彼女の誓いを聞いて、
「はー……もー、つっかれたあ……」
自宅の裏にある温泉に入っている彼女の二の腕をマッサージする。本当ならば家の中にある浴室も同じ効能があるのでそちらを勧めたのだが、「広い露天風呂の気分なの!」との彼女の意見により、浴室で身を清めてからこちらに移動した。
あの日から1ヶ月。彼女は、謎の存在の下で剣の修行に明け暮れている。……とは言ったが、どうやら彼女の体感している時間は現実とは違うようだ。一晩寝て起きたかと思えば、思い切り抱きつかれて「会いたかった!」と叫ばれもしたのだ。どうやら彼女の中では一晩が半年以上の時を刻んでいたらしい。
そしてそれらを彼女の夢だと言うことは、最早完全に出来なくなっていた。
ほっそりとしていた華奢な手は剣を握る者特有の硬さをしていたし、体力や俊敏性、腕力など、どれを見ても最初に出会った彼女とはかけ離れていたものだ。
それに、身体の傷も。
「また……こんなに傷を作って……」
そっと、肩に浮かぶ痛々しい青痣を指先で撫でて労わるようにお湯をかける。
傷一つない、それこそお姫様のようだった彼女の身体の至る所にある傷や痣。それは彼女が自分の手の届かない空間で如何に苦労してきたのかが垣間見える。
苦しげに眉を寄せながら珍しく苦言を呈すセレネに、マリーはきょとんと目を丸くする。が、すぐに悪戯っぽく笑ってみせた。
「私ぐらい可愛いと、こんな傷大した問題じゃないでしょ?」
「ええ勿論。ですが、そうだとしても痛い思いをなさってるのに変わりはないでしょう?」
「……あんた、そこはちょっと冗談と思って受け止めなさいよ」
ムスッとした、ほんのり赤くなった彼女はぼやき、その顔を背ける。
冗談も何も、セレネはそれを事実であると受け止めていた。
触れるだけで壊れてしまいそうな程儚げで、けれど可憐なマリー。今はしなやかな筋肉を付け、傷だらけな姿に変わってしまった彼女だが、荒れた野に咲く気高い花のような凛々しい美しさを代わりに身に纏っている。
(変わったな)
そして、中身も。
夢見がちなあどけない彼女だが、最近は随分と大人びて見える。彼女曰く現実の時間よりずっと長い時の流れを体感し、厳しい修行をこなしているのだから当たり前なのかもしれない。
それがセレネには、怖くて、不安で、少し寂しい。
現実とは違う時が流れる空間に夜な夜な彼女を引き込むその人物。
本当に、その人はマリーにとって無害と言いきれるのだろうか?もし彼女によくない影響を与えていたら?自分の手の届かない場所で彼女の身に危険が迫っていたら――。
「セレネ、あんたも入りなさいよ」
声をかけられて目を見開く。下を見下ろせば、彼女は呆れたような……けれど、心配そうな目線を此方に向けて肩を竦めた。ぱしゃり、と緩く手にお湯をかけられる。
「寒いんでしょ?身体震えてるわ」
「あ、え、でも……」
「いいから、身体洗ってくる!」
早くしてよね、と急かされて、上手く返答できないまま身を清めるために一度室内に向かった。
彼女の隣にそっと入ると、マリーは何故か目を逸らした。
「……あんた、本当に……ほんっとに、綺麗よね。むかつく」
「そのようなことは……マリーさんのほうが、」
「そういうのいいから」
言葉を遮られる彼女は眉間にシワを刻みながらも自分の肩に頭を預けてくる。
「…………本当はね、何度もやめてやろうと思った」
ぽつり、と呟かれたその言葉。なんの事なのか理解出来ないでいるセレネを気にすることなく彼女は語り続けた。
「あいつ、本当に鬼畜のドSなんだもん。ここじゃ死なないから大丈夫とか言って骸骨の群れと戦わせたり崖登らせたりすんのよ?信じらんないでしょ」
軽い調子で愚痴をこぼすマリーに、思わず絶句した。少なくとも、セレネの知るマリーはそんな苦行に耐えられるような少女ではない。素直で、あどけなくて繊細な女性。そんな彼女にそれらを課題に出すだなんて、失礼な話だが想像も出来ない話だった。
「……そんな危ないことを……?」
「まぁ本当に死にはしないんだけどね。ってやだ、なんて顔してんのよ」
余程ひどい顔をしていたのだろうか。頬を優しく抓られて笑われてしまうが、それでも笑い返す余裕なんてない。
それを察したのか、マリーは肩を竦めた。
(また、知らない顔)
静かに焦燥感に駆られて目を伏せる。
知らない顔も何も、彼女と出会ってまだ一年と経っていないのだからそれは当たり前なのだ。
けれど、出会った頃の彼女とはかけ離れた仕草や表情には、不安を抱かずにはいられない。
「だって……マリーさんがそんな危ないことをするだなんて……」
(こんなの、よくないのに)
それは成長と呼べるものなのだろう。だったら、自分は喜ぶべきなのかもしれない。
彼女の安全が一応は保証されているならば、そして彼女がそれを望んでいるならば、応援しなければならないはずなのに。
「過保護」
「う」
ぴしり、と額を指先で弾かれる。
くすくすと笑った彼女はこちらをじっと見つめてきた。
「…………あいつの言う通り、私根性ない甘ったれだからね。さっきも言ったけど、正直何度も逃げ出したし、こんなの辞めてやるって喚きもした」
「だったら、」
「そしたらあいつ、1番最悪なことしてきたの」
自分の言葉を振り切って彼女は目を閉ざす。それは怒っているような、怯えているような……けれど真っ直ぐに立ち向かうことを表すような空気を纏っていて、思わず口を閉ざす。
「あんたが、セレネが――私を庇って死んじゃう幻覚を見せられた」
小さなその声は少し震えていて、思わず此方も身体を硬くする。真正面から彼女に抱きつかれて、そっとその背中に手を回す。
「…………マリーさん、そんなことありえませんよ」
「わかってる、あんたは今ここにいるもんね。……でも、私がここで辞めたらそういう未来を迎える可能性が出てきちゃう。現にセレネは一度あいつに傷付けらたんだから」
そうして以前薄く切られた頬を優しく撫でる彼女の表情があまりにも苦しそうで、セレネは彼女をゆっくりと抱きしめた。
「――本当は私、あんたから離れるべきだった。私みたいな人間は、あんたみたいなお人好しを巻き込んじゃいけない。……でも、私は我儘だから。どうしても、それは嫌だったの」
だからね、と耳元で囁かれたかと思えば、手を取られて甲に柔らかな唇を落とされる。
「これは、その我儘の延長。私はあんたから離れないし、二度とあいつに傷付けさせない。だからセレネは、何も気にしなくていいの」
我儘であると言い切る彼女だが、その仕草はまるで本で見た気高い騎士のようで。
ぽふり、と音が立ちそうな勢いで顔の熱が上がる。
「え、嘘でしょ!?セレネあんた逆上せたの?!」
「い、いえ、大丈夫……」
「そんな赤い顔で言っても説得力ないから!あーもー、それならさっさと出るわよ!!」
「早く言いなさいよね!」と怒られつつも手を引かれてしまったので、露天風呂から上がって身体を拭いて衣服を着る。
(…………私って、酷い人間だわ)
彼女が、マリーだけがどんどん先に進んでいっているような今が酷く寂しい。
本来ならば、やはりその成長を喜ばなくてさならないのに。
(しかも、……あんなに真摯に語ってくれた彼女を見て、落ち着かない、だなんて)
顔が熱いし胸は苦しい。
今まで感じたことのない感覚にどうしようもない罪悪感を覚えながら、セレネは同じく服を着た彼女と共に自宅へと入っていった。