ウラゴン
一学期の修了式が終わり、少ない生徒が姿を消したこの木造校舎はまったくいつもの賑わいを失っていた。―ちなみにじーわじーわと鳴り響くセミの鳴き声は賑わいには数えない―
戦後間もなく建てられたというこの木造校舎は古き良き昭和の時代というものを象徴する建物である。かつて数百人もの生徒が学んだこの校舎で今学ぶのはたった十数人になってしまった。それも来年になれば三年生が巣立ち、とうとう生徒の数は一けたになってしまう…。それでも青少年の青春の舞台となった誇りは失われておらず、それがこの校舎を古めかしく見せていないのかもしれないのだった。
そんな校舎の一角、扉の上のプレートに生物室と書かれた教室の中にわずかな賑わいがあった。耳を澄ませば聞こえてくるのは、若い男女の会話。
「昨年度の三学期、そして今年の一学期は我々UMA同好会、ツチノコもカッパもウラゴンも見つけるどころかその痕跡さえ発見することが出来なかった、非常に残念なことだ」
「はあ、そうっすね」
夏休み、誰も居ない校舎の一部屋で制服を着たまだ青い少年少女が二人きりでの語らいを楽しんでいる…と表現するには少女の返事は感情というものが足りないようだった。まるで彼氏が出来た知り合いに「あんたもはやく彼氏つくりなよ」と上から言われた女性がする返事のように感情が足りない。対して少年の方には語るその目に熱量が見えるものの、彼の言葉からそれは甘酸っぱいのとはまったくかけ離れた熱であることがわかる。
ちなみに彼の言うウラゴンとは、このあたりの地名からとったUMAの名称である。
「二学期は俺もさすがに受験勉強に腰を据えねばならん、つまり植木隊員、どういうことかおわかりか」
「はあ、わかんないっすね」
「その通りだ植木隊員!さすがだな!」
「聞いてねえな」
「つまりこの夏休みが勝負ということだ!」
問いかけておきながら少女の言葉をガン無視した少年は人差し指を立てた手を力強く振り下ろして、そう宣言する。植木隊員と呼ばれた少女―植木三智は力強くこちらを指差す己の先輩―中新臣を思い切り嫌そうな顔で睨みながら「はあ」ともらすのだった。
UMA同好会とは臣の作った非公式の部活である。非公式であるから部員は臣と三智の二人きりだし、当然顧問などついているはずがない。
そしてその活動目的はこうである。
UMAもしくはその痕跡を見つけて村興しのきっかけにする。
ちなみにこの活動目的を掲げたのは臣である。どうやら昨年度の冬休みに怪奇現象を追う番組を見てひどく感銘を受けたらしい。三智が臣にUMA同好会設立の話を聞かされたのは冬休みもあと一日で終わるという日のことだった。三智がこたつで寝正月の最後を堪能していたところに臣が飛び込んできたのである。すでにこたつの温もりで夢うつつだった三智は興奮して話す臣の言葉をほとんど聞いておらず「はいはい」やら「わかったわかった」などの生返事をしていたように記憶している。
その結果がこれだ。
学校が始まるや否や三智は臣にUMA同好会なるものの活動に参加しろと毎日放課後に雪山、春山を連れまわされる三学期及び一学期を過ごすハメになり、更には夏休みまでUMA同好会漬けの日々を送らされようとしているのだった。
それでも三智が付き合ってられるかとばかりに椅子を蹴り上げて生物室を去るようなマネはせずに、ただただ呆れたようにため息をつくだけにとどめているのはひとえに、近所のよしみというしがらみの為だった。―まあ近所といっても互いの家は自転車で15分かかる距離なのだが―
「二学期に入ったら俺もさすがに受験モードだからな、自由にUMA探しができるのもこの夏休みが最後だ」
「夏休み前から受験モードの人もいるっすけどね」
「それは進学校狙ってる組だろ?俺みたいな底辺公立狙い組は二学期からで十分だって」
「はあ、まあ、後でほえ面かかなきゃいいっすけどね」
「最悪二次でギリギリ受かる予定だから平気」
「…まあ、先輩の問題だからいいっすけど」
齢十五にして綱渡り人生を宣言する臣に呆れた視線を送りつつ、三智は首のあたりにつたう汗をぐいと拭った。夏はまだ始まったばかりだというのに、暑い。それはじーわじーわと鳴り響くセミの声のせいなのか。はたまた目の前でUMA発見及び捕獲、その痕跡の発見について語る先輩の熱量のせいなのか。
間違いなく後者だなと結論付けた三智は制服の胸元をつまんでぱたぱたと風を送りながら、本日一深いため息をつくのだった。
UMA同好会は三学期及び一学期、冬山、春山を毎日駆け回って何の成果も得られなかった。―ここで言う成果とはUMA及びその痕跡のことであり、息をのむような樹氷の光景や春山の恵みである山菜の数々といった成果は両手からこぼれるほどに得ている―
つまりそれが夏休み、夏山に舞台が変わっても何の成果も得られるはずがないのである。
立ち止まってよく考えてみればそれは当然のことで、この村にはツチノコはおろかカッパの伝承さえも残っていないし、長くこの村に住む諸先輩方に聞いて回っても皆口々に言うのは「見たことないね~」「知らんね~」という言葉だけなのだ。そしてウラゴンに至っては臣の想像上のUMAである。
それだから夏休みが終わるまであと一週間となった今日までに、UMA同好会が何の成果も得られていないのはまったく不思議なことではないのだった。
「こうなったら…もうアレに頼るしかない」
所有するたんぼを少し高い位置から見下ろせる場所にある三智の家に朝っぱらから訪れていた臣は、その縁側で真剣な顔をしてそうつぶやいた。その隣でこれまた朝っぱらからスイカを食べながら「そうっすね」と返す三智が”アレ”をまったく理解していないし興味もないことはその顔の向きから明らかである。
「お前ん家の裏の山中にある…古い祠、それを調査するしかないようだ」
「ああ、そういえばそんなもんもあったすね」
ぷっとスイカの種を庭に吹き飛ばしながら三智が答える。
この日本家屋の裏山に建つ古い祠は、三智の祖母が生まれた時からあるというものだった。三智の祖母によるとそのまた祖母の頃からあるらしく、それが本当ならばあの祠は相当の長い間あの場所に存在しているということになる。
「前にお前のばあちゃんから聞いたけど、あれにはカエルの神様が祀られてんだってよ」
「へえ、そうだったんすか」
「なんでも古い時代に岩ほどでかいカエルの姿をした山神様がいて、それが暴れたんで鎮めるために祠を建てたとか」
自分の家の裏山にあるにもかかわらず初めて聞いたその話に三智は「へえ」と返事を返した。もっとも、興味を示しているというわけではなかったが。
「俺はそれが、UMAだとふんでいる」
「はあ」
「古来より怪異と神は紙一重の存在だ、神として祀られている不思議な生き物が実はUMAだった、ということは在りうるだろう」
「そうなんすね」
「ばあちゃんによるとあの祠の中にはそのでかいカエルのミイラが保存されているらしい、確かな筋からの情報だからさんざん探して何も出なかった時のためにとっといたんだが…今がその時かもしれんな」
至極真剣な顔で臣が語る話の内容を、三智はわけわからんこと言ってるなあと思いながら聞き流しているのだった。それでも三智が「なにわけわかんないことを言ってんすか」や「ありえないっす」など明確な否定の言葉を口にせずただ語るその横顔を呆れたように見ているだけにとどめているのは、臣が語る話の情報源が己の祖母であるからだった。この人の話を聞かない腹の立つ先輩の幻想を打ち砕くことにはまったく心は痛まなくても、あの優しい祖母の幻想を打ち砕いて祖母を悲しませてしまうなんてことは三智にはできない。
「よし、それじゃあさっそく今から行くぞ」
だから三智がそう言って立ち上がる己の先輩にため息をつくだけで文句は言わずについていくのは、その情報源が祖母だという理由の為なのだった。
「いやあ、思った以上に古かったな」
緑の生い茂る裏山を歩くこと数十分、臣と三智の前には思った以上に風化してぼろくなった小さな祠が現れた。それでもその祠の周りだけは草が短く刈られているから、誰かが面倒を見ているのだろう。そしてそれはおそらく、三智の祖母である。閉ざされた観音扉の前には水を湛えたコップがひとつ供えられていた。
「これはフインキあるぞー、UMAの匂いがプンプンする」
言いながら祠の周りをぐるぐると歩きしげしげと眺める臣に、三智は「雰囲気っすね」やら「UMAの匂いて」などのツッコミはまるで放棄してデジタルカメラのシャッターを切っていた。UMAうんぬんはともかく、木漏れ日の中凛とたたずむこの祠の幻想的な光景を撮って残そうと思ったのだ。
そうして三智が何枚も写真を撮っているうち臣は心行くまで祠を観察し終えたのか、いよいよその閉ざされた観音扉の前に膝をついていた。
「ではいざ…失礼して!」
そう宣言した臣が扉に両手をかけた、そのとき。
「失礼すんなゲロ!」
「えっ!?」
突如として響き渡ったその声に臣はびくりと飛び上がり、反射的に扉にかけていた両手を高く挙げた。それから声の主を探すように慌てて首を左右に振るが彼の目には声の主らしき影は映らない。その一方で祠に向ってデジタルカメラを構えたままだった三智には、その正体が見えていた。
岩のようにゴツゴツとした皮膚。横に大きく裂けた口。頭の横にあるそれは、巨大な水晶玉かと思うほど丸く、そしてつやっとしている。
三智はぽかんと口を開けてその光景に圧倒されつつ、構えたデジタルカメラのシャッターボタンをポチリと押した。カシャリと音が鳴って表示された画面に、その巨体はまったく収まりきっていなかった。
「まったく近頃の若いのは礼儀というもんがなっとらんゲロな」
もう一度声がして臣はようやくそれが頭上から聞こえたということに気が付いた。そして恐る恐る上へと視線を移し―
「勝手に神体を開帳なんて無礼にもほどがあるゲロ」
「…きょ、巨大カエルーーーーーーーー!!!!!!!!!!」
祠の屋根にずしんと鎮座する巨大なカエルに悲鳴を上げるのだった。
「カエルとは失礼ゲロ、カエル様と呼ぶゲロ」
驚きすぎてしりもちをついた臣を平然と見下ろしながら、自称カエル様はそう仰った。巨大なカエルが祠の屋根に座ってこちらを見下ろしているばかりではなく、流ちょうにしゃべっている。あんなにも恋い焦がれ探し求めていたUMAが目の前にいるというのに、臣はあまりに衝撃的な出来事にただ巨大カエル―カエル様を見つめるだけで腕を伸ばすことはおろか声も出せずにいた。
「あの、カエル様、質問いいっすか」
そんな情けない先輩の代わりにカエル様とのコンタクトを試みたのは、控えめに片手を挙げた三智だった。大きな水晶玉のようなカエル様の目玉がぎょろりと動いて三智の姿を捉える。気味の悪いそれにぎょっとして体をびくりとさせながらも勇敢な態度でカエル様に挑もうとする三智を見て、臣は後輩の頼もしさに胸を打たれた。
普段はUMAにまったくと言っていいほど興味を示さない後輩だが、やはりそれを目の前にすると持ち前の好奇心が抑えられないのだ。きっと彼女はこう聞くだろう、あなたはUMAですか、と―
「その語尾のゲロは何なんすか、必須なんすか?」
「それ今聞かなきゃダメ?」
後輩の鮮やかな裏切りを受けた臣の口からは思わず声が飛び出ていた。信じていた後輩はまさかのカエル様の語尾というわりとどうでもいいところに好奇心を抑えきれなかったらしい。とんでもなく生産性の無い質問をした後輩に臣は先ほどとはうってかわって不審がる視線を送る。―頭の悪い彼はUMAに対してあなたはUMAですかと聞くことの生産性の無さには気が付いていない―
そしてそんな三智の質問にカエル様はゲロゲロと鳴いてからゆっくりとその口を開いた。
「いや、これ小説ゲロ?」
「突然のメタフィクション的発言」
「文面だけじゃ中々カエル感伝わらんゲロ、だから語尾にゲロゲロつけてやってるゲロ、感謝するゲロ」
「なるほどっすね」
「えっ今のなるほどでいいの?」
カエル様の口から出たまさかの発言にはさしもの臣も衝撃を忘れてツッコミに回ってしまうほどであった。更には三智がさも納得したかのような返事をしているから臣の感じる疎外感は強くなるばかりだ。
「って、そんなことより重要な話があるんだゲロ」
しかし臣が強く感じたその疎外感は、ぎょろりと目玉を動かした神様がそう言ったことではじけ飛ぶことになる。今の一連の出来事ですっかりカエル様のインパクトに慣れた臣はカエル様を見上げながら「重要な話?」と繰り返した。
「そうゲロ、お前、神体を勝手に開帳するなんて無礼ゲロ、だからカエル様が罰を与えるゲロ」
「え、罰?い、いったい何を」
「そおーれゲロ!」
カエル様が声高くそう叫んだ瞬間、ぼんっと音がして臣の周りの空気がはじけたかと思うとたちまち白い煙が臣を覆い尽くしていった。三智は空気がはじける音が響いた瞬間「うひゃあ」と驚いた声を出した後、息をのんで白い煙に覆われた臣を見つめるのだった。
やがて臣を覆う煙は薄れていき、ついに臣がその姿を現したとき―
「…せ、先輩」
臣を凝視した三智は息をのみ、絞り出すような声で臣を呼ぶとゆっくりとした動作で手にしていたデジタルカメラを構えて、そしてそのシャッターボタンをポチリと押した。
カシャリと音が鳴って表示されたその画面には、バッチリとポーズを決めた怪異が映っているのだった。
三智はその姿勢のまま「え、何、なんで写真撮ったの?」と困惑している様子の臣へ近寄ると、デジタルカメラの画面をそっと見せる。カメラを持つ三智の手に己の手を添えて、臣はその画面を覗き込むと―
「…か、カエル男ーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!」
画面に映る頭はカエル、体は人間という怪異の姿に悲鳴を上げるのだった。
それが今の己の姿だと、理解して。
「ゲーロゲロゲロゲロ!罰ってわりには少し男前にしすぎたゲロね」
高らかな笑い声がして臣と三智が同時にそちらを見ると、変わらず祠の屋根に鎮座するカエル様がこちらを見下ろして笑っている。
「その姿でしばらくの間反省するといいゲロ、山神を雑に扱うとこういうことになるゲロ」
「…あの、カエル様、先輩は元に戻るんっすか?」
「もちろんだゲロ、しかしそのためにはお前の力が必要ゲロ」
「え、わたし?」
カエル様が三智に向ってそう言うと、臣も思わず隣に立つ三智を見た。普段は感情豊かとは言い難い三智が珍しく、困惑した顔をしている。
「お前がこの男に隠している、あることを打ち明ければこいつの顔はもとに戻るゲロ」
「隠してること、って…」
「心当たりないゲロ?あれゲロよ、あれ」
言われた三智は「あれ…」とつぶやいたきりうつむくと黙ってしまう。対する臣はカエル様と三智のやりとりの意図がわからずカエル様と三智を交互に見ながら困惑している様子。―もっともカエルの顔からは表情が読み取りづらいのだが、たぶん、困惑しているのだろう―
「そんじゃ、せいぜい反省するゲロ!あ、言っとくがもう一度勝手にこの扉を開けて神体を開帳しようとしたら―その顔、一生もとに戻らんようにしてやるから覚えとくゲロ」
最後にそう忠告すると、カエル様はひゅっと煙のように消えてしまった。
祠の屋根には、木漏れ日だけがゆらゆらと揺れている。
今の出来事は現実だったのだろうか、もしかして長い白昼夢だったのではないか。そうであったならどんなにかよかったことだろう。
臣が己の頬に添えた手は、ぴちゃりと音を立てた。
「…植木隊員」
「はあ」
「…俺の顔は、何だ?」
「…カエルっすね」
感情の読めない三智の言葉が臣にとどめを刺した。
とどめを刺された臣は「…そうか」とつぶやくと、絶望に打ちひしがれるように頭を垂れる―
「…つまり、俺自身がUMAになったわけだ!よっしゃ!これで村興しできる!」
なんてことはせず、そう叫びながら両の拳を力強く天に向かって突き上げたのである。
これには三智も呆れ果ててため息をつくことしかできない。そんな三智をよそにカエルの頭をした臣は「まずは新聞からかなーでも今時動画から火が付くってことも多いしやっぱそっちか?」などとUMAによる村興しの計画を考えている様子。
「そうだ植木、さっきの写真早いとこオカルト雑誌とかテレビ局にでも送らんとな」
「いや、がっつりポーズ決めたカエル男なんて信憑性ゼロっすよ、ただの浮かれた季節外れのハロウィン野郎っす」
「…ああ、なるほど、じゃあもっとこう、木々の間から隠し撮り的なそれで撮るべきか」
祠の傍でああでもないこうでもない、と至極真剣に考えをめぐらせるカエル男―臣に呆れた視線を送りつつ、三智はもう一度深いため息をつく。同時にお腹のあたりからぎゅるぎゅると音がしたことで三智は自分が空腹であることに気づいて、うんうんとうなる臣に向って呼びかけた。
「…とりあえず、飯食ってから考えないっすか」
自分自身が探し求めていたUMAになったことに浮かれた臣はそれから、突然農道を横切ってみたり、農作業中の老若男女に目撃されてみたりと自らの存在を村中に知らしめることに夢中になった。浮かれた、とは言ったが臣がそうするのはひとえにUMAによる村興しを為し得んとする思いの為で、その甲斐あってかこの村で目撃されたUMAカエル男の情報は今、地元の新聞やテレビでにわかに騒がれ始めている。
しかしそうして世間が騒ぎ始めたころ、夏休み最後の日を迎えて臣はなぜだか、ひどく落ち込んでいた。
「…明日から学校だし、さすがにもとに戻らないとやばい…ていうかそろそろ自分を見失いそうだからすごいもとに戻りたい」
三智の家の縁側で膝を抱えて座るカエル男―臣の隣でいちじくをかじりながら話を聞いていた三智は一言「はあ」ともらした。臣のまとう雰囲気はたった数日前とはうってかわってひどく陰鬱なものである。その割に今朝はごはんを三杯もおかわりしていたが、と思いながら三智は、三智もまた、臣とは違う種の陰鬱な雰囲気をまとっているのだった。
ちなみに、臣はカエル男になってから三智の家に泊まり込んで家には帰っていない。帰れるはずがないのだ、このカエル頭の姿では。幸いにも老人と少女の二人暮らしの手助けをする、という名目があったおかげで三智の家に泊まるからしばらく帰らないという臣の言い分は彼の両親にすんなり受け入れられた。―宿題はどうなっている、という厳しい言葉もあったが、それはそれとして―
ところで三智がまとう陰鬱な雰囲気は、彼女の置かれた状況に理由があった。
「だから、お前が俺に隠してるっていう、あることっての、話してくれないか…?」
三智は、きた、と心の中でつぶやいた。
「…昔、学校の駐輪場で、先輩の自転車のサドルを一週間連続で一番高い位置にしておいたのはわたしっす」
「お前だったのか」
なんとなくそんな気してたけど、と言う臣の顔はカエルのままだった。自分の頬にぴちゃりと触れた臣が静かに「違うぞ」と言った声に三智は気まずそうに口をぎゅっと結んだ。
三智はカエル様の言った”あること”がわからないわけではない。いやむしろ、わかっているのだ。わかっているからこそ三智は”あること”を打ち明ける勇気が無いのである。そもそも勇気が無いからこの”あること”をずっと打ち明けずにきたというのに、打ち明けろと言われて打ち明けられるはずがない。
しかしこの状況は、三智にそれを許さないのだった。
臣が己のUMA化に浮かれて村中を駆け回っている間、三智は悩み苦しんでいたのだった。臣がもとの顔に戻るためには”あること”を打ち明けるしかない。それ以外にもとに戻る方法は無いのだ。しかし勇気は無い…。
そうして悩む中で三智は心の中でカエル様を恨んで―そして、はたとあることを思い出したのだった。
三智は、臣と訪れる前にも一度あの祠を訪れたことがある。それは、一人で。裏山から食べごろのコシアブラを少し採ってきてくれと祖母に言われた春の日のこと。山中で見つけたその祠に三智は軽い気持ちで願いをかけた。それは願いをかけるというよりも、誰にも打ち明けられない苦しみを紛らわせる行為だったかもしれない。
とにかく三智はそのとき、祠に向かってたしかに、”あること”を打ち明けたのだ。
まさかあのカエルは、カエル様は、だから自分に”あること”を打ち明けろと言ったのだろうか。それに気づいたとき、三智はカエル様に悪態をついた。余計な事してくれたな化け物ガエル―と。
「なあ植木」
ふと聞こえたその声がとても近い位置から聞こえた気がして、三智はそちらにちらりと視線をやった。すると先ほどよりもずっと近い位置に、カエルの顔があるのだ。三智は今更カエルの顔が傍にあったとしても驚かない、それが臣だとわかっているからだ。
「俺は、お前にどんなことを打ち明けられても、受け入れる覚悟がある、許す覚悟だってある、だから…頼む」
臣に許しを請わなければいけないような隠し事だと思われている言い方に三智は少しだけいらっとして、そして、ぎゅっと結んでいた口をゆっくりと綻ばせた。勇気は、いらない気がした。臣にはどんなことを打ち明けたって平気な気がしたからだった。―打ち明けた自分自身の方は平気かどうかはわからないが―
「…じゃあ、言うっすけど」
じーわじーわと響くセミの声が、遠ざかっていく気がした。そうして訪れた静寂の中で三智がぽつりと一言―
「…好き」
そう、つぶやいた。
臣が水晶玉のように丸くてつやっとした目をぎゅんと見開いて「…え?」とこぼす。
「昔からずっと、わたしの手を引っ張ってくれる先輩が…おみくんが、わたし、好き」
いざ打ち明けると、やはり恥ずかしくて三智は視線を自分の膝の方へ移した。自分の心臓が、早鐘を打っているのがわかる。
「それで、欲張りな事言うと、おみくんにも好きって言ってほしい、…おみくんの、およめさんに、なりたい」
それは、三智がうんと小さい頃に臣に言った言葉で。けれどあの頃よりもっと、欲望を込めて。
ああ、とうとう打ち明けてしまったなあと三智はぎゅっと目をつむった。顔に、いや、顔どころか全身に熱が上がっているのがわかる。極度の緊張を通り越すと人は却って冷静になるようだ、三智は自分にこんな乙女な一面があったことに驚きとともに感心さえしていた。
「三智」
穏やかに、三智の名前を呼ぶ声が聞こえた。植木、ではない、三智、と。聞こえたそれに三智がぱっと目を開けると今度は「こっち向いて」と優しく促す声がして、三智は恐る恐るそちらを見ることにした。
「…あ、おみくん、顔…わっ」
そうして顔を向けた先で見た臣の顔はまったくカエルではなくて。しかし三智がそれを指摘しようとした言葉は直後に襲った柔らかい衝撃に奪われてしまうのだった。
「三智」
名前を呼ぶ声は、三智の頭の上あたりで聞こえた。
背の高い彼にすっぽりと包まれるように抱きしめられてしまったのだ、と理解したとき、三智は臣と密着しているところがかあっと熱くなるのを感じた。
「俺も、三智が好き」
言われたそれは、三智の心臓をぎゅうとしめつける。
「やだおみく…先輩、そういうのいいっすから」
「違う、三智がそうしてほしいって言ったからじゃない、俺だってずっと、三智をお嫁さんにするって思ってた、ていうか今でも思ってる」
ぎゅう、と抱きしめられて、三智は気が付いた。激しい鼓動の音が、二つあると。一つは当然、三智のものである。だとしたらもう一つは。
それに気が付いたとき、三智はすうと気持ちが落ち着いていく思いがした。鼓動は、まだ激しく鳴ったままだけど。
「普段は感情をあんまり表に出さなくて、そんな女の子が俺にだけ、顔を赤くして、およめさんになりたいって言ってくる、その破壊力が分かるかお前」
「…いや、ごめん、わかんない」
「ああ…うん、わからんならそれでいいや、つまり俺はほんとに、三智が好きってこと」
言われてまた心臓がぎゅうと締め付けられたが、さっきのとは違うと、三智はわかることが出来た。
「三智が俺の事先輩とか呼び出して変な体育会系の敬語使い始めたとき、正直寂しかったんだからな」
「そ、んなの、…おみくんだって植木って呼んだ」
「三智が先輩って呼ぶからだ」
拗ねたようなその言い方に三智は呆れて、それから、なんだか笑えてしまうのだった。臣の腕の中でこっそりもらした三智の笑い声が臣に届いたのかそうでないのか、臣もまた笑って、それから三智の髪をそっと撫でた。
「おみくん、暑い」
「え?んー…もうちょっと」
三智が臣の背中を叩いてそう訴えるが、もう少しこのままでとねだる臣に優しく髪を撫でられてしまう。密着した部分が熱くて仕方がないのだが、三智はもう少しならこのままでいいか、と臣の広い背中をぎゅっと抱きしめることにしたのだった。
じーわじーわと鳴り響くセミの声がいつの間にか戻ってきていて、夏の終わりの縁側で抱き合う、まだ青い少年少女を包み込んだ。
その日以来カエル男の目撃情報はぷっつりと途絶え―ることはなく、その後もなぜだか年に数回の目撃情報が出てそのたびに地元の紙面を静かに賑わせることになるのであった。
そしてUMAカエル男はこのあたりの地名からとって、こう呼ばれている。
―ウラゴン、と。