3:家庭訪問(2/2)
「はア……ッ!」
圧力から開放された瞬間、胸いっぱいに息を吸う。
「いらっしゃいませ、我が家へ」
倉科が指差す先に、古めかしい木造平屋の小さな建物がある。あばら家と言って差し支えのない粗末さだ。そしてどこか見覚えがある。
しかし俺の意識は、彼女の自宅ではなく、その背後に吸い寄せられていた。
そこにあったのは、高層ビルと見紛う高さの大木だった。
「なんだ、これ……」
空いた口が塞がらない、という感覚を初めて味わう。確かに木の様相を呈してはいるが、およそ生き物とは思えない輝きを持っている。蛋白石の樹皮に茂る翡翠の葉、たわわに実る果実は水晶のようだ。
「心奪われるのも致し方がありませんね。これが理の秤量器――私達が便宜上、ユグドラシルと呼称している、世界の根源です」
「ユグドラシルって、どっかの神話に出てくる木の名前なんだろ?創作物が原典なんじゃないのか?」
「いえ、あくまでその名は便宜上使っているに過ぎません。その神話を編んだ人間は、理の秤量器に出会った人物なのかもしれませんね。今の貴方のように」
「逆輸入ってわけか……」
この巨木を前にして神性を感じない人間は、感性に問題があるとさえ思える。夢か現実か、断言する自信もないほど圧倒的な非現実味だ。
「そして、あれがグラムガーデンです」
倉科琥珀が指差す先には、ユグドラシルに実った水晶があった。数秒に一度、水晶はユグドラシルを離れ、ゆっくりと落下しているのがわかる。
「グラムガーデンは、ユグドラシルによって産み出され、文化が成熟すると膨らんで地に落ちる――と、サイムス様が仰っていました」
「サイムス様?」
「私を作ってくださった方です。どうぞこちらへ、紹介します」
彼女があばら家の戸を開けると、カランコロンとドアベルが鳴った。レトロな喫茶店で聞くような音が出迎えた先には、骨董屋を思わせる古くシンプルな棚が並んでいる。
「お邪魔します……」
誰にともなく会釈して足を踏み入れると、棚の上に所狭しと並べられている物に目が行った。
「これ、全部グラムガーデン、なのか……」
「そうじゃよ青年。いらっしゃい、ようこそ我が家へ」
唐突に独り言を拾い上げられ、驚きのあまり声も出なかった。初めて耳にするそのしわがれた声は、薄暗い店の最奥部から聞こえてきた。
「陽波さん、こちらが私の創造者、サイムス様です」
カウンターの奥で、一人の老人が笑みを湛えている。深く刻まれた皺は、溶かした蠟が折り重なったようにすら見え、思わず背筋が寒くなる。数年前に九十歳で亡くなった曾祖父よりも、老いて見える――しかし口唇の隙間から覗く黄ばんだ歯は、外観から察する年齢にしては珍しく生え揃っていた。
「初めまして、陽波類です」
「ようこそ、適合者よ――好きなだけ眺めてゆくがいいぞ。世界をな」
彼女はここを家と呼んだが、この部屋は完全に店舗、個人商店の構えだ。この奥に部屋があるのだろうか。ずらりと並んだ巨大なグラムガーデンには、どれも異なる様々なジオラマが封じられている。この一つ一つが異世界、ということなのだろう。俺はしばらく、丁寧にそれらを眺めて回った。
「美しかろう、世界は」
俺が店の中をうろうろしていると、サイムスと呼ばれた老人は、カウンターに座ったまま話しかけてきた。
「まあ、そうですね……」
「しかしどの世界も、滅びを待つばかりじゃ。理の秤量器は万能であるが故に、熟れた世界の終わりを予期してしまう。そこでじゃ、陽波くん。世界を救う旅に出ないかね」
「結構です」
「返事が早いのう!」
滅び? 終わり? そんなものに関心はない。明日世界が終わるとしても、俺は一向に構わない。第二次反抗期を迎える前の妹達を世界の終わりを見届け、兄っ子を永遠のものにするのも悪くない。
「俺は異世界旅行には興味ありませんし、世界を守るヒーローになる気もありません。他をあたってください」
「待つのじゃ……! 誰でも転移を実現できるわけではない、適合者はそう簡単に現れん!」
「その事情は俺には関係ありませんね」
倉科は、親玉に直接説得させるために俺を連れてきたのだろうか。だとしたら勘弁ならない。任意とはいえ連行だ。いや、よくよく考えれば任意ですらなかった。
当の彼女は、俺が苛立ち始めたことに気づき、ただ狼狽している。
俺が踵を返すと、老人は落ち着いたトーンで二の句を継いだ。
「どんな願いでも一つ叶えられる、と言ったらどうじゃ?」
俺の足はピタリと止まる。目ざとくそれに気がついた彼は、更に続けた。
「何も、魔王を倒して世界を救えとは言っておらん。お前さんの願いを叶えることこそが、世界を救うのじゃ」
「どういうことですか……?」
思わず振り返ってしまう。サイムスは真剣な表情を浮かべ、こちらを見ている。その瞳は青く、老猫のような鋭い眼光を放つ。
「理の秤量器が望むことは一つ。自身が生み出す世界の、定められた滅びを回避することじゃ。知恵ある生き物が、ユグドラシルさえ想定し得なかった事象を望み、それを叶える――願望の成就はユグドラシルにとって、都合のいいイレギュラーと成り得るのじゃよ」
俺が望む超常現象が実現することで、世界が変貌し、創造主すら想定し得ないエンディングが導かれる……分かったような、分からないような。
ユグドラシルにとって、すべての世界はバッドエンドへの一本道なのかも知れない。
“力は貸す。だから誰でもいい、ハッピーエンドへの分岐を生み出してくれ――”
人類には随分荷が重いように思えるが。俺のような凡人では尚更だ。
「そのためには、ユグドラシルを起動させる為の鍵を八つ集めなくてはならん。そのための異世界旅行というわけじゃ。どうじゃ、悪い話ではなかろう?」
「はあ……」
俺が叶えたい望みは何だろう?
地位か名誉か? 否、今以上に注目されることは避けたい。
女か? 否、俺は妹さえいれば十分だ。
富か? ……手に出来れば良いとは思うがしかし、得た富で何をしたいかと言われれば――具体的には思い浮かばない。
「やっぱり、俺は結構です」
「なぜじゃ? 望みがないならばお主、何のために生きておる」
「望みがないとは言っていません。俺の望みはただ一つ。妹が幸せであることです。そしてその望みは――自分の力で叶える」
俺は言いながら、老人の目を見つめた。厚く垂れ下がった瞼の奥に埋没する、青い瞳を。
老人は驚いた表情を浮かべ、言葉を詰まらせる。
「……そうか、残念じゃ」
老人は少し俯いて、弱々しくそう言った。ちくりと罪悪感が胸を指す。選ばれし勇者は流れるように旅に出るが、俺は勇者じゃない。
これでいいのだ。これで。
真の勇者が正しくこの場所へ訪れることを願いながら、滅ぶ世界の結晶たちに背を向けた。出口に一番近い棚に、ひときわ目を引くグラムガーデンがあった。特別美しいというわけではない。中に封じられている見慣れた街並みが、俺の視線を引き付けるのだろう。
「それでは、失礼します」
もうやり方は分かっていた。右手の痣に触れると、たちまち赤い光が灯る。そして俺は一人、朝の静けさを保ったままの教室へと戻るのだった。
その時老人がどんな表情をしていたか、想像もせずに。
その日、倉科は学校に来なかった。




