初雪 こころ やがて積もりて
いつも廊下の手すりは清拭・清掃で済ますが、今回はおう吐した人がいたので念入りに消毒用エタノールも使う。普段より力を入れているだけに――暖房もあいまって牧瀬静美は暑さを感じる。
「ふう……」
ゴム手袋は思ったより手に纏わりついて気持ちが悪い。ゴムと汗が指に絡んでじっとりとする。「やってもやっても終わらないな」なんて弱気な声が静美から漏れ出た。
職員や面会者の触る所も念のためエタノール消毒しなければならないだろう。
「今日もこうして過ぎていくんだろうな……」
突き当りに灰色に縁どられた非常口が見える。そこからは、密度が濃く重い雲が覗いていた。薄汚れたガラスに負けないくらいの陰鬱なそれは、見る者を暗い気持ちに誘っている。
この廊下の少し奥にある非常口からは、二階だったこともあり、枝を伸ばした樹木が見えたはずだ。だが、落葉樹だったせいか、今はまるで枯れた細い指を天に伸ばしている。無言ですがりつこうとしている姿は、どこか骨となった手が空に救いを求めているように映る。
そこまで来て静美は変な妄想を頭の隅に追いやった。
非常口だけではない。部屋の窓も塵や埃がこびりつき、ぬぐっただけでは取れないだろうものがある。見える風景は灰色で覆われた十二月の風景だ。色を無くした冬の世界は、何も与えてはくれない。
だけど私はここに居るのだ。軽く頭を振ったが、足に地が付かない感覚がぬぐえない。 静実はガラス拭きまで無理だな、とぼんやり考えながら外を見ていた。
「ほらそこ、手がおろそかになっていますよ」
目を宙に漂わせていると、耳には柔らかい声だが、キツイ言葉が返って来た。
「本当に今の若い子はなってない」
注意だけなら従うが、〈今の若い子〉という一括りにされると素直に反省できない自分がいる。
「……ごめんなさい」
「すみませんと言いなさい」
牧瀬静美は介護福祉老人センター〈悟りの園〉に勤務している。急に働かなければならなかったため、ここしか空きはなかった。
もちろん〈ここ〉なんて言える立場ではない。事情はあったにせよ就活に乗り遅れて失敗した静美が悪いのだ。雇ってもらっているだけでありがたい。
「……すみません」
低い天井には茶色い染みがいくつもあり、リノリウムの床は擦れたせいか傷だらけだ。 歩くとゴムが擦れたような音が鳴り、その音で入居者はだいたいわかるようになった。
「冬はインフルエンザが怖いのよ。ノロウィルスも流行っているしね。園内感染に気をつけなきゃって言ってるでしょう。一に掃除、二に掃除。これはスタンダード・プリコーション――標準予防措置策よ」
ホームに在中している看護師さんの怒鳴り声は狭い廊下にこだました。
四人一部屋の入居者さんも聴いているだろうか。静美は少し目を斜め下に向けた。
介護職員初任者研修(ホームヘルパー二級)すら所得していない身では掃除、洗濯、洗い物に話し相手と、ほとんど雑用しか出来ない。今年から衛生面に力を入れるからと安全対策部署専属で静美は雇われた。無資格者が正社員として雇われるのは初めてらしい。本来はパートで賄われる仕事を福利厚生つきで働けるのだからありがたい。
でもその分、静美は周囲の派遣で働く人達から少し浮いていた。
「裏側は特に丁寧に拭いてね。この前の人なんか見える所だけだったんだから」
「……はい」
廊下には蛍光灯が二本、ついている。根元が少し黒くなっているから切れる前に替えなきゃいけない。怒られながら静美は違うことを考えていた。
高校の卒業から随分時間が経った気がする。
春に向かって全力疾走しているような感はもう味わえない。自分だけ道が外れてしまった。夏休みに友人から海に誘われたが仕事で断った。花火大会も断ったし、お茶会も遠慮した。
たった独り、社会人になってしまったという事実にまだ慣れない。働いて、働いて、働いてお金を稼ぐ。当たり前のことなのに友達からは声を掛けてもらえなくなった。
孤独と言ってしまえば簡単だが、見捨てられて置いていかれたという感が強い。友達は遠くに行ってしまった気がする。彼女達は高校から大学に場所を移し、学び、一人前になるために時間を使っている。でも静美は違う。独りで先に大人にならなければいけないのだ。それも急いで。
高卒で働くことが嫌なんじゃない。集団の中からはみ出した不安と緊張が嫌だ。親の仕事さえ上手く行っていたら、と考える自分に自己嫌悪を感じる。
今ごろ、響は何をしているだろう。
「お嬢ちゃん、お嬢ちゃん」
その時、静美はか細いがしっかりした声で呼ばれた。
振り返ると薄い黄色のパジャマに茶色いショール姿のお婆さんがいた。このホームの入居者だろう。お婆さんというより品の良い老婦人と呼ぶのが似合っていた。
「なんでしょうか?」
静美が聞き返すと、お婆さんは手招きをし、にこにこと笑いかけて来る。
「怒られて大変やねえ。おきばりや。ほら、ええもんあげるよってねえ」
とろけるような声と目で、暗に手を出すように言っているようだった。彼女の右手には何か握られていた。
看護師は後ろで困ったようにため息をついている。
「ほらほら手ぇ出して」
「あ、はい」
静美は持っていた雑巾と消毒剤をバケツ近くに置き、手袋を脱いだ。そしてお婆さんの前に両手を差し出す。
「ご褒美やで」
大切そうに彼女は静美の掌の真ん中に、ころんと乗せた。
乾いて臭わないが、その色と形には独特のものがあった。
◆
空はもう星も見えない。澱んだ雲が夜の色を隠している。静美は時計を見た。五時五十五分だ。明日は早番なので今日は早めにあがらせてもらった。
施設の中で一番若いのに、一番疲れている気がする。見るもの触れるものが、学生時代と違い過ぎているせいだろうか。今日のお昼の出来事はまだ頭の中に衝撃として残っていた。
「歌さん、親しくなったらその……配るのよ。自分のものを、ね。ミカンでもあげている感じかしら。彼女に悪意はないの」
看護師さんが後で教えてくれた。
「ここの認知症のお年寄りの中では大人しい方よ。いつも微笑んでベッドに座っているだけ。あの癖がなければ良いんだけどねえ。勝手におむつの中に手を突っ込んで……でもあなた見かけより根性あるわ。過去に叫んで放り出す子もいたのよ」
大げさに褒めてくれてはいるが、放り出した気持ちはわかる。
静美は驚いて言葉を失い、強張ってしまっただけだ。
「捨てられたら歌さん落ち込んでね。好意を否定されたと思ったのかしら。食事を取らなくなったの。戻るのに三日かかったわ。認知症があっても傷つくのよ。うん。そこ、理解して接してねっ」看護師さん何度もうなずき、説明をしていた。
「――でも『ね』って言われても」
静美は信号機の前で立ち止まり、夜を見上げた。
看護師さんに褒められたのは嬉しいけれど、気持ちは、悪い。介護の現場に飛び込むだけの度胸がまだなかったのだろう。生と死と汚物まみれの世界は青春の真ん中にいる静美には衝撃的だった。
「だけど歌さんにも若い時はあっただろうしな」
最初から認知症という人はいない。彼女も学生時代があり、友人や仲間と過ごしたはずだ。静美は自分に当てはめて飲み込もうとした。笑い合い、恋をして、少女から女性に。やがて結婚して――。
静美は静かに目を閉じる。
この雲の上に星空はあるのだろうか。
本当に宇宙に続いているのだろうか。
夜の空雲は重く垂れこめていた。静美には何も見えない。遠い遠い空の向こうなんて見えやしない。
やがて信号が青になった。
家路に帰る会社員や学生が、立ち竦む静美の横を速足で通る。誰もが足早やで流れの法則があるようだ。家に待っている人がいるんだろう、と漠然と考え、また思考が巡る。
もう帰る場所のなくなった歌さん。
本当は誰にあげたいのだろう。
夫婦で入居したが、去年に旦那さんが亡くなった。それからこの行為が頻繁に出るようになったのだという。
仲が良くていつも二人でいて、ひとつのものを分け合って食べるような夫婦だったらしい。あなたにあげる、半分こねと寝たきりになった旦那さんの横から離れなかったそうだ。もう意識がない旦那さんの口元におにぎりを持ちずっと待っていた。
旦那さんは歌さんの手から食べることはなかったそうだ。
「……やっぱりあげたいのは旦那さんだろうな。食べて欲しいのはきっとおにぎり」
歌さんの微笑みが離れない。
少女のような無垢さ。人を信じ切っている姿。なのに自分の汚物を配っているという現実。
子供だった時には想像も出来なかった世界がある。そこに来てしまったのだと静美は途方にくれた。働き出してため息が増えた。家族には「やりがいがあるよ」と言っているが、嘘だ。通勤の歩みが毎日遅くなっていた。
「私は、色々なこと知らなさすぎるんだろうな」
ふと見上げると目の前の信号機が点滅を初めている。
進まなきゃ。立ち止まってはいられない。
静美は足早に夜を進んだ。
横断歩道を渡り切ると、信号機を背にし、怒鳴っている男性がいた。携帯電話を耳に充てているのが見えた。
「今さらそんなこと言われても……だから、今はそんな気ないし困る!」
具体的な話はわからないが、噛みつくような、嘆いているような、かなり頭に血が登っているしゃべり方をしている。
「もうかけて来るなっ」
何か嫌なことでもあったのだろうな、と静美は黙って横を通り過ぎようとした。
どこも同じか。
そう思っていたら後ろから声が掛けられた。
「――シジミ?」
静美の名前をそう呼ぶのは一人しかいなかった。
え。
「響?」
たぶん静美は一番逢いたくない姿だった。介護施設からの帰りだから髪はボサボサ、化粧っけのない疲れた顔、くたびれた洋服。今度逢ったら挨拶しようと決心していたが、何も今でなくとも。
「ひ、久しぶり、だよね。卒業式以来」
静美は顔に血が昇ってゆくのを感じた。声が震える。心の準備が出来ていない。
「あ、うん」
響も声を掛けたくせにどこかバツの悪そうな顔をしていた。反射的に名前を呼んでしまったという気がする。振り向かない方が良かったのかも知れないと静美は思った。
「シジミは、その、仕事帰り?」
「うん」
こんな再会望んでいないと思いつつも、幼馴染で初恋の相手――吉永響から話しかけられるのは嬉しい……かもしれない。そっと髪を撫でつけ、服を整える自分がいた。
「響も大学から帰る所?」
「ああ」
信号と外灯で見える。今の響は学校指定の靴を履いていない。制服でもないし、髪を少し伸ばしている。黒のロングダッフルコートにGパンだ。背が高く男臭いのに清潔感が溢れている。そういえば運動部なのに知性的で手先も器用だったっけ。
取り柄のない静美と違う世界に元から住んでいたが、ますますその差が開いている気がした。
「こ、こんばんは、だね」
同じ帰るなら一緒という言葉を静美は飲み込んだ。結果、間の悪い挨拶になってしまった。
子供の時はよく登下校をしたが、思春期になって自然解消してしまった。その事実が重い。
響は単に忙しかったせいだろう。静美が彼から離れたのは部活動で活躍し、取り巻きが増えたからだ。
屈折した気持ちが嫌で身を引いた。大勢の女の子に囲まれる彼を見たくなかった。あれは確か高校一年の今頃だった。二年生が「へええ? あの子が響の幼馴染なんだ」と笑っているのを聞いて逃げた。責められてもいないのに、居辛くなった。最終的にはそれが切っ掛けかも知れない。
それがなくても、きっと一緒に居ることに耐えきれなかっただろうが。
卒業の時に静美は響の二の次、三の次の友達にすぎないと自覚していた。それにこんな姿の女と並びたくないだろうなという卑屈な気持ちも芽生えていた。
それが今、再会するなんて。
「――ん?」
「どうした」
「え。あの、響はバスケットボール好きだったでしょ。大学でもやっていると思っていた。だからまだ六時前だし……部活の日じゃないの?」
高校では、この時間なら体育館だったことがほとんどだった。
大学では違うのだろうか?
そう何げなく思って口にした静美だが、すぐに自分の失敗を悟った。いわゆる〈地雷を踏んだ〉ということだ。響の顔から表情が一瞬で消えた。
静美はしまったと後悔をする。
「あ、いや。その、つまり」
「……バスケは……辞めたよ」
「あ、うん――そうか」
響は心もち目を反らし、車が行き過ぎるのを見ていた。白い吐息が空に溶け消えてゆく。
夏ならばまだ周囲は明るいが、十二月ともなるとヘッドライトが目を射るほど強く見えた。
辞めたよ、という言葉が耳に残る。
静美も同じように道路に目を合わせながら、流れるような車を見た。彼らは急いでどこに行くのだろう。目的地はどこだろう、なんてぼんやり考える。
――目的。
響は誰よりも情熱を注ぎ、自らを磨き輝いていたプレイヤーだった。中・高校時代はほとんどの情熱をバスケにかけていたと言っていい。シュートはもちろんうまかったが、チェストパスやバウンドパスなどチームプレーでも群を抜いていた。
それがなぜ辞めたのか? 台風の日でも自主練するような男子だったのに。
「……そっか」
静美は地面を小さく蹴った。
敷石に覆われた道は乾いた音を立てた。
「響も色々あったんだね」
「ああ、色々」
「そう、色々ね」
言葉遊びのような会話はしばらく続いた。
以前の静美なら「もったいないよ。頑張れ」とか「どうして? もうちょっとやってみようよ」なんて相手構わずポジティブを口にしたかも知れない。幼馴染という立場で(もちろん口をきいてもらえるかわからないが)ファンとして励まし、激励を送っただろう。
でも仕事で昔より世間を知った〈つもり〉だ。
世の中には触れて良いことと悪いことがある。むやみに人の心に土足で入ってはいけない。親しくとも意見を押し付けることは我儘でしかない。
静美は響の持つそれが、踏み込んではいけない場所にあるのではないかと思った。
大好きなことを辞めるのには理由がある。
響が響として、自分のことを決めたのだ。静美は口を挟む権利はない。安易に口を出して良いはずがない。
「……」
四つ角を曲がると児童公園が目に入った。子供は誰もいない。外灯の下、ブランコだけが軋んだ音を立てている。
「聞かないんだな、理由」
不思議に思ったのか、響の方から静美に振って来た。
「うん。響がそういうのは余程のことだと思うから」
「まあ、そうだけど」
「言いたくなったら言って欲しいな。私で良ければ聞くし、それで気持ちが軽くなることもあると思うし」
静美は響に背を向けた。無意識か足が速くなる。
「じゃあ、待ってるね」
石畳みをデザインされた歩道から風が渡って来るようだ。顔に吹き付けられ、くしゃみが出そうになる。たぶん鼻は真っ赤だ。
もっと話せたら。
話したい。
でも気のきいたことも言えず、また失望させてしまうだけだろう。
今の会話で満足しなきゃ。
嫌われたくない。
嫌われたくない。
静美の中に色々な感情が浮かんでは消えた。好きになるということは臆病になることなのだ。事実、恋愛を自覚した時から静美は響に対して自分から話しかけることを放棄した。誰かに嫉妬を覚える自分が嫌いだった。
高校を卒業し、忘れるために行った山で誓ったこと。あれから考えて出した答えは――ずっと好きでいるためには近づきすぎないこと――だった。
桜が散る。花びらが雫と共に川を目指す。それはいつも一緒にいるのではない。最後の最後に共に歩むから成り立つ幸せなのだ。
誰にでも優しい所、怪我をした後輩を背負っていたのを見た。みんなから好かれる響は私のためにだけいるのではない。
相応しくないと何度唱えただろう。
「……ばいばい」
それに誰より自分は響を知っている。彼は楽な道を選んで進むタイプでない。苦しくても信じる道を行くタイプだ。話を聞くなんてカッコいいことを言ったけれど、響は自分で解決するだろう。なんて恥ずかしいことを口にしてしまったのだ。
静美は足を速めた。
「待てよ。どうせだから一緒に帰ろう」
帰る?
後ろからの声に静美は立ち止まる。途端に動けなくなった。聞き違いだろうか。
とくん、と胸の奥が鳴った。
「私と一緒に――帰ってくれるの?」
「そりゃ同じ道だし」
ああ。
だよね。
静美は納得した。
彼は近所の幼馴染だ。幼稚園はおろか小・中・高と一緒だった。
片思いを自覚して、高校時代の三年間はめったにしゃべることはなかった。
なのになぜ今になって自然に会話ができているのか。
答えは簡単だ。たぶん響の大学生活から静美は遠すぎて、気軽なのだろう。〈同じ大学の友人〉という立ち位置では顔を合わせる頻度も高い。嫌な会話になれば困ったままだ。また地雷を踏めばお互い気まずいまま出会わなければならない。
でも今の静美は響が会おうと思わなければ会わずにすむ距離だ。だからしゃべりやすいのだろう、きっと。
そう考えると今までの緊張がほどけた。
私は――響にとって遠い他人。
「……矛盾だらけだ」
好きでいるために距離を取り、距離を取るから恋愛に発展しない。
「何だよ、シジミ」
「ううん。なんだか響が隣にいるのが不思議な気がして。横に並んだのって中学二年の遠足以来じゃないかな」
「かもな」
静美の横に歩調を合わせて歩いてくれる響。嬉しいのに素直になれない。
百八十センチの響と百五十センチのシジミ。
静美が彼を見上げると、空も一緒に写り込んだ。雲がすべての星を覆い隠した夜だ。暗灰色の乱層雲は以前より厚みを増したように思えた。
冷たい風が刃物のように頬に吹き付けて来る。
「……あれ」
「どうした? シジミ」
響の背中に、はらはらと宙を舞う白い花びらが舞って来た。いや――これは雪だ。
空から細かい雪が流されるように落ちてきている。
「わぁ、初雪だ」
静美は思わず声が出た。そしてつい手を伸ばしてしまう。
「昨日のお昼も降ってたよ」
「ええと、これは私の初雪なのっ」
仕事場から見るものはすべてくすんでおり、気がつかなかった。
介護ホームの仕事は、まだ静美に余裕という言葉を与えてくれるほどではなかった。
「ところでジジミの仕事って証券会社だっけ?」
「ううん」
そこは応募の締め切りが過ぎていた。
「文房具店の事務?」
「違う」
そこは縁故採用がメインで、落ちた。
指摘されてはいないが、公務員試験は倍率が高すぎて静美には無理だった。
「響、受けたとことか、よく私のこと知っているね」
「う~ん。なんか気になって進路指導の先生に聞いた。個人情報とかで詳しくは教えてくれなかったけどな」
「案外気にしていたのは響のおばさんじゃないの?」
ふと言ってみた。
昔から静美の母と響の母は仲が良かった。静美の家の仕事が上手く行かないことを気にかけてくれたのは、たぶんおばさんだ。
「そうだよ」
響はあっさりと認めた。
なんとなく、ほんの少しだけど期待した気持ちがぺちゃんと音を立てた。
静美はまた地面の敷石を蹴る。
冷たい風花が地面に着いた途端、溶けて消えるのが見えた。
雪雲はどうして空を覆いつくすのか。
雨はどうして冬になると凍るのか。
雪はどうしてこんなに冷たいのか。
静美は黙って空を見上げた。
この雪は今夜ひと晩降り続くだろう。葉を落とした街路樹にも屋根にもアスファルトや看板、自動販売機にも降り積もるだろう。
そして街全体を白く染めるのだ。
「俺はシジミならどこに行っても大丈夫だって思っているから心配しなかったぜ」
「――え」
空から響の顔に目を移すと彼は微笑んでいた。見慣れた、暖かい笑顔だった。えくぼがひとつ、浮かんでいる。
それは一番見たいものだった気がした。
「シジミって頑張り屋だろ。それに大人しいけど行動力あったし。ほら、小学校の遠足の時、山寺でお弁当食べた後に木に登って降りられなくなったろ」
「悪ガキ団の時?」
「あそこに足を掛けろとか、枝を手で持てとか下から的確に指示してくれた。俺達パニックだったからすっごくありがたかった。後にも先にもあれほど怖いと思ったことないよ。あの時からしっかりしてたもんな」
「思い出した! 先生にバレて怒られたよね」
「シジミも一緒にな」
「登るのを止めなかったから当然よ」
静美は笑顔を返したが、教えられるまで忘れていた。響が所属していた悪ガキ団は反体制派(?)で、いつも率先して無茶をしていた。静美は見かねてついて回り、世話を焼いていたのだ。
「私、悪ガキ団の一員のつもりだったんだよ」
「一員というよりボスじゃん」
「まさか」
奥手で占いやおまじないに頼ろうとしていた静美にも大胆な子供時代があった。
なぜ忘れてしまったのだろう。あれから八年ほどしか経っていないのに。
降り積もってゆく時間は、何を変えてしまったのだろう。
毎年冬になれば雪が降る。それは景色を変えてしまう。暖かくなれば溶けだすが、心の中の雪はそのままだ。どんどんどんどん降り積もり根雪になる。それが深ければ深いほど固まり、「自分」というものを覆いつくすのかも知れない。
たぶん年を取るということは、そういうことなのだろう。
何かが心に積もり、重なる。溶け残り、固まり、溶け残り、固まる。良くも悪しくもそうして自分が出来上がるのだ。
――歌さんも……
誰かにあげて喜ばれた記憶だけが残っているのだろう。
頭で忘れても忘れても、きっともらった人の笑顔だけが底に残っている。彼女の心にはまだ旦那さんが生きているのだ。旦那さんは歌さんが渡してくれるのを待っているのだ。
「――ほら、ええもんあげるよってねえ」
歌さんは怒られて落ち込む静美にくれた。今まで話すらしたことがない間柄なのに思いやりも一緒にくれた。
静美はちゃんと受け取れただろうか。
いや。
驚きすぎて固まっただけだ。
「――響、肩に雪が」
静美はそっと払い落とした。
自分の縮こまってしまった心と共に払い落とした。
「……ジジミ、時間があったら除夜の鐘でも聞きに行かないか?」
「えっ」
「ほら、あの山寺、確か大晦日に鐘鳴らしていただろ」
「でも……」
静美は響の誘いに静美は携帯で怒鳴り合っていたことを思い出した。あれは確かに喧嘩だった。
もしかしたら友達かも知れない。
もしかしたら彼女かも知れない。
大晦日に遊びに行く約束が不本意に無くなったのだろうか。そうでなければ、急に会った静美を誘うことなんてないだろう。きっと、たまたま出会った幼馴染を使って彼は逃げたのだ。辛い現実から。
「ごめん。もしかして仕事だった?」
「それは、大丈夫。元日は無理だけど、大晦日はお休みもらえるって」
静美は二番手三番手。誰かの代理。
……うん。
だとしてもいい。
いいんだ。
静美はそう思えた。確かに響には何かあったのだろう。でも彼が口にしない限り、わからない。だから目の前にある言葉を信じるしかない。
それに、たとえ逃げであっても何ということはない。自分が守りたい部分は誰もある。歌さんが想い出の中に逃げ込んでいるとしても、悪いとは言わない。
重要なのは、響が静美を単なる幼馴染としか見ていないということだろう。彼の瞳に写る静美はまだ幼い姿をしているようだ。
「もしかして先約あり?」
「……ううん」
まだ子供の静美。小さい静美。
でも朝が来る。夜になる。
巡り巡って始まり終わり、また始まる。
陽は昇り沈み、季節は移り変わる。夏が来て秋になり冬を越し春にたどり着く。
静美は今を生きている。前を向いて歩いている。
そう。重要なのは響を好き。全部ひっくるめて今もまだ好きってことだ。
「行くよ。楽しみだね――突然だけと、嬉しいな」
静美は目を細め、ゆっくり微笑んだ。
街に雪が降り積もる。
風花の舞はいつかの桜に似ていた。
読んでいただきありがとうございました。