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グラムガーデン  作者: 潮騒 鴎
序章 始点と終点の交わる器
1/28

1:転校生は得てしてトラブルを持ち込む(1/2)

 星一つ見えない空の下、ハンドクリームのキャップを開けた。バイト先の先輩から押し付けられた桃色のパッケージ。男子高生が持つにはいささか可愛すぎる。

 三時間ひたすらに皿洗いを繰り返した手は、塗ったそばから桃の香りをごくごくと飲み込んだ。

 バイト先から徒歩五分。家賃二万円のボロアパートは、階段に足をかけるたび、ひずんで悲鳴を上げる。俺の帰りを知らせる音のおかげでいつも、玄関の前に立つ頃には、扉の向こうに天使たちがスタンバイしているのだ。


 羽をもがれた二人の天使――俺の妹達が!


「ただいま!」

 勢いよく玄関を開けると、同時に小さな二つの体が飛びついてきた。

「おかえり!」

「おかえり!」

「お兄ちゃん!」

「今日もお疲れ様ー!」

 二方向からの抱擁で身動きも取れない。いつものことだ。そして無論、無問題! この時間のために生きていると言っても過言ではない。

「おいおい、お兄ちゃんが歩けないだろ? そろそろ離しなさい」

「やだー!」

「だめー!」

 首に腕が食い込み呼吸が制限されるが、無論、無問題だ……断じて。子猫も顔負けの愛らしさ、甘え盛りの凛と蘭は、どちらも揃って小学二年生だ。小学二年生は絵に描いたような「子供」だ。ときに残酷な程に素直で、好き嫌いが明らかだ。蓄積されたエネルギーを放散するために唐突なダッシュをかますが、抑制すると暴発し死に至る。その全エネルギーが兄に集中するこの瞬間こそ至高! 至福である!

「二人ともちゃんとご飯食べたか?」

「凛がピーマン捨ててた!」

「蘭がにんじん捨ててた!」

「こら。二人とも苦手なものもちゃんと食べなきゃだめだろ?」

「ふあい」

「へーい」

 二人ともぱっと手を離し、不貞腐れた。幾ら森羅万象地に伏す可愛い妹達であろうとも、叱るときは叱らなければならないのだ。

 俺は彼女たちの唯一の家族であり、父代わりなのだから。俺は玄関に飾られた、亡き両親の写真に微笑んだ。

 父さん、母さん。今日も凛と蘭は元気だよ。

 俺の人生は、妹達に捧ぐと決めた。俺は彼女たちのためなら、父にも母にもなってやる。

 

 妹のためなら、鬼にだってなる。


 そう決めたあの日から早一年、彼女たちは安全に電子レンジを使えるようになり、風呂上がりに自分でドライヤーをかけられるようになった。長らく俺が担っていた、朝方二人をゆり起こすという仕事も、目覚まし時計に譲って久しい。

そして、彼女らは順調に兄っ子に育っている。「わたしがそんけいする人は、おにいちゃんです」から始まる作文をランドセルから見つけたときは思わずガッツポーズしたものだ。

全てが計画通り……!

「よし! 風呂に入るぞー! 今日の入浴剤は何色かな?」

「ピンクー!」

「白ー!」

 ぱちっ、と小さく火花が散った。二人は頬を膨らませて睨み合う。

「絶対ピンク!」

「やだやだ白!」

「ハイ止め! 今日は緑な?」

 ブーイングの嵐の中に、「森林の香り」と書かれたタブレットを投げ込んだ。十個入で百円の格安入浴剤から、その日の香りを選ぶのが日課だ。

「うー……お兄ちゃんが言うなら仕方ないかあ」

「緑、いっぱい余ってるしね!」

 二人は浴槽にタブレットを投げ込んで、湧き上がる泡を眺めている。

 寄せ合った瓜二つの顔は、若い果実のように瑞々しく愛くるしい。俺は野球部を辞めても進学を諦めても、日々金策に追われても、妹さえいればそれだけで幸せだ。俺は本気でそう思っていた。


 俺の貧しくも幸福な日常に干渉する足音が、すぐ背後まで近づいていることにも気づかずに。

 家賃二万円のボロアパートの、精魂尽き果てた階段が上げる悲鳴を、俺は聞き逃した。


  *


「類! はよっす!」

 机に突伏す俺の背を、誰かが強く叩く。仕方なく顔を上げると、そこには見慣れた顔――幼馴染の錦小太郎の姿があった。

 軽薄そうな金髪頭と着崩した制服から、彼がかつて野球少年であった事を悟れる人間はいないだろう。髪を伸ばしっぱなしの俺も、人のことは言えないが。数年前まで彼とバッテリーを組んでいた俺の体から、既に筋肉は落ち切っていた。

 外から聞こえるセミの声だけでも十分暑苦しいが、小太郎まで加わると暑苦しさは倍増だ。まだ七月の初旬だというのに、真夏の熱量を感じる。

「類、なんか眠そうだな?」

「寝不足なんだよ……見て分かるなら始業のチャイムまで寝かせといてくれ」

「そうはいかねぇなあ! ビックニュースだぜ?」

「へえ……? どした?」

「実は今日、転校生が来るんだぜ……!」

「どこ情報だよ?」

「俺の親父情報!」

「じゃあ確実だな」

 錦の父親はうちの校長先生だ。そうでなければ、彼の服装は到底許されるものではない。

「更に追加情報だ」

「ほう?」

「転校生は女子で、そして、めちゃめちゃ可愛いらしい」

「それは誰情報?」

「俺の父親情報」

 頭を抱えた。同級生の父親の、女子高生に対する主観的な感想を聞いてしまったことに対する戸惑い。そして、所属する学校の校長たる立場の人間が、女子高生を「めちゃめちゃ可愛い」という言葉で表現したという事実を知った悲しみ――

「珍しいよな、こんな時期に転校生」

「そもそも、こんな田舎で転校生自体が珍しいだろ」

「それなぁ」

 朝の教室はざわついている。今日も梅雨らしく窓の外は曇っており、どんよりと暗い。転校生を迎える空気感ではなかった。この時期ばかりは、我が校の男子制服がポロシャツであることに感謝する。女子生徒が可哀想でならない。通気性の違いたるや、言及するまでもない。

「類、リアクション薄くねー? もっと驚いてくれると思って、楽しみにしてたのによォ」

「すまんな」

 しかし、ここでチャイムが鳴り響いた。同時に、担任教師が教室前方の戸を開けて中に入ってくる。

「はあい、みなさーん、お静かにい」

「丸ちゃんおはよー」

「丸ちゃん、今日もかわいいよ!」

「もう! 先生をからかうのは、やめなさぁい」

 担任の小丸先生が、今日もからかわれている。いつものことだ。しかし、先生自身はいつもと違い、少しソワソワしている。

 生徒たちが、各々の机へと吸い込まれていく。

 ざわめきが小さくなったとことで、先生はわざとらしく咳払いした。

「なんと! 今日は皆さんに、転校生を紹介しまあす」

 先生の一言に、教室がどっと湧く。やはり誰にとっても、「転校生」は関心事のようだ。

錦は俺以外の誰にこのネタを話しても、注目を浴びられたことだろう。適当にあしらったことに、少しの罪悪感を覚えた。

「倉科さあん、入ってきてー」

 廊下に向かって、先生が呼びかける。すると、ピシャンと勢いよく、教室の引き戸が開いた。

転校生が颯爽と教室へ足を踏み入れる。その女生徒が歩いた軌跡を辿るかのように、長い艷やかなツインテールがたなびいた。

クラスメート全員が言葉を失う。例に漏れず、俺も言葉を失った。圧倒的な存在感だ。

「倉科琥珀です。以後お見知りおきを。学校にというものに通うのは初めてですので、お手柔らかに願います」


 陶器の肌にガラス玉の瞳。


 ふと目が合い、思わず目線を他所へ逃がす。

 数秒の沈黙の後、教室はお祭り騒ぎへ移行した。

「倉科さん! どこの国出身?」

「日本語ペラペラじゃん!」

「脚長ーい!」

「三年二組へようこそ!!」

 教室中から、歓声にも似た言葉が飛び交う。

「倉科さんの机を用意するのを忘れていたので、今日は、お休みの水際くんの席に座ってもらいまあす」

 先生が懸命に大きな声を出す。声量に乏しい、聞き取れるギリギリの音量だ。

 先生の声を合図に、倉科琥珀は歩き出す。水際の席は、俺の真後ろだ。依然として騒がしい教室の中央を、喧騒の海を割くように真っ直ぐ進む。

 そして俺の目の前まで来たところで、ピタリと足を止めた。

「陽波類さん」

 名乗った覚えの無い俺の名を呼んで、美女と称するに相応しい彼女は俺の手を握る。突然の出来事に唖然としつつも、倉科琥珀のガラス玉の瞳の中に自身の姿をしかと見止めた。

彼女はその唇に微笑みを湛え、人目を憚ることなく言い放つ。



「貴方が必要です。私と一緒に旅に出ましょう」



 光速で教室中にどよめきが広がる。席が遠い生徒は、状況を飲み込もうと立ってまでこちらを覗き込んでいる。


「悪いが、旅行は趣味じゃないんでね」


 彼女の手をやや強引に離すと、ざわめきは更に大きくなった。不本意に注目されている――!

 まさか断られるとは思っていなかったのか、倉科琥珀は目を丸くして立ち尽くしていた。

「皆さあん、お静かに……! ほら、倉科さんも座ってってくださあい!」

 小丸先生が必死に叫ぶが、騒ぎは中々収まらなかった。俺がわざとらしくそっぽをむくと、彼女はすごすご自分の席へ帰っていった。


「振ったのか……?」

「陽波が転入生を振った……!」

「陽波類が美人転入生を冷たくあしらったぞ!」


 早くも噂に尾ひれが付きつつある。経験上、自然と収まるのを待つのが得策だ。勝手に振られたことになる倉科琥珀には申し訳ないが、悪いのは俺ではなく、時と場合を判断しきれなかった彼女自身だ。

「なんだよ、旅に出ようって……」

 ざわめきの中に、俺の独り言は溶けて無くなった。

まさか、初対面で駆け落ちのお誘いでもあるまい。疑問が胸の中にしこりとして残ったが、今はとりあえず深いため息でお茶を濁した。

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