その男の言うことには、
見慣れぬ天井を、覚醒したばかりで少しぼやける視界に映してゆっくりと身体を起こす。
「……そうだ、教会に泊まらせて頂いたんだった……」
小さく呟いて身支度をする。お風呂に入ってから来てよかったと考えつつ、ベッドを整えてから部屋の外へと出た。
まだ朝日が昇り切らず、起床時間の早い修道女たちも部屋から出てきていないようだ。
(……いつもの生活上、つい早く起きちゃうのよね)
まだ辺りが薄暗いうちに薬草を摘み、そして煎じてその日のうちに包装して、翌日には教会に持って行けるようにする。今回は薬に関する仕事が終わっていたのは幸いだった。
ひとまず、聖堂へ向かって掃除をしようと思う。稀に協会関連者の厚意で泊まらせてもらうこともあるのだが、そのお礼として聖堂 への掃除の許可をもらっていた。
『あの…………セレネは、泊まらないの?』
そういえば、最後に泊まったのは“彼女”に引き止められたからだったか。
品が良くて穏やかで、聡明な女性がこの教会に来たのは半年程前だ。聞けばどこかの貴族令嬢が訳ありでこちらに預けられたとの事。随分と暗い表情をしていた彼女だが、彼女本人の強さと周囲の優しさで次第に立ち直り、生き生きとした美しさを周囲に見せていった。
そんな彼女だが、歳が近い為か身分を気にせず自分とも仲良くしてくれた。薬を配達するとよくおしゃべりに招いてくれたし、自分の小屋にわざわざ来ては一緒に食事をしながら深い知識で自分に様々なことを教えてくれた。森と教会、教会の近くにある村しか知らない世間知らずの自分にはとても有難いことだ。
しかし、別れの日は突然やってきた。深夜に自分の元に来た彼女は、背後に屈強な男性を連れていて、その表情は最初の頃でもなかった程に悲哀に満ちていた。
彼女は、とある都合で実家に帰らなくてはならないのだと言う。
『ねえ、……私のこと忘れないでいてくれる?』
自分を抱き締めながら震えた声で問いかける彼女は、今までにないくらい儚いもので、気づけばそっと彼女を抱きしめ返していた。
『勿論です』
『じゃあ……また、会いに来たら、そしたらっ』
すぐさま頷く自分に何かを言いかけた彼女だが、すぐに首を左右に振って、にこりと微笑んだ。菫色の瞳に浮かんだ涙が、不謹慎にもとても美しいと思ってしまった。
『なんでもない…………絶対に、貴女に会いに来るわ』
「クリスティーナさん、元気かしら……」
誰もいない聖堂で呟いても、当然返事はない。
小さくため息をついてから雑巾を手にして掃除を始めた。
「まあ、まあまあまあ!いつもありがとうございます、ミスセレネ!」
「おはようございます、シスターハンナ。申し訳ありません、騒がしかったでしょうか?」
「とんでもない!貴女にはいくらお礼を伝えても足りませんわ。セレーネ様もお喜びでしょうっ」
自他共に厳しく、信心深い妙齢のシスターの声に顔を上げれば、気色満面の笑みで自分を見ていた。
少し集中のしすぎで汗をかいてきたのでポケットに入れたハンカチで顔を拭う。
「もしよろしければシャワーを浴びていかれますか?」
「いえ、そろそろ家に……」
「いたーー!」
ドアを乱暴に開ける可憐な少女に、先程まで上機嫌でいたシスターの表情は酷く降下していった。
「朝からどこ行ってたのよ、部屋にもいないし……ってあんた、汗だくじゃない!まさか掃除してたの?!はーーもーー!!!なんっっでそんな無駄なことばっかしてんのよ、とにかくさっさとシャワー浴びて!」
「いえ、あの、」
綺麗な青い目を釣り上げて怒り続けるマリーと、小さく震えるシスターを交互に見る。
「シスターマリー!!聖堂への出入りの作法はどうしたのです!!しかも奉仕が無駄とは何事ですか!!」
「あーーもーーーうるさぁあい!!!」
自分を挟んで口論を始める2人に思わず、女神像に向かって心の中で謝罪をした。
…………マリーはあの時の貴族の娘に似ている箇所も多い。
その美しさや、発言の節々から感じられる自分とはちがう身分の出、そして、何者かに追い詰められてこの場に来たということ。
(………………違うところの方が多いけれど)
昼下がり、セレネは一旦家でシャワーを浴びてから森に入った。薬の調合の仕事はしばらくはないのだが、森の管理も自分の仕事。密猟者などが居ないか確認しなければならない。
そもそもこの森は、自分以外は滅多に立ち寄らない。悪しき考えで立ち入るものがいる場合に備え、森には結界を張り、自分以外の者が侵入する度に通知がいくようにしているのだが。
(…………それもなかった……けど、間違いなく居る)
森から感じる人の気配。結界を掻い潜ってきたとなれば、それは自分よりも上の魔力の持ち主だ。
用心のためにポケットに“石”を持って足を進める。
一体どうして、とセレネは眉をひそめた。
自分の結界魔法自体は大したことは無い。だが、養父から譲り受けた道具を使用することで強固なものにしていたはず。それが掻い潜られたのは、これで2回目だ。
1度目は言わずもがな、今この状況。
そして2度目は―――マリーが倒れていた、あの日。
何故彼女があの場で倒れていたのにも関わらず、自分に通知がいかなかったのだろう。
森の片隅に置いた、結界の役割を果たす円錐型の水晶にも異常はない。
足を進めて辿り着いたのは、嘗てマリーと出会ったミランの花畑。
そこには1人の男性がいた。 真っ黒な外套を羽織っており、随分と細身に見えた。白い花々に囲まれる姿はなんとも異様だった。
男性はこちらをゆっくりと振り返る。短い黒髪に、赤い瞳を持つその人はにこり、と笑った。
「こんにちは」
「…………こんにちは」
この辺りでは見ない顔だ。随分と美しい容姿をしているとは思う。だけれど、何故かそれ以上にその笑顔に寒気を覚える。
1度息を吐いてから彼を見つめて口を開いた。
「……私はこの森を管理する者です。基本的に何も無いのがこの森の特徴なのですが………何か御用でしたか?」
「ああ、それはすみません。ちょっとした“人探し”なんですけれど」
す、と赤い瞳が細められるのを見て鳥肌が立つ。
普通の娘が見れば頬を染めるような青年の仕草は、セレネにとってはどうしようもなく恐ろしいものに見えた。
「長い金髪と淡い青の瞳の小柄な女性です。歳は……貴女と同じか、少し下ぐらいですかね。世間的に言えばまあ、可愛らしい少女なんでしょうね」
強気に微笑むマリーの姿が浮かび、ますます身体が硬くなる。背筋に冷たい汗が伝うのがわかった。
もしーーもし、この場でマリーの居場所を伝えたら、彼は彼女をどうするつもりなのだろう。
「……――そうですか」
「ええ、ご存知ありませんか?」
「いいえ」
考えるより、するりと否定の言葉が口に出る。周囲を取り囲む空気が冷たくなり、心臓が痛い。
「…………いいえ、お力になれず申し訳ございません」
何故嘘を吐いたのかはわからない。本来ならば忌避すべき行為をしたものの、それ以上に“こうしなければならない”と本能が告げていた。
僅かに震えた声で答えると、目の前の青年は苦笑を浮かべて肩を竦めた。
「そうですか……まいったな」
その足が1歩、2歩と此方に向くので慌てて踵を返すも腕を掴まれて近くの木に縫い付けるように拘束された。
「っ」
「貴女のようなか弱い女性に乱暴したくないんですよ」
耳元で低く囁くその声は、まるで自分の命を握っているかのように聞こえた。
「貴女、嘘が苦手でしょう?生憎とこちらはそういったやり取りには慣れているんです。だから無駄なことは考えない方がいい」
ねえ?と猫なで声に悲鳴が上がりそうになるのを何とか堪える。やはり、と言うべきか、先程の自分の嘘はあっさりと見破られてしまった。
(それどころかマリーさんを知っていることすらバレてしまった……)
「――彼女を見つけて、どうするのですか?」
もう隠すのは諦めて問いかけると、彼は僅かに目を見開いた。
男の目から見たセレネは、酷く警戒した猫のように見える。思わず億劫だと言わんばかりのため息が漏れた。
「なるほど、嘘は苦手でも勘が鋭いとお見受けしました。…………あの女と貴女がどういう関係かは知りませんが、アレは貴女が守るような価値などない人間ですよ」
「何を……」
「事実を言った迄です。
――私はね、アレに罪を償わせる為に来たんです」