彼女達の罪と傷とは、
「よく寝てる……」
思わず呟いたセレネの見詰める先にいるのは、木陰であどけない表情ですやすやと眠るマリーである。
今は日がちょうど真上に昇っている。ちなみにここは修道院で、彼女は一応ここの見習い修道女。
つまり、こんな時間から昼寝などバレたら大目玉なのだ。
どうか見つかりませんように、と願いながら自身のローブを毛布の代わり彼女にかけてその顔を見つめる。
――どう見ても、ただ穏やかに寝ているようにしか見えない。だが実際は、こうしている間も自らを鍛えている……のだという。
彼女がこうしている間、自分にはその世界を覗く術がないのではっきりと断言は出来ないが……それでも目覚めた彼女の身体に小さな痣や切り傷があるのは事実だ。
傷付いている彼女に対して完全なる部外者の立場であることに歯痒くは思うが、かといってどうしようもない。そもそも彼女自身が望んでいることをどうして止められるだろうか。自分に出来ることは精々、現実の世界で彼女の身体が穏やかに過ごせるよう微々たる行いをするくらいだ。
「ミスセレネ。いらっしゃいますか?」
遠くから聞こえる自身を呼ぶ声にゆっくりと立ち上がる。
最後に彼女に向けて柔らかい視線を残し、その声に歩み寄る。
「はい、私はここに」
「ああ、良かった。お客様ですよ。今は応接室にいらっしゃいます」
「お客様……?」
一体誰だろうと首を傾げた。てっきり何か手伝うことがあるのかと思っていたが、お客様、ともなれば違うだろう。修道女でもない自分を探すために修道院を訪ねるともなればもしかして一度会った人物か、――はたまた自分なんかを熱心に探した人か。以前森で出会った青年を思い出して少しだけ身体が強張るが、「ふふ、きっと驚きますわ」と楽しげな修道女の反応から前者なのではないかと予想する。
「わかりました、すぐに伺います」
「セレネ…!ああ!会いたかった!!」
応接室の扉を開けていきなり身体をぶつけるように抱き締められて、それが誰なのか一瞬わからなかった。柔らかな胸に顔を埋める体勢になってしまうのが何だか申し訳なくなる。
上品に漂う甘い香りは、自分のような身分では決して手が届かないであろう上等な香水だ。
セレネはゆっくりと顔を上げ……その人物に驚きにより目を丸くした。
「クリスティーナさん……?」
高貴ささえ感じる烏の濡れ羽色の髪を優雅に緩く巻いた髪が揺れる。赤い宝石のような瞳は潤み、その艶やかな唇には微笑みを浮かべていた。
クリスティーナ。家名は名乗れないと硬い声で告げたあの日の彼女を思い出す。
とある事情でこの修道院に身を移した彼女は、年が近いこともあってセレネの初めての友人となった。
どうやら名の知れた貴族令嬢であったようだが、そんな彼女が王都から遠く離れた修道院へと身一つで来るのだ。当時は相当な罪を犯したのではと、修道女達さえも眉を顰めていた。
しかし、セレネからしてみれば、悲しげで儚い表情を浮かべるその姿は今にも壊れてしまいそうで、放っておく事など出来なかった。
最初はぎこちなく、時には鋭さを込めて此方を警戒していたような彼女もしばらくすれば朗らかで美しい笑顔を見せてくれるようになっていった。それを見て胸の奥が温かくなったのを、今でも昨日のように覚えている。
そんな彼女との別れは唐突なものだ。
深夜、自宅を訪ねた彼女は暗い表情で実家に帰らなくてはならないと告げた。今のようにきつく抱き締める彼女の背中に手を回し、再会の約束を口にした。
……後に彼女の犯した罪は冤罪でありその疑いを自らの手で払ったのだと人伝に耳にした。
貴族令嬢に戻ったとなればもう二度と会えないかもしれない。そう考えると寂しさで食事も喉を通らない日々が続いたが、自らの力で道を切り開いたクリスティーナのことが友として誇らしく、どうか幸せな人生を歩んでほしいと願ったものだ。
――そんな彼女が今、こうして目の前にいる。自然と表情は緩み、あの晩のようにその背中に手を回した。
「お久しぶりです。私も……またこうしてお会いできて嬉しいです。お元気でしたか?」
「……病気はしていないわ。でもここにいた時の方がずっと元気だった」
彼女の発言に目を丸くする。確かに王都に比べてこの辺は自然豊かだ。もしや喧騒に疲れてしまっているのだろうか、とセレネは懸念したが、彼女はといえば自分の首筋にグリグリと埋めた顔を擦り寄せる。
「だって貴女がいないんですもの。何をしても身に力が入らないし、胸に穴が空いてしまったような心地だったわ」
「……クリスティーナ様……?」
甘く切なげに掠れた声に戸惑う。……それはつまり、寂しかったということだろうか?
擽ったさを覚えていると、彼女の名前を戸惑いがちに呼ぶ男性の声が聞こえて顔を上げる。
そこには落ち着いた栗色の髪の見目麗しく年若い男性がいた。彼女の従者であろうその人は何故か顔を赤く染め、どこか夢見心地であるかのように蕩けた目で自分達を見てくる。何だか居た堪れなくなり目を伏せながら軽く会釈し、彼女の背中を優しく撫でた。
「……何?」
しかし、そんな中で鋭い声を発したのはクリスティーナだ。
最初は自分へのものだと思ったが、彼女が振り返って視線を向けるのは例の男性であった。
まだ修道院に来て間もない頃、「私に構わないで」と拒絶した彼女は冷たくもどこか切羽詰まっていて危うさを感じたものだが、今の彼女はそれとも少し違う。ぴりぴりと敵意を剥き出しにした冷え切った空気を纏うクリスティーナは、自分を抱きしめる力を強めながら本来自身を守る存在である従者を強く警戒していた。
「は、あの……私は、」
「――彼女と二人にさせてちょうだい」
何かを言いかけた従者の言葉を切り捨てるように遮り、自分を背中に隠してしまう。
「いえ、ですが外部のものとクリスティーナ様を密室で二人きりになど、」
「聞こえなかった?……出ていきなさいと言ったのよ」
先程より強い口調での命令だ。
セレネを解放した彼女は、今度は従者から見えないように背に庇う。まるで天敵を目の前にしたかのような振る舞いだ。
それにショックを受けたかのように顔色を青白くさせた従者は、「――何かありましたらお呼びください」とふらふらと部屋を出ていく。
「……ごめんなさいね、騒がしくて」
「いえ……ですが、よろしかったのでしょうか?」
こちらに振り返った彼女は困ったように微笑みながら頬を撫でてくる。それを少し擽ったく感じながらも首を左右に振りつつ、思ったことを口にした。
彼女は本当に名のある貴族令嬢なのだろう。それこそ、平民の自分なんかがこんなふうに親しげに接していい立場ではない。
そんな存在である彼女が護衛を付けずに二人きり、だなんて……恐らく正しい判断ではないと、流石のセレネも察していた。
だが、彼女はそれを一蹴する。
「あら、私に危険が及ばないようにしたいならそれが一番よ。……セレネは私の味方でしょう?」
「それは……ええ、勿論」
素直に答えれば、彼女は蕩けてしまいそうな笑みを浮かべた。
「ですが、私では何かあった時の対応が出来ません」
「私がここで暮らしていた時、そんな事考えたことがあった?」
「それは……」
たしかにそうだ。けれど、嘗てと今では状況が違うのではないだろうか。
そう考えたが、白魚のような両手が自身の両頬に当たり、美しい顔が一気に近付くことでそれ以上言えなかった。
「……貴女が、貴女だけが私の味方よ。あんな人たち知らない。自分たちの体裁とエゴでしか動かないし、誰かが傷付いても見ていないふりばかり……それでも自分に都合が良ければ簡単に手のひらを返すようなおぞましい人たちだもの……みんなみんな大嫌い。貴女だけが私に手を伸ばしてくれたし、どんなに醜い姿を晒しても変わらず傍に居てくれた。――お願いだから、信じて、セレネ。私には、貴女だけなの」
こちらを見つめる紅玉のような瞳は潤んでいて、弱々しい声で求めてくる。年齢より大人びた美貌にはそぐわない、幼子が親を求めるかのような切実さに、何と言葉を掛ければ良いのかわからなかった。
――恐らく、彼女の受けた傷というのは自分が思っていたよりずっと深くて暗い色をしているのだろう。
しかし、彼女の身に何が起きたのか、彼女は一体これまでに何を背負ってきたのか、セレネは知らない。それを安易に聞けば彼女の傷を広げ、愚弄すると同等の意味を成すと思っていたから聞くことをしなかった。
けれど……彼女が自分しか頼れないと嘆いているのならば、その傷を知らなければならないのだろう。知って、その傷がどうしたら癒えるのか、彼女と共に考えなければ。
そう決意したセレネは、ゆっくりと口を開いた。
「どうして、そんなこと――」
――貴様!なぜここに……!!
――邪魔、退いて!
――何だと!あのようなことして何様のつもりだ!!
――うるさい!!退けっつってんのよ!!
しかし部屋の外から聞こえる喧騒により、その言葉は最後まで告げることができなかった。
「……マリーさん?」
乱暴に開かれた扉の先には、先程まで健やかな寝顔を晒していた彼女がいた。美しい青空のような瞳は激しい焦燥――または恐怖の色が浮かんでいた。
額に浮かんだ汗は、ここまで走ってきた証拠だろう。
戸惑いながらも声をかけるセレネの手を掴みそのまま抱き付いてくる。腕に顔を押し付けて、肩を上下する程に激しい息切れを繰り返す姿に戸惑いながらも名前を呼ぶ。
「だめ……!セレネ、だめ……!そいつの言うこと、聞かないで……!」
しかし彼女は、それに対して返答はなく、震えた声で訴える。
「――なんで」
低く落とされた声に振り返れば、そこにいるクリスティーナは仄暗い瞳でこちらをじっと見つめていた。
「なんで、貴女がここにいるの?」
「っ」
「ねえ……なんでセレネに抱きついているの?……離れて……離れてよ……!」
ぞっとするような静かな声は次第に怒りが篭っていき、抱きついてくるマリーの稲穂のような髪を強く引っ張った。
「く、クリスティーナさん……やめてください!」
ぶちぶちと数本の髪が抜かれる音を聞いて、慌ててクリスティーナの手を掴むが、その手が彼女の髪から離れることはない。
「離れなさいよ!あんたみたいな女に触られたらセレネが汚れる!!」
「いや……!絶対に嫌!!」
「クリスティーナさん!」
廊下にいるクリスティーナの従者を見るが、怒りと憎しみで顔を歪めている主の変貌ぶりに動けないでいるようだ。
……マリーが罰せられないのはある意味幸運なのかもしれない。
そう少しだけ現実逃避をしつつ、握った手を少しだけ強く引く。その瞬間、クリスティーナの動きがピタリと止まる。
「………セレネ……貴女、騙されてるわ」
こちらを見つめるクリスティーナが、不自然に口端を釣り上げる。
「……え?」
「可哀想に……優しい貴女だもの、きっとそこにつけ込まれたのね」
「クリスティーナさん、何を……」
「ねえ、私がどうして王都を追い出されたか、知ってる?」
「やめて!」
悲鳴を上げるマリーを嘲笑う声を隠しもせず、言葉を続ける。
「私ね、冤罪をかけられたのよ。王太子の婚約者でありながら、他の男と不義を働いて、権力で民を害して、地位の低い男爵令嬢を心身共に追い詰めたとか。……それはね、そこの女が全部でっち上げた事なのよ」
「やめてぇえ!!」
――最初から感じていた、マリーの罪。クリスティーナの傷。
その上澄みをようやく理解し、言葉を失った。




