2:箱庭の入り口に手を添えろ(1/2)
小学校までは大して遠くない。自転車の鍵を開けに行くより、走ったほうが早かった。いや、本当は自転車を出したほうが早かったのかもしれないが、俺の頭は到底冷静な判断ができる状態ではなかった。
三丁目の床屋を通り過ぎ、信号直前の角を右に曲がれば第一小学校がある。
小学校は顔パスだ。ここ二年間、学習参観や三者懇談には俺が出席してきた。小学校の学校行事に、男子高校生が顔を出しているのが大層珍しいらしく、誰もが俺の顔を覚えている。
養護教諭ですら、だ。
「凛ですか、蘭ですか!」
俺は保健室に飛び込むなり叫んだ。
「しー! 陽波さんお静かに……! 倒れたのは凛ちゃんです、今は寝ていますよ」
「すみません、ありがとうございます……」
ベッドに近づくと、横たわった凛が浅い呼吸を繰り返していた。
「さっきまで蘭ちゃんが、手を握っていたんですよ」
熱に浮かされる凛の手を蘭が握り、言外の励ましを与える様を想像し、あまりの尊さに一瞬頭を抱えた。
しかし、今は妹達の愛らしさに浸っている場合ではない。
俺は一歩二歩と歩み寄り、凛の額に触れた。
「熱ッ……! 何度あるんですか?」
「四十度弱です。高熱で倒れたようで……蘭ちゃん曰く、今朝から暑い暑いと言っていたそうです」
「今朝から……?」
今朝のことを思い出そうとするが、思い出せない。昨晩は結局遅くなり、今朝は眠たい目をこすりながら今晩の夕食を用意した。彼女たちと朝の挨拶を交わしたはずだが、どんな様子だっただろうか――妹が大事だと言っておきながら、目が届いていなかった自身の不甲斐なさに絶望する。
「今すぐ病院に連れていきます……!」
「しかし、この時間となると……」
養護教諭が時計をちらりと見る。昼休みが終わり、現在は午後一時ぴったりだ。午後の診療が始まるまでまだ一時間はある。
「この季節は熱中症患者で救急も手一杯です。救急車を呼んで救急病棟の順番待ちをするか、待って近所の小児科の午後診療にかかるか……どちらが早いか、判断が難しいですね」
養護教諭とともに頭を抱えた。凛に目をやると、耳まで真っ赤にした顔は見ているだけでも苦しくなる。一刻も早く楽にしてやりたいが――。
このとき、保健室の扉が開く音に思考を遮られた。
「せんせえ! グラウンドでミワちゃんが倒れた!」
体操服姿の女児が、焦った様子で伝える。養護教諭は俺をちらりと見た。
「陽波さん、凛ちゃんはおそらく風邪でしょう。感染症でも熱中症でも無さそうですから、しばらくここを使っていただいて構いません。どうするか、判断は陽波さんにおまかせします」
「そんな、ちょっと……!」
養護教諭は、戸をきちんと閉めることもなく足早にその場を去っていった。
俺は一人での判断を迫られる。救急病棟の待合室は、混み合っていると椅子に座ることすら難しいのは体験済みだ。ここに寝かせておくほうが、凛の体の負担は小さいのかもしれない。しかし、氷枕がみるみる溶けるほどの熱から、彼女をすぐにでも開放してやりたい気持ちになる。
「どうする……!」
俺の奥歯がギリッと音を立てた。
「お困りのようですね!」
保健室の窓が打ち開かれた。窓の外から、一人の女性が入ってくる。陽に透ける白銀のツインテール――倉科琥珀だ。
「またお前か! ていうかここ二階だぞ!?」
「些細なことです。そんなことより、お困りなのではないですか?」
「まあ、困ってはいるが……」
「お助けしますよ」
彼女は背負ったリュックサックをおろし、中から何かを取り出す。
それは巨大な水晶玉に見えた。
バレーボールほどのサイズがあるそれは、よく見ると中にファンタジックなジオラマが封入されている。巨大なスノーボール、と言った方が正しいかも知れない。
彼女は空いている隣のベッドにその球体を置き、そしてブラウスのボタンを開け始めた。
「な……ッ!? なにしてんだ!?」
と言いつつも、つい目線は開かれていく胸元へ吸い寄せられてしまう。絵に描いたようなくっきりとした谷間のラインへ埋まるか埋まらないかの位置に、痣が姿を表す。
はっきりとした模様を成すその痣は、俺の右手首にあるそれと酷似していた。
「旅立ちましょう。グラムガーデンの中へ」
「グラ……? なんだって?」
動揺する俺を無視し、彼女は自身の胸元に手を当てる。彼女がその手を外すと、胸元の痣には赤い光が灯った。
彼女は球体を再び持ち上げると、そのまま凛の傍らへと移動する。
「さあ、こちらへどうぞ」
招かれるままに距離を詰める。半歩の距離まで近づいたところで、彼女は俺の右手を強く引いた。
「今回は、私のエナを込めますね。妹さんを抱き上げてください」
手と手が離れる。俺の右手の痣は、彼女の痣と同様に赤く仄かに光った。
「何の説明も無しに何なんだ? お前、俺に何をさせようとしている……?」
「あなたの妹を苦痛から救って差し上げます」
「説明になってないな」
「自分の命は妹のためにあるとおっしゃいましたよね。もしかして虚言だったのでしょうか。それとも覚悟はその程度だったのですか?」
畳み掛けるような彼女の言葉に気圧され、黙ってしまう。半信半疑で凛を抱き上げた。
「そのまま触れてください、グラムガーデンに」
彼女が、球体をぐっと差し出す。先程から繰り返されている「グラムガーデン」という単語は、この球体を指すらしい。
俺は凛を抱く手に力を込め、そして恐る恐る「それ」に手を添えた。倉科も同時に手を添える。
途端、球体表面が揺らぐ。
つぷりと自身の指先が球体の中へ沈み込む。
「……ッ!?」
「決して妹から手を離さないようご注意ください」
腕は呑まれるように球面の奥へ消えていく。
「旅立ちましょう、異世界へ」
忽ち、視界はブラックアウトした。




