その美しい女は鏡のようで、
森に入る足を動かした瞬間、ばちり、と音を立てて拒まれる。何の変哲もない、どころか手付かずの森の入口は、どんな要塞より侵入が困難だ。まるでそこに見えない壁があるような感覚に、ジャックは苛立ちを隠さずに舌打ちをした。
ここに初めて訪れたの半年程前となる。
自分の崇拝する、賢くて気高い美しい女性を陥れたあの、卑しく醜い女。
複数の権力者の子息との不義、嘘の報告により公爵令嬢への冤罪をかけるなどという悪事を全て明るみにされ、国王より身分剥奪及び王都からの追放という罰が下されることとなった。
男爵家もこれには庇うことは出来ず、せめてもの情で他と比べて少しは自由と贅沢の効く修道院に手厚く送り出すこととした。
(冗談じゃない、なんだその生温い罰は)
彼女は……クリスティーナは、一年もの間理不尽に汚名を被せられ、貧しい修道院にて質素な暮らしを強いられていた。何不自由なく暮らしてきた彼女にとって、それはまさに地獄だったのだろう。現に屋敷に帰ってきた時、彼女の目は赤く充血していた。
何の非もない彼女がそれ程苦しんでいたのだ。あの女には……それこそ、命で償って貰わなくては割に合わない。
しかし、既に王からの判決は下された。生温いとしてもそうと決められたからには、自分にはどうすることもできない。――表上は。
要は、女をひっそりと亡きものにしてしまえば良い。幸いにも自分は物心ついた頃には人目につかず公爵家の敵を屠ることを仕込まれていた暗殺者だ。窮地に立たされ、たらしこんだ男共は失脚して味方などいない、媚びを売ることしか能がない女を裏で殺すなどいとも容易いことだ。
『 ねえ、このまま私を逃がしてよ。もしあの女に復讐できたら、お礼に……っ……なんで、ジャックが……!もしかして、私を助けに来たの?』
馬車で身の程知らずで非現実的な交渉をし、挙句の果てにありえない希望を見出した女を見た時は笑いが止まらなかった。
『 ははは!貴女は本当に幸せな人ですね。……誰がお前みたいな売女を助けるものか。どんな薄気味悪い手を使ったのかは知りませんが、貴女はご存知なのでしょう?……私が暗殺を生業にしていることを』
表では一介の使用人でしかない自分の素性を知っていたのは、目の前の女だ。
『 貴方が罪の意識に苛まれてるのは知ってるわ。でもそれは、貴方は人形なんかじゃない。私と同じ人間である証拠よ』
だなんて潤んだ目で微笑まれた時は吐き気を覚えた。
何故こんな頭の悪そうな小娘が知っている?
その場で殺すことも出来たが、主人の公爵に少し泳がせておくようにと言われていたためにその場は適当にはぐらかして監視の目をつけた。幸か不幸か、女がその情報でどうこうすることはなかった。しかし、能力に見合わぬ情報の把握数はやはり薄気味悪い。そんな女をどうして好きになれるというのだろう。
それからは、簡単だった。
毒薬を飲ませ、脈が弱まっていくのを確認してから近くの森に投げ捨てた。野生動物が死体を食べてくれるだろうと踏んだからだ。
……結果として、それは慢心だったのだが。
念の為に足を踏み入れた森に、女の死体はなかった。髪や骨、衣服の端切れすら残っていないその場に頭を抱えたくなる。
……たしかに、この森にはそれなりのレベルの結界が張ってある。ならば森の番人がいたのだろう。女を捨てた時にもそれは気付いていたが、番人が気づいたところで手の施しようがない状態だ。こんな田舎に解毒する道具もあるまいと高を括っていた。
そう、死体を片付けたのは、番人である可能性もある。となれば、確認をしなくてはと敢えてその場に留まり続けた。…………しかし、こうして長居するとこの森は何とも不思議な雰囲気が漂う。あちこちに射す木漏れ日や、朝露に濡れた見た事のない植物。
他の森と変わりないはずだが、どうにも居心地が悪い。まるで、自分が場違いであるかのような―――。
かさり、と小さな足音を聞いて振り返る。
「こんにちは」
そう愛想を振り撒いて挨拶をすれば、その人物は警戒を顕にしながらも挨拶を返す。
結界を潜り抜けたのだから、森の番人ならばその反応は可笑しくない。
だが、その人物の容姿にジャックは思わず内心息を飲んでしまった。
古ぼけたローブを身に纏うのは、何とも地味でみすぼらしくもある。化粧っ気のない顔も貴族の世界なら考えられない姿だ。
だが、それがどうしたという圧倒的な美をその番人は持っていた。
星屑を集めたようや銀色の髪。長い睫毛に覆われたぱっちりとした若草色の瞳は知性と穏やかさを感じさせる。このような仕事をしているのに肌は雪のように白く、儚さを表した。
自分の崇拝する唯一の主は全てをひれ伏すことが出来るような美しさを持ち、公爵家の赤薔薇と呼ばれていた。あの女は……まあ、見た目だけは悪くなかった。清純で無垢な(鼻で笑ってしまう)イメージから、百合の乙女と囁かれていたぐらいだ。
だが、この森番はどれとも違う。
月を溶かして人の姿にしたならばこうなるのだろうかと錯覚してしまう程の美貌だが、彼女を身分を偽らせて社交界の場に立たせても壁の花になるのが目に見えている。
『 自分如きが手を伸ばしては行けない』
そう思わせる美しさを持っていた。
薔薇も百合も地に咲く花だ。手折ることはそう難しくはない。
しかし、底深い沼の中心に、神々しささえ感じる美しさをもって咲き誇る睡蓮はどうだろうか。船もなしに泳いで手に入れる人間は、余程執着しているか、はたまた溺れることを考えられない相当な馬鹿か……。
……何故、こんなことを出会ったばかりの身分の低い女に思うのかわからない。あの事件の被害者が自分の主ではなくこの女ならば、きっとあの愚かな王子や取り巻きの木偶の坊達もくだらない妄言に惑わされなかっただろうなと考えてしまう始末だ。
(ふざけるなよ)
これではまるであの男達と同じだ。女を上辺だけで見て判断した愚か者たち。軽蔑していたはずの男達と同じことをしていた自分に吐き気と怒りを覚える。
それと同時に、目の前の女に警戒を強めた。
【これ】はなんだ。
魅了の魔法かと思ったが、そのような気配は一切ない。その類には全て抵抗できるようにと訓練されていたジャックだからこそ直ぐに分かった。では一体なぜ?本当に、小細工無しに自分は魅せられたというのか?
その後女が例の娘を匿っているのだと悟り、益々苛立ちは募る。
どうしてあんな醜悪な娘を庇う?
どう見ても荒事に向いているように見えない女は、たしかに自分の執念や殺気に怯えている。
しかし、それ以上に見えたのはあの愚かな女を必ず守りきるという強い意思だった。
それは暴漢に襲われた際に娘を背に庇う母親のような、見返りを求めない愛とその容姿に似合わぬ強かさを見せつけてくる。
何故?どうしてあんな女のために必死になる?
それではまるで、自分が、あの方の忠実な下僕である自分が間違っているようではないか。
気が付けばその美しい顔にナイフを立てていた。
そうだ、この皮を剥いでしまえばいい。
女の言いようのない美しさを損なわせてしまえば、こんな気持ちを抱かずには済むのだ。
「―――痛くはない、はずです。ごめんなさい」
結果として、残虐な暴力で押し切ることすらできなかった。
凛とした、僅かに罪悪感を混ぜた声を聞いた直後、何故か自分は屋敷の自室に転移していた。
その後急いであの場所に戻ったのだが、どういうわけか森の入口で今のように弾かれてしまう、というわけだ。
若草色の瞳に映る自分を思い出す。自分を正当化し、暴力で片付けようとする自分はまるで今は廃嫡された騎士団長の息子のようだった。
「こんなところにいたのか」
鏡のような目を持つ女に舌打ちをし、目を閉ざしていると、背後から声をかけられた。
それはボルティノ公爵家の執事である男だ。最初はあの女に騙されていたが、結果として目を覚ましジャックと同じく公爵令嬢に心酔している。黒い髪を耳にかけてこちらに近寄れば、ため息をついた。
「どうしたんだ、突然お嬢様のお傍を離れるだなんてお前らしくもない……」
「すみません」
まあいい、と彼は零した。
「早く教会に向かうぞ。しかし、あのお方の会いたい方とはどんな人物なのだろうね」
…………今日ここに来たのは自分だけではない。というより、公爵令嬢の強い希望故だ。国の王子に婚約破棄をされた彼女だが、その後あの女の悪事と自分が無実であるとはっきりと証明してからというもの、腹立だしいことに婚約を申し込むものが後を絶たない。傷物であると扱われればどんなに良かったか……。
そんなわけで多忙な日々を送っていた彼女であったが、なんとか数日間の自由を獲得し、願ったこと。それが――。
『 修道院にいた頃にとてもお世話になった方がいたの。是非彼女に会いたくて……』
そうして恥ずかしそうに頬を染める彼女に胸が苦しくなる。
感謝の気持ちを忘れず、身分で差別をしない彼女はまさに女神だ。
にやけそうになる顔を引きしめて足を進めた。
…………森と同様に教会に足を踏み入れることができずに顔を青ざめるのは、少し後の話である。