8:星満ちる朝
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寝不足だ。
覚えがある限り、女子との添い寝は初めてだったが、決して良いものではなかった。琥珀がものすごく動くのだ――抱き枕にされるところまでは可愛いものだったが、腕が首にかかって絞め技が決まりかけること数度。さらには狙いすましているとしか思えない蹴りが腰にヒットし、最終的にはベッドの端にまで追いやられた。
当の本人はスッキリした朝を迎え、澄まし顔しているのだからやりきれない。「良いベッドでしたね、よく眠れました」の一言には呆れてものも言えなかった。
朝、と言っても空に太陽はなく、俺の感覚から言えばやはり夜である。しかし、陽源が明るくなっているからか、外から僅かな眩しさを感じた。
「まだ練習していらしたのですね」
洗面器に張った水と向かい合う俺に、声をかける琥珀。着替えに手間取っていたようだが、ようやく終わったのか。
「まあな。コントロールもなかなかできるようになって来たんだ。ちょっと見ててくれよ」
俺は深く息を吸い込む。
「静水羽ばたきて氷鱗と化せ
風花瞬きて凛として咲け」
詠唱に呼応し水面が細かく震えると、放射状に霧が吹き出す。僅かな風を伴いながら、霧が螺旋状に立ち上る。
「氷星の輪舞!」
霧は一瞬にして凝固し、氷の粒となってゆったりと舞い落ちる。化粧灯の明かりを受けて、星屑のようにきらきらと輝いた。
「おおー、すごい決め台詞ですね」
「俺は魔法の方を褒めてほしかったんだけど?」
「スターダスト・ロンド! ……必要なんですか?」
「もしかして馬鹿にしてる?」
「スターダスト・ロンド! ふふ……馬鹿にしてませんよ。いいと思います。ふふ」
「間違いなく馬鹿にしてるな!」
十七歳男子でも泣いちゃうからな!
仕方がないのだ、何故か決め台詞……というか、技名がないと魔法が発現しないのだから。俺自身が潜在的に、魔法には技名があるものだと強く認識しているのかもしれない。間違いなく昔遊んだ数々のゲームの影響だ。
「それで、この魔法は何に使うんですか?」
「綺麗だろ?」
「ええ、綺麗ですね」
「それだけだよ」
「それだけ……?」
キョトンとした顔つきでこちらを見る。それだけでいいんだ。きっとそれだけで、ステラは笑ってくれるだろう。昨日のように元気がない時、俺の魔法が役に立てばいい。
琥珀は納得がいかない様子で首をひねったが、すぐに「そういえば」と手を叩いた。
「昨晩はどちらにいらしたのですか? 遅くまで帰っていらっしゃいませんでしたが」
「ちょっとその辺を散歩してたんだ」
「へぇ……」
「なんだその目は……」
「何でもありませんが?」
ジトッとした視線が俺の顔面をちくちくと刺す。隠すようなことは何もしていないが、なんとなく昨日あった出来事は秘密にしておきたい気がしていた。
「……あまりにも帰りが遅いものですから、部屋にメイドを連れ込んでしまいました」
「連れ込むなよ!」
話し相手が欲しくてナースコールを押す長期入院者のような所業だ。迷惑極まりない。
「その結果、泣かせてしまいました」
「一体メイドに何を話して聞かせればそうなるんだ? 怪談か? お前は稲川淳三なのか?」
「最後まで黙って話を聞いてください。まず、メイドが突然キスをしてきたのです」
「それで?」
「そのまま恭しく服を脱がされますね」
「ほお?」
「指先がスカートの中に」
「ちょっと待て! 最後まで黙って聞くの無理だわ!!」
「せっかちですね……とにかく、唐突に始まった不適切な行いに動揺したのです」
「そりゃ動揺するわ」
まさか女性を招き入れた結果襲われるとは誰も思わない。
「動揺のあまり腹パンしたのも致し方ないことですね」
「お前すぐ腹パンするね……」
「そして泣かせてしまったと言うわけです」
それは俺でも泣く。
「悔い改めよと説いたところ、興味深い話が聞けました。この屋敷のメイド、緑のリボンを付けているものは性接待係を兼ねているそうです。私が部屋に呼んだのが、性接待を望んでのことだと思ったようですね。誰に強要されているのか、決して口を割りませんでしたが……この屋敷、異常です」
虫唾が走りますね、と琥珀は眉根を寄せた。
緑のリボン。
昨日出会ったメイドの多くは、赤いリボンを身に着けていた。廊下で雑談していたメイドたちですら。しかし、緑のリボンを着けていたメイドに心当たりがある。
『風呂付き』の、彼女だ。
「ルーナ・オルビス……」
思わずその名が口をつく。
「……昨日も聞いた名ですね」
「ああ。一部のメイドにその手の仕事を頼んでいる、犯人だ」
琥珀は目を見開き、ルーナ・オルビス、と繰り返した。
「腹パンしなくてはいけませんね」
「……そうだな」
腹パンで許される行いではない。緑リボンのメイドは、確実に差別されている。それを、赤リボンのメイドは見て見ぬふりをしている。そうしなくてはならない環境がある。
俺にできることはなんだろう――
部屋の扉が三回ノックされ、意識が引き戻された。
「おはようございます。朝食をお持ちいたしました」
部屋の外から声がする。琥珀がどうぞと返事をすると、一人のメイドがワゴンを引いて部屋に入ってきた。
「失礼いたします」
深いお辞儀。胸元には、赤いリボンがついている。
席につくと、メイドが手際よくテーブルに朝食を並べ始めた。メイドの手でドームカバーが開かれると、中から甘い香りが立ち上る。
姿を表したのは、丸く大きなデニッシュのようなもの。メイドが銀のナイフをとりだし、これを突き立てると、中からじゅわりと蜜が溢れ出す。仕上げとばかりに白い粒を振りかけると、蜜はぱちぱちと小さな音を立て、カラメル色に焦げ付いた。カバーを開けた瞬間とはまた違う、香ばしい匂い。
「フルーツを添えてお召し上がりください」
繊細な装飾が施されたガラスの器には、カットされた果実が上品に盛り付けられている。どれも初めて見る果物で、中には少々グロテスクなゲル状のものもあるが、色鮮やかさとベリーのような甘酸っぱい香りは食欲をそそる。
焦げ付いた蜜の表面は、フォークを当てるとパリッと割れた。中から再び溢れた蜜と、果物、そして柔らかなデニッシュが、口腔内で絶妙な多重奏を繰り広げる。
歯を立てるたび、サクサクと蜜が音を立てる。芳醇、と言って差し支えない。口のみならず、目が、耳が、鼻が、喜んでいる。
「ここの飯は本当に旨いな……」
「はい、美味です……」
二人揃って、語彙が急速に減少していく。本当にいいものを前にすると、そうなるものだ。
昨晩のディナーでも思ったことだが、凛と蘭にも食べさせてやりたい。俺ばかり贅沢しても、面白くないのだ。
食後の紅茶に、二つのティーポットが用意された。ガラスのポットだ。ポットが温められる工程から見ているとなかなかの手間だが、ポットがガラスだと見飽きない。茶葉が、ポットの中を上下する。
「お食事の後、ご主人様の元へご案内致します」
「そうだったな。お願いします」
「? なんの話です?」
「実は今日、領主と面会することになったんだ。お前も来るだろ?」
「申し訳ございませんが、コハク様にはご遠慮願います」
琥珀が答える前に、メイドが口を挟んだ。いいじゃないか連れなんだから、という俺の言葉を目線で封じる。
「食後のお茶はごゆっくりお楽しみください」
俺と琥珀に、それぞれ別のポットから紅茶が注がれる。
「うわっ、苦……っ。これ、出し過ぎじゃないすか?」
「いいえ、間違いはございません。そちらはキューロ茶ですから、独特の苦味がございます。治療の一環とお考え下さい」
「こちらは、なんのお茶でしょうか? 香りも味も甘いですが」
「コハク様にはメル茶を淹れてございます。あらかじめ糖蜜を加えさせていただきました」
ふふん、と自慢げにこちらを見る琥珀。俺が苦いお茶に顔を歪める様がそんなに面白いか……!
「ルーイ様、一杯は飲みきっていただきます」
「はい……」
良薬口に苦し。俺は琥珀の倍以上の時間をかけて一杯飲み干した。次に鏡を見るときは、痣さえ消えているだろう。そんな気がした。
――そうでなくては困る味だった。
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