隠れ家 1
ハンスは今、最大限に気配を消し、一台の馬車を追っている。
屋根から屋根へ飛び移り、見失わないように、それでいて近付き過ぎないように。
『この国の屋根は、走り辛いっすね……傾斜がキツいから、気を抜くと滑り落ちるっす』
ファーの町の雑貨屋を出て、馬車が向かっていたのは大きな都市。建物の造りが変わり、尾行の難易度も上がっている。
途中馬車は、一本の路地で止まり、小太りの男が降りて御者の男に指示を出すと、馬車はまた走り出す。
『どっちを追うのが正解っすかね』
ハンスは、小太りの男の行き先をしばらく眺めていたが、馬車を追うことにした。
街並みを抜け、次第に寂れた景色になり、その中でも特にボロボロの建物の、中庭に止まる馬車。御者の男は、幌の掛かった荷台に、ぬっと顔を突っ込む。
「怖い思いをさせてすまない。お前達は必ず俺が家に返してやる。だがもう少し、あと少しだけ辛抱してくれ。どうか俺を信じて欲しい。今は黙って着いてきてくれ」
おそらく、この男が喋る姿など、ここに居る数人以外見たことも無いだろう。命令に黙って従う怪力のゼロという名の男……この日初めて声を出したこの男は今、ずっと機会を伺っているらしい。
何者なのか、目的は何なのか、それはゼロ本人も分からない。ただここに居る囚われの身の人達を 解放したい……その思いだけは、心に強くあるようだ。
何故そうしたいのか、理由も分からない。ゼロは失った記憶と、空っぽの心に少しだけこびりついた欠片が、そうさせているのだと気付くことも無いだろう。
「おい!俺を追って来たやつ、出て来い」
唐突に声をかけられたハンス。少しの動揺と、ゼロの先程までの言葉に対する疑問に、姿を晒す事にした。
「バレてたっすか」
「知らない匂いがした」
「質問してもいいっすか?兄さんはアイツらの仲間っすよね?」
「分からない。俺は拾われて、行動を共にしているだけだ」
「その人達を逃がしたいんすか?」
「ここに居るべきでは無い。なんとなくそう思っただけだ」
「なるほど」
「俺の番だ。何故つけて来た?」
「そうっすねぇ……」
ハンスはこの男を 悪人では無いと判断した。迂闊な事は言えないにせよ、目的くらいは正直に言うのもアリだな……と思った。
「兄さんを拾ったっていうヤツが、悪人に繋がってる可能性があるんす。その大元を調べてるっすよ」
「俺には……分からない」
「それに、兄さんがその人達を逃がしたいんなら、手助け出来るっすよ」
「そうか。だが断る。お前を信用出来ない」
「まぁ、そうっすよね……で、どうするっすか?話を聞かれた俺を始末……っすか?」
「分からない。そういう命令は受けてない」
「なるほど。じゃあ、兄さんの話は、聞かなかった事にするっす。兄さんも俺を見なかった。俺はこのまま帰る……これでどうっすか?」
「いいだろう」
ハンスはそのまま後ろへ飛び、気配を消し直すとその場を離れた。有り体に言えば逃げたのだ。鼻が利くゼロの周囲に、これ以上留まるのは危険である……ハンスの勘は、最大限の警鐘を鳴らしていた。
『面白い男っすね。肌が粟立つっす』
来た道を辿り、馬車が一度止まった路地に差し掛かるハンス。ここまで全力で駆けてきたが、ようやくその速度を緩めた。
『ふぅ……手ぶらでは帰れないっすよねぇ』
そのままハンスは、路地の奥へと入って行くのだった。
次回投稿は、17日の予定です。




