らす。
煉瓦と漆喰で塗り込められた西洋式の洋館は綺羅きらしく豪奢。そして華美だ。
だが慣れぬ己にはけばけばしく感じられ、落ち着かないしあまり美しいとも思えなかった。
その館の中でも一際豪華な一室で、少女はマカボニーの机越しに当主と対面していた。
頬にかかる黒髪をわずらわしく払い、うつむいた顔をあげる。
眼前にいるのは、先日から自分の“父”になった男。
「女給のような仕事をしていたというわりには、振る舞いに問題がないのは幸いだな」
口髭を蓄えたその風采は見た目だけなら立派な紳士と言えるだろう。性根は、下種で下劣そのものであるのだが。
「学園での評価もなかなかだ」
でなければ、このような恥知らずなこと、できはせぬであろう。取り繕った外見との落差がいっそ滑稽だ。
公家の血を引く華族であろうが、血筋や家柄で人格が推し量れぬという立派な証明である。
この数年で己は様々な人を見た。
真の紳士も、
虎のような目をした成金も、
頬を染める純朴な学生も、
人が貧富や貴賤で推し量れぬものだというのを悟るのに、さほどの時間はかからなかった。己が黙ったまま瞳を伏せていると、興味を失ったようにパイプをゆくらす。
「明日は先方が十時にこちらに来られるそうだ。それ前に支度の女中を向かわせる」
「承知いたしました。それでは失礼いたします」
そう告げ豪奢な部屋を後にする。戸が、厭味な程に重たげな音を立てて閉まった。
向かう先は離れに当てがわれた己の部屋だ。
途中、階段の踊り場で遭遇した夫人の、虫けらを見るような視線を軽く会釈をして流し歩を進める。
足元に敷き詰められた葡萄色の絨毯は、厭味なほど毛足が長く黒革のブーツの先が埋まる。
心根ひとつで、誇りと矜持は護られる。その母の教えが真であると、実感したのはいつであろうか。
武家の誇り、士族の矜持。
どれだけ恥辱を受けても、下卑たまなざしを投げられようと、罵倒されそうようとも、
己が堕ちなければ、武士の娘であれる。
そして少女の生に二度目の転機が訪れ、少女は令嬢などと呼ばれることになった。
身にまとう衣は上等な絹になり、しかし、生きる所はこれまで以上の地獄となった。
花街にいた頃のほうが人は余程、苦界というだろう。
しかし、あそこは暖かかった。仲間がいた。傷を舐めあうものだとしても、労わりあい、苦楽を共にし慰めあえた。
店のマスターや姐さん方には散々止められた。
それでも己がひとり苦渋をなめれば、すべてがうまく廻るのであれば自分はどれだけでも耐えられる。
一番恐ろしいこと……それは、己のせいで、大事な人の害が及ぶこと。己の力が無いばかりに、大切な人が守れないこと。
これから己は“人”どころか“女”ですらなく“物”として扱われるのだろう。
だがそれがどうした。
口元にだけ笑みをのせ、少女は微笑む、艶やかに、冷ややかに。
己が無力を噛締めること以上の苦痛など、ありはしない。
己にあてがわれたのは、屋敷から渡り廊下でつながった離れの一室だ。
父親の夫人が仮初に母と呼ばれるのは耐えられても、必要以上に視界にはいるのは虫唾が走る、とのたまったらしい。
そこまでいわれても、少女は彼の人を恨む気持ちにはなれなかった。娘を亡くした哀れな人だというのもあるかもしれない。
けれど、立場は違えどあの男に道具として扱われているのは、彼女も自分も大差は無いのだ。まあ己などに哀れまれているなどと知れば、あの美しい人はあまりの屈辱に倒れるかもしれないが。
離れは母屋の洋館と趣が違う、古式ゆかしい畳敷きの和室のしつらえだ。質素かもしれないが、己にはこちらのほうが余程落ち着くため不満は無い。
マッチを擦れば、燐の匂いとともに暗い室内にランプの投げかける光が落ちる。
たよりない光で鏡台を覗けば、暗く沈んだ己の髪が写った。
白い面に、伏せた飴色の瞳、薄い唇。
見慣れた顔のはずなのに、こうも違った風情になるものだろうか。
「まるで、別人」
ぽつりとこぼした言葉は、まさしく正しいのだ。自分は、これから別の人間に成りすますのだから。
幼いあの頃から、どれだけ取り巻く世情が変ろうとも己は己でしかないのに。
――――――滑稽でしかない。
外見だけのとりつくろい、表面上を飾ったところで少女は少女でしかないのに。
全体的に質素なたたずまいに似つかわしくない一品が、月光をうけてきらきらと光る。
それに目を細め、少女は細く息を吐いた。
金糸銀糸で重たげなほど刺繍の施された真紅の振袖。金襴緞子の帯。正絹の肌襦袢に、蜘蛛の巣のように細かいレェスのリボン。
明日の“見合い”のための衣装だそうだ。
これから己は
偽りの容姿で
偽りの経歴を述べ
偽りの笑みをうかべ
偽りの言葉を吐きながら生きるのだろう。
そんな女を娶らねばならぬ相手を思い、少女は嘆息した。
「せめて……」
そう、せめて。
相手がそんな嘘をついても心を傷めずすむような、そんな人物がいい。
優しい人ではあまりに気の毒だ。