4:緑のリボン(2/2)
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小学生の頃、プールが大好きだった。夏休みともなれば、毎日のように学校開放プールに通ったものだ。しかしプールを持たない中高一貫校に進学した俺は、その後プールに触れる機会は無かった。
つまり、相当に久し振りなのだ。水に浸かるというのは。
「どうかなどうかな、ちょっとは良くなった?」
横たわる俺の頭を、ステラ・オルビスは撫で回す。薄手の手袋が擦れてくすぐったい。彼女は、ここフローレンス領を代々治める、オルビス家の三女――らしい。印象的な藍色の瞳は、潤んでいる。
そこまで責任を感じることはないのに、と思えるのは、俺が今手厚い待遇を受けているからかもしれない。余裕は人を優しくする。
楽な体制で浅い円形のプールに浮き、傍らに美女。水面に浮かべられた色とりどりの花々から漂う、甘い香り。そうか、ここが楽園か。
「うん、かなり良くなった。というか、嘘みたいに痛みが引いたよ」
「ほんと? よかったあ」
花が咲くような笑顔だ。
腰巻き一丁の俺に対して、彼女はかなりの重装備だ。スカートこそ短いが、足は黒いタイツに覆われている。足だけではない。腕も、バックリ開いた胸元も、タイツと同様の黒い布で覆われている。
しかし、汗で蒸れているのか、布地は胸元に張り付き、その立体感はむしろ強調されている。この世で最もエロい格好は当然全裸だと思っていたが、これはこれで――
「ん? どうしたのかなっ? 私の顔、何かついてる??」
俺の考えていることなど微塵も知らない無垢な瞳で、俺を見るステラ。エロスの新世界が開かれた、という露骨なモノローグは早急に仕舞うとしよう。
「不思議だな、と思ってさ」
自身の思考を一度断つため、関連のない話を持ち出す。
「何がかな?」
「こうも急に体が楽になるなんて」
魔法みたいだ、という言葉は飲み込んだ。
「ふふん、それはあそこに浮かんでる、キューロの花のおかげなんだよっ」
ステラが得意気に胸を張る。
「あれ、治癒効果があるのか」
「あ、もしかして発酵したキューロしか見たことなかった?」
「あ、ああ……」
当然、「発酵したキューロ」など見たこともない。
……いつボロが出るか心配になってきた。
「生だとお湯には有効成分が出ないから、普通のお家では、こんな使い方しないのかな。でもほんとは発酵茶で飲むより、生のをお水で出した方が効果は高いんだよっ」
「へー! そうなのか!」
新事実を新事実として受け取れるのは、こんなにも清々しいことなのか! これは新事実だ。
ステラは、俺の顔をニコニコしながら眺める。
俺の顔にこそ、何か付いているんじゃないだろうか。微笑むステラを見つめ返すと、ハッとした表情を見せ、目線をそらした。
「?」
忙しいやつだ。それとも、女子とはこういうものなのだろうか。まともに交流したことがあるのは、妹と小日向先輩くらいなので分からない。――言ってて悲しくなってきた。
「ステラは話しやすいな」
「ほんとっ? 嬉しいなっ」
ステラは照れたように笑う。
「うん、妹と話してるみたいだ」
「い、妹かぁ……」
露骨にしょんぼりとした表情を見せるステラ。ポニーテールがぺたりと萎れた。気に障る表現だったのかもしれない。しかし彼女の素直なリアクションや、揺れるポニーテールから、どうしても妹を思い出してしまう。
「ステラ様」
いつの間にか近づいてきていたメイドが、背後から声をかけてきた。
「よろしいですか」
その一言で、ステラの表情に影が差す。
すべてを察したかのような顔で、頷いた。
一度は背を向け歩みだしたステラだったが、出口の前までいったところで振り向く。
「ゆっくりしてってねっ、ルーイ!」
「そうさせてもらうよ」
俺の名前が訛っている。何度「類」だと教えても訛った。俺には日本語に聞こえてしまうこの世界の言語だが、本来は「類」の音を発音しにくいのかもしれない。
怪我を忘れるほど痛みが引いたので、上体を起こしてあたりを見回す。座位だと腰ほどまでしか水がない。プールそのものが円形であることも相まって、プールというより噴水の溜め水に使っているような感覚だ。こんなに広くせずとも、もう少し深く作れば泳ぐこともできるだろうに。先程までずっとステラが近くにいたため、気が付かなかったが、こんなに広いプールに俺一人というのも寂しいものがある。
部屋の隅っこに、メイドが一人立っている。このメイド、実はずっと最初から立っている――言われないと存在に気づけないレベルで風景に溶け込んでいるのだ。
「すみません、もう上がろうと思うのですが」
「かしこまりました」
メイドは手元のワゴンから大きなタオルを何枚か取り出し、近づいてきた。
「腕を上げていただけますか」
言われるがままに腕を上げると、バスローブを羽織らせてくれる。遠目にはタオルに見えたが、一枚はバスローブだったようだ。腰紐が結ばれると、尾てい骨の辺りで結んだ腰巻きの紐が干渉した。
「腰巻きを頂きますね」
バスローブの下から、するりと腕が入ってくる。彼女の手はそのまま俺の背後に回る。俺の太ももに、柔らかな何かが押し当てられているのがわかる――幸福感よりも緊張で体がこわばった。
足元に落ちた腰巻きを拾い、タオルに持ち替える様子をただ見ていた。近くで見ると、普通に美人だ。クラスに一人いるタイプの。
そのまま、厚手のタオルで足元の水が拭き取られていく。
「ありがとうございます」
お礼を言うと、キョトンとした顔でこちらを見る。
「え……っと? どうかしました?」
「い、いえ。すみません、お客様にお礼を言われたのは初めてで、少し驚いてしまいました」
劣悪な労働環境が透けて見えた。
「いつからお勤めを?」
「十二の誕生日からです。メディムの生まれですが、学問も振るわず、エナの容量も少なく、スクールを出てすぐ奉公に出されました」
話の内容は半分も分からないが、幼い頃から苦労したのだということは伝わった。十二歳からこれまでとなると、十年近くお礼も言われない仕事を続けてきたのか。
メイドはタオルを替え、新たな一枚で俺の顔を拭こうとしたため、そのタオルはそっと貰い受けた。
「顔くらい、自分で拭かせてください」
「い、いけません――!」
むしろ、狼狽させてしまった。
「務めを放棄していると思われてしまいます」
「そんな、これくらいで――ひくしゅッ」
くしゃみが出てしまう。流石に体が冷えたか。
「ああ、申し訳ございません、こちらへどうぞ」
可哀相なくらい焦っているので、素早く誘導に従う。導かれた先には、膝下が折れ下がったビーチチェアが並んでいた。
「さあどうぞ、ご奉公の続きをいたしますので」
「はあ……」
横になるより、ちゃんとした服を着たいところだが。ここで断れば、さらに困らせてしまうのだろうか。仕方ない、もう少し横になるか。
受け取ったタオルで濡れた襟足を拭く暇すらなく、横になる。高い天井で視界が満たされたかと思うと、足元が突然涼しくなった。
「ん?」
続いて俺の両足は左右に押し広げられる。そして下腹部に、味わったことのない、ぬめりとした感触があった。その感覚は徐々に下へと降りていく。
猛烈な違和感に、思わず撥ね起きた。
「なッ、何してるんですか!?」
俺の股の間に、メイドの顔がある。俺の下半身は完全に露出していた。めくれ上がったバスローブの隙間から、その顔が羞恥の色に染まる瞬間を見た。
「み、見ないでください……!」
「な……!?」
咄嗟にバスローブを直し、ビーチチェアから飛び降りる。見ないでください、は、俺の台詞だ……!
「ご奉仕をしないと……叱られます」
「メイドってそういう仕事じゃないですよね!?」
「そういう仕事です……! そう命じられているんです。そのための……そのための短いスカートです」
水場だから、濡れないように、ということではなかったのか。やたらと短いスカートだとは思っていた。
「……好きでやってるわけじゃないですよね、これ」
「そ、それは……」
メイドは泣き出した。絞り出すような小さな泣き声が、広いプールサイドで反響する。彼女の涙が、緑のリボンに零れ落ちた。
メイドも俺も、こんなことは望んじゃいない。
しかし、この部屋の利用者の中には、メイドに「特別な奉仕」を望むものがいるというということだ。そして、その行為を強要している者がいる。
膝をつくメイドに歩み寄り、しゃがんで目線を合わせる。妹達と真剣な話をするとき、必ずやっていることだ。
「誰に命じられているんですか、こんなこと」
「……」
「言えませんか」
メイドの目線は泳ぎ、下瞼からは涙が零れ落ちる。濡れた睫毛が重く垂れ下がり、眉根はきつく寄せられた。
「……ルーナ様。ルーナ・オルビス様です」
初めて聞く名だが、姓はオルビス。ステラの血縁者に違いなかった。
「ああ、お願いです……! お願いですから、このことは、ご内密に…………!」
目を腫らして泣いているメイドの顔が隠れるよう、手元の未使用タオルを頭にかけた。
「約束します」
メイドは両手で顔を覆う。
これ以上、俺はここにいない方がいい――。
そっとその場を離れ、ステラが出ていったのと同じ出口から外に出た。




