自分の中の男として“性”に抗ってみる
――酒は控えた方が良さそうだ。
その時の飲み会の席で、僕は心の中でそっとそう呟いた。
理性は保っておいた方が良い。
その時、僕の隣の席には女の子が座っていた。その子は隣の課に所属していて、話す機会はなかったけれど、いつも可愛いなと思っていたんだ。話はそれなりに弾んでいて、僕の勘違いか、彼女が僕をからかっているのか、或いは美人局の類でないのなら、僕を気に入ってくれているように思えた。
正直に言って、こんな体験は初めてだ。僕はまるで自分が村上春樹の小説の中に出て来る何故か矢鱈にモテる男の主人公にでもなった気分になっていた。
……いや、彼女が僕を気に入ってくれる理由がまるで分からなかったんだよ。
だけど、その僕の人生において一度あるかないかのチャンスには、一つ大きな問題点があったのだった。
実は僕には恋人がいるのだ。
つまり、もしここで彼女とどうこうする方向に関係が発展してしまったなら、僕は浮気をする事になってしまう訳だ。
はっきり言って、男であるところの僕にとってその選択肢はとてもつもなく魅力的に思える。
だけど、だからこそいけない。
それは僕の男としての性質がそう見せているだけの幻想であるかもしれないからだ……
男が富や権力を持とうとするのは、力を誇示する事で女性達にアピールし、自らの子孫をより多く残す為だ。
なんて説明がされる場合がある。
生物の究極の目的が、自分の遺伝子をより多く後世に残す事だとするのなら、或いはそれは正しいのかもしれない。
しかし、そうだとするのなら、その理想形はハーレム制…… つまり、一夫多妻制だという事になる。
だけど、現在、人間は一夫一妻制が基本だ。もっとも、それは“現在”の話。遥か昔は違っていたのかもしれない。
一夫多妻制を執る動物の雄の体は大きくなるのが普通なのだそうだが、人間は雄の方が体が大きい。だから、かつては一夫多妻制だったのではないかという仮説があるのだ。実際、今でも一夫多妻制を認める国は多い。
では、何故、一夫一妻制になったのだろう?
それには恐らく人間が“戦争”を行う動物である事が関係しているのではないかと思える。
(因みに、戦争をするのは人間だけじゃない。チンパンジーだって戦争をする)
一人よりも、複数人いた方が戦争に有利なのは言うまでもない。すると男が複数人にいる社会の方が増えていき、どうしたって一夫多妻制は衰退していく。
或いは、太古の昔、人間の男達は、別の部族を襲って支配し、女性達に自分達の子供を無理矢理に産ませていたのかもしれない……
太古の昔?
いやいやいや、近世においてだって戦争で侵略した先で、男達が女性をレイプしてしまうという話は数多くある。
これは現代でだって通用する、人間の雄である男達の遺伝子生き残り方略の一つなのではないだろうか?
女性達にとっては迷惑この上ない話かもしれないけれど、ある種のタイプの男達は、今でも似たような方略を採用したがっているのかもしれない。
実際、戦争を好む男達の中には、女性を蔑視しているような発言をする者が少なくないじゃないか。
「……アキ君って面白い人なのね。私、もっと話し難いかと思っていたわ」
機嫌良さそうに彼女が言った。手にはワインを持っている。自分でも驚くほど舌が回って、僕は軽快なトークで彼女を楽しませる事ができていた。
まぁ、今の状況の場合、その“戦争を好む男”の性質は成り立たない。
僕は彼女をレイプしようとしている訳じゃない。それどころか、彼女の方がむしろ僕に対して好意を持ってくれているようですらあるのだから。
少し前屈みになった彼女の胸元は非常にきわどいラインを見せていて、あとほんの少し角度が変わりさえすれば、それで胸の谷間が見えそうだった。
当然ながら、僕は色々な事を期待してしまう。
ひょっとしたら、わざとかもしれない。
なら、
それなら……
どう位置付ければ良いのかは分からないけれど、レイプをしてはその地を離れるという行動を繰り返す男が世界にはいるのだそうだ。
これを正常な行動と認めるのには抵抗があるけど、それでもそんな男達は、“遺伝子を多く残す”という目的にとっては有効な行動を執っているのかもしれない。
もっとも、こんな人間は滅多にいないだろう。
なら、それを男の“タイプの一つ”として捉えるのには無理があるのかもしれない。
いやいやいや。
少し冷静になって考えてみよう。そんな犯罪行為ではなくても、似たような行動を執る男は意外に多い。
女の子をその気にさせて、エッチしては直ぐに別れてしまう男。或いは、浮気性で複数の女の子に同時に手を出すような男。
そういうタイプの男なら普通にいる。そして、それらは同タイプのカテゴリーに入れてしまっても良いのかもしれない。
彼女から「飲まないの?」と言われ、理性を保つ為に酒を控えていた僕は「それじゃあ」と言いかけた。
少しくらいなら平気だろう。そもそもお喋りを楽しんでいるだけなのだし。
そう思いかけた僕のスマートフォンが不意に鳴った。どうやらメールが届いたらしい。
それを読んで僕はこう返した。
「いや、やっぱりいいよ。今、仕事が忙しくってさ、明日の為にあまり飲みたくはないんだ」
そのメールには『飲み会、遅くなるのだったらモーニングコールしてあげようか?』という恋人からの優しいコメントが書かれてあったのだった……
自分の遺伝子をできる限り多くばら撒く為の男の行動には何種類かのタイプが考えられる訳だけれど、そのどれにも共通する特徴が一つある。
それは子育てを重要視しないという傾向。
子育てにはコストがかかる。そんな事は女に任せて、自分は新たな女をハントすることをもっとがんばろう……
そんな事を考えているかどうかは分からないけど、結果だけを観れば、それら男はそんな行動を執っているように思える。
僕は自慢じゃないが、子供は大好きなんだ。今の恋人との間に子供が産まれたなら、きっと大切に育てるだろうと思う。
そんな僕には、或いは、“遺伝子をばら撒く事しか考えない”という男の性が少ないのかもしれない。
ま、ちょっとばかり夏バテ気味で、性欲がそれほどないって事もあるのかもしれないけれど、今はそれは考えないようにするべきだろう。
いずれにしろ、彼女からの誘いを断って、一人で夜の家路を歩く今の僕は、とても気分が良いのだし。