3:それは、初めて聞く音だった(1/2)
*
大きな虫が、床の上をゆっくり歩いている。五センチはあるであろうその虫は、全身が派手な蛍光イエローだ。薄暗い牢屋の中では、かなり目立つ色味をしている。
そう。ここは鉄格子の内側だ。
目隠しをされてきたため、ここがどこだか全くわからない。仮に目隠しをされていなくても、居場所が分かるような土地感はないけれど。
牢屋といえば冷たいイメージだが、ここはやたらと暑い。それはそれで地獄だった。
「俺、前世で何か大罪を犯したのかな……」
あんまりだ。異世界まで来てこの仕打ち。膝を抱えて、牢の端に縮こまる。
僕、毒をもっています。……という顔で堂々と歩くその虫が、こちらに来はしないか注視していると、牢の外から小さな生き物が飛び出してきた。拳ほどの大きさのそれは、またたく間に虫に飛びつき、バリバリと食事を始めた。虫の足が飛び散るのも構わず、貪っている。
派手な色の虫に対して、こいつはかなり地味な色味だ。モグラに似ている。本来目があって然るべき位置には、角のように鉱石が生えている。……生えているのだと思いたい。誰かが故意に、目に鉱物を突き刺したのだとしたら、あまりにむごい虐待だ。
「街にはゴミ一つなかったのになあ……」
切なくなって、つい呟いた。薄汚れた牢屋の中は、夏のロッカールームの匂いがする。床は汚れ、壁は欠け、鉄格子は錆びている。留置にしては待遇が悪過ぎる。
「……おじさん、さっきからうるさいよ」
どこからか声がする。暗くて気が付かなかったが、正面の牢の奥にも人がいるようだ。目を凝らすと、それが少年であることが何となくわかる。
「おじさんって……まだ俺十八なんだけど」
「だから、うるさいってば。騒ぐと、罰が重くなるよ」
「重くなるのは罪だろ」
「違うよ、罰だ。罪が変わらなくても、罰はいくらでも増やせるんだから」
やけに知った口をきく少年だ。常習犯、なんだろうか。
「お前はなんでここにいるんだ?」
「……盗みをやったんだ。食わないと死んじまうだろ」
「そりゃそうだ」
ぐぅ、と少年の腹が鳴る。鼻をすする音がした。
「泣いてんのか?」
「泣いてない」
「家族は?」
「……」
無視か。
眼前では、食事を終えた小動物が寝ている。廊下のど真ん中で、堂々としたものだ。
「……妹がいるんだ」
少年が、小さな声で言う。
「お、俺と一緒だな」
「おじさんも?」
「だから、おじさんじゃないって」
人影が、牢屋の奥から鉄格子の前まで移動する。廊下に設置された僅かな明かりで、少年の顔がはっきり見えた。
凛や蘭よりは大人びているものの、まだあどけない顔つきだ。こんな幼い子供が、物盗りをやって生きているなんて。先程の街の様子からは、想像できない。どこに隠れて――いや、隠されていたんだ、この「弱者」は。
俺も、一歩鉄格子に近づき、少年に向き直った。
「おじさん、旅人なんだね。旅人なのにここに入れられるなんて、よっぽど悪いことしたんだな。誰か殴ったの?」
「いや、なにもしてねぇから!」
「しー! ……で、ほんとはなにしたの?」
「ホントに何もして無いんだってば……」
何の罪で留置されているか知らないが、何にせよ濡れ衣だ。
「おじさん、いつまでノートスにいるの」
「まだ決めてないな」
「ふうん……じゃあ、旅人証を返すとき、「どこの店も最高だった、一番は選べない」って言ってよ」
「おお? なんでだ?」
「なんでもだよ」
「……分かったよ」
こつん、と遠くで、革靴が地面を叩く音がした。その音は少年も感知したようで、二人同時に牢の奥へ飛びのく。
「んー? こっちから声がしたと思ったけどな?」
「アルトの勘違いじゃねぇのか?」
二人分の足音が近づいてくる。懐中電灯のような鋭い光が廊下に差した。その光が、廊下で寝ている小動物を照らし出す。小動物は強光に混乱したように、その場をウロウロした。
「げぇ、フルストじゃん」
「屋敷の地下だってのに。こんなとこにもまだ生き残ってんのかよ……」
「案外、こいつが最後の生き残りだったりしてな」
牢屋の奥にいては、相手の姿は見えない。照らされた小動物をただ眺めた。
すると、小動物の影が揺らいでいることに気づく。そのゆらぎはみるみる強く大きくなり、盛り上がる。
隆起した影は、犬の頭のような形を成す。
さらにぬっと高く伸びた影が胴を成し、ぱっくりと大口を開けた。ただし、その「口」は、頭とは全く関係のない場所――胴が裂けるようにして現れたのだ。驚く間もなく影は小動物を襲い、そして飲み込んだ。ギィ、と小さな断末魔が響く。
「お、おい三十八号! まだ食べていいとは言ってないぞ!」
「うっは! アルトのカエク、ホント馬鹿だよなぁ!」
「うるせぇ、悪いのはブリーダーだろ!」
騒がしい話し声が、さらに近づいてくる。二人分の人影が視界に入るが、目を合わせないように目線を逸らした。
前触れなく、鉄格子がガァンと大きな音を立てる。耳が痛いほどの反響に、逸らした目線を引き戻されてしまう。
打ち鳴らされたのは、俺の牢の鉄格子ではなかったようだ。少年の牢の前に、二人の男が立っている。
「おい、出てこい。お前に与える罰が決まったぞ」
男の声に応じ、少年が廊下の方へ出てくる。
「お前への罰は、領地外追放だ」
「追放……!?」
少年の声色に絶望が滲む。鈍い音を立てて鉄格子の錠が開く。
「どこへでも行け。まあお前のような身なりでは、受け入れてくれる領地はないだろうがな。フローレンス領も、お前のような景観を損ねるクズは要らねぇってこった」
「野生のカエクセンシィに怯えて暮らせよなあ。ほら、早く出ろ!」
少年が腕を強く引かれ、無理矢理牢から引きずり出される。少年は手足をバタつかせた。
「止めろ! 離せ! 離せよ!」
「暴れるなクソ餓鬼!」
動物のように全身を震わせて抵抗する少年を、大人の男二人で押さえつけている。半開きになった鉄格子に少年の体が当たるたび、鉄格子は喚き声をあげる。
こんなことが、あっていいのか――? これではただの暴力だ。蹂躙だ。罪人とはいえ、年端もいかない子供じゃないか。今あそこで、物のように引きずられているのが、凛や蘭だったら――少年に妹達の姿を重ね、やりきれなさと際限ない怒りで脳が沸騰する。
暫く揉み合いをしていると、少年が振り回した足が、男の脛を思い切り打ち付けた。
「痛ぇ……」
空気が凍りつく。少年も暴れるのを止め、恐る恐る顔を上げた。こちらから男の表情を伺うことはできないが、少年の顔が強張ったのが明確にわかる。
次の瞬間、少年の体は宙を浮き、牢後方の壁に叩きつけられた。声にならない呻きが、少年の唇の隙間から漏れる。
少年の細い体は、その場にくずおれた。
「止めろ!」
反射的に叫んでしまう。しかしその声は震えていた。やってしまった、と、思ったがもう遅い。




