10:蜜の香りで淀む部屋(2/2)
「お父様も民衆もステラステラステラ! あの子が生まれるまで私がどれだけの努力を積み重ねてきたと思う!? あの子は生まれつきエナ容量が高いってだけで持ち上げられ甘やかされ最高の環境を与えられる! あまつさえあの子はそれすら気に入らなくて投げ捨てる!」
パリンと音を立てて水盆が割れ、水はこぼれ花が散る。
「私頑張ったのよ……? 成績はずっと一番、ブリーダーコンテストも毎年入賞したし、ミススクールになったのも姉妹では私だけ! それなのに何? エナ容量が人より小さいだけで、政治を円滑にすすめるための玩具にしかなれなかった! 毎日のようにここで知らないおじさまと交わったわ。毎日毎日毎日毎日誰がお前のようなどこの馬の骨とも知らぬ輩と好き好んで触れ合うと思って! 身の程を知れ!」
ヒステリックなトーンは指数関数的に増大し、声帯の限界を告げるようにぷつりと切れる。
「私の欲しいものは、全部あの子のもの……一番好きな人………トルク様の心さえ…………」
俺はいつの間にか、手を離してしまっていた。呆気にとられ、何も言えなくなってしまう。
「許してよ。欠陥品が欠陥品を集めて傷をなめ合うくらい……仕事を少し手伝って貰わないと、辛すぎるの。辛すぎるのよ…………」
おぞましさにに身が震える。このベットが今まで吸い込んできた体液が、欲望が、俺の体を絡め取って身動きが取れない。
「……かーくん、おいで」
聞こえるか聞こえないか、微かな声で何かを呼ぶルーナ。間接照明で長く伸びた彼女の影は、うねり、しなり、そして唸った。
狼に似た影の獣――カエクエンシィ。
「私の頬をぶちなさい……早く!」
彼女が枯れた声で叫ぶと、カエクエンシィはその身を大きく振り、長く伸びた尾で彼女の頬を打った。
よほど強く打たれたのか、その頬はすぐに赤く腫れた。そのままベッドから降りると、その場にへたり込み、顔を上げる。下瞼から、一筋の涙が伝う。ハッとして、俺は立ち上がった。
「そうやって足を引っ張り合って、何の解決になるって言うんだよ……!」
俺の声は空虚に響く。効果的な一言は引き出しの中に入っていない。
「それじゃあ、誰も幸せになんて――!」
「ベル、扉を開けて」
俺の発言をかき消すように、彼女は発語した。呼びかけに応じて、メイドが扉を開ける。それと同時に、ルーナは甲高い叫び声を上げた。
「助けてっ、助けてください!」
ルーナが扉に向かって駆け出す。外には数人の護衛官が立っていた。
「ルーナ様……! ど、どうされたのですかその頬は!」
「あの男が突然……! うぅ……ッ」
彼女は護衛官の胸の中で泣き崩れる。一部始終を見ていたはずのメイドも駆け寄り、こういった。
「あの男が手を上げました」
「前触れもなく、獣のようでした」
外野の視線が、一斉に俺を刺す。
「そ、そんな! 待ってくれ、俺は何も! 彼女は自分で……!」
「あの男を捕えよ!」
「よもや要人ではない、地下牢へ連れ行け!」
「な……ッ!?」
敵意に満ちている。誰一人として俺の言葉を信じようとはしない。彼女の口角がにたりと上がるのを、俺は見逃さなかった。
畜生、嵌められた……!
その場にいた護衛官が、一斉に部屋へ雪崩こむ。槍のような形状の武具には、びっしりと刻印が刻まれている。魔法具であることは間違いない。護衛官は散開し、あっという間に取り囲まれた。
万事休す。
花火を使ったはったりは、銀の腕輪が阻んでいる。ここで俺にできることは、ただ一つだった。
俺は深く息を吸う。
「静水羽ばたきて『氷柱』と化せ」
部屋中に配されている水盆が震える。花弁を巻き込みながら水面は隆起し、氷が突き上げては割れ、突き上げては割れを繰り返しながら高く伸びていく。
護衛官の一人が、雄たけびを上げながら剣を振りかぶった。氷柱は意思を持ったようにしなり、その刃を絡め取る。
「『氷塊』瞬きて凛として『裂け』」
幹のように膨らみ伸びた氷が天井まで至ると、枝葉を広げるようにして展開する。
背後から飛び掛かってくる人影に気付き、すんでのところで身をかわす。勢い余った護衛艦官の体は、正面の仲間を巻き込んで倒れこむ。隙を狙って両側面から飛び出した護衛官の武具は、氷中に触れた部分から瞬く間に凍りつき、動きを封じられた。
俺は凍てついた空気で肺を満たし、声を張り上げた。
「氷林の交響曲〈ソルベット・シンフォニア〉――!」
「きゃああああッ!」
メイドが叫び声を上げる。それもそのはずだ。部屋中に張り巡らされた氷柱は一斉に砕け、鋭利な刃となって四方八方に飛び散ったのだから。
床からの照明に照らされた氷は、煌めきながら触れたもの全てを裂いて降り注いだ。
護衛官の革鎧には微細な刃が突き刺さり、皮膚に触れれば切り傷をつけた。
「貴様、何者だ……ッ!」
護衛官の一人が叫ぶ。その腕には氷が突き立てられている。良心が痛むがおあいこだ。なんせ俺の顔も、氷の刃で切り傷だらけなのだから。
動きは封じたが、どうする――?
正面突破すれば、部屋の外にいる女性陣にまで被害が及んでしまう。非武装の人間に刃を向けるのは、良心の呵責で心が折れてしまいそうだ。
しかし背に腹は代えられないか――再び詠唱を始めようとしたそのときだった。
「陽波さん!」
背後から、窓が割れる音。
振り向くとそこに、光の羽を帯びた琥珀の姿があった。
「早くこちらへ!」
神々しいにも程がある。窓枠の数メートル先に、彼女は浮かび、両腕を大きく広げていた。
「簡単に言うなよな、ここは五階だぞ!」
悪態をつきながらも、顔が緩んでしまう。俺はベッドに踏み込み、窓枠に足をかけ。
そして跳んだ。
下は見ない。そう決めていた。
彼女の腕に抱き止められる。
「しっかり捕まっていることです」
「おう!」
彼女は羽ばたいた。屋敷が、ざわめきが遠くなっていく。
「うわ、体中傷だらけですね。相当激しい戦闘だったのでしょう」
「いや、これは自分でやった……」
「なんと。混乱のバステを付与されたのですかかわいそうに」
こいつ、こういう用語どこで覚えてくるんだ?
「……助かったよ琥珀。ありがとう」
「礼には及びません。全身マッサージ六十分コースで手を打ちましょう」
「礼で手を打たせてくれないか」
琥珀の体がゆっくりと地面に向けて降りていく。遠くの景色に溶けてしまった屋敷を見送り、最後にステラに会えなかったことをひどく残念に思った。体調は大丈夫だろうか。
もっと他に考えるべきことがあるはずだが、今は考えたくない。
俺たちは林の中で、絢爛が過ぎる衣装を剥がし、破り、縛って縫った。ポケットに裁縫道具を入れっぱなしにしていたことが、功を奏するとは。これから俺たちは、人の海に紛れなくてはならない。重厚なドレスは目立ちすぎる。
領主の長女に暴行し、護衛官を傷つけ、窓を割って逃げたのだ。捕らえられれば、殺されてしまうかもしれない。深く考えれば不安だけがそこにある。
「陽波さん、今は逃げましょう。どこまでも」
「ああ、勿論だ」
それでも、一人じゃない、というだけで心強いことこの上なかった。
一瞬、ルーナ・オルビスの涙に歪んだ顔が頭をよぎる。俺は頭を強く左右に振り、思考を遮った。
「ところでその羽すごいな、それも魔法か?」
「いえ、これは生き物ですよ」
琥珀が自らの肩を叩くと、翼の大きさが不釣り合いな鳥が姿を表した。長すぎる体毛に目や脚は埋もれているが、くちばしの先が僅かに覗いている。どうやらこの生き物が、琥珀の肩を強く掴み、飛んでいたようだ。
「……そいつどこで捕まえてきた?」
「中庭に繋がれていたので、拝借しました」
ドヤ顔の琥珀を他所に、俺はため息をつく。
……罪状に、窃盗罪が追加された。




