3 そして、宣告
海が見える。
潮の香りが風に乗って抜けていく。
借りアパートの三階の窓からの景色。
僕の家だ。水上都市シエトノの、安いアパート。父と二人で暮らしていた。
「色っていうのは、白からの引き算なんだ」
父は手元で作業をしながらそう言った。
幼い僕は父の話を聞くのが好きだった。質問すれば、何でも答えてくれる。
「この世界の全ての色が全部集まったのが白。昼間の太陽の色だ。直視しない方がいいけれどね」
その言葉は、何故海は青いのか、という質問の答えだった。
「その白を分解したのが虹だ。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。この国では七色だけど、区切りがあるわけじゃない。僕らがそういう風に見分けているだけだ。場所によっては虹の色の数は違ったりする。
赤が一番強くて、紫が一番弱い」
「強い?」
「そう、強い。強いというのは、直進できるということ。紫に比べて、赤は真っ直ぐに進む。逆に、紫はすぐに曲がる」
「何で?」
「それは難しい質問だね。そういう光を、人間がそれぞれの色に認識するというか。
紫だから曲がりやすいんじゃなくて、曲がりやすい光を僕らは紫色として見る。そういう風に、目と脳ができてるんだね」
最初に聞いた時はよく分からなかった。
よく分かっていないことを父は分かっていたのだろう。苦笑するように口を曲げる。
「音の高い低いと同じだ。あれは、振動数だけどね。
いや、そうか。光も同じか」
「同じって?」
「低い音っていうのは、強い。太鼓の音は遠くまで届くだろう。つまり、直進しやすい。
光も、音と同じ波のようなものだとすると、散乱しやすさの理由がつく。振動数が少なければ強い、多ければ弱い」
それから父は自分の世界に入ってしまった。呟く言葉は、幼い僕には難しすぎたのか覚えていない。
これは夢だから、覚えていないことは再現されない。
「カスタットさん! カスタットさん!」
僕の名を呼ぶ声。
それを意識したら、もう夢の世界は遠く離れていく。
暗い視界。
目を閉じているから。
僕の名前を呼ぶのは、年配の女性の声。
肩が揺すられる。
「痛い」
目を開き、体を起こすと頭がくらくらした。後頭部が鈍い痛みを訴える。
「カスタットさん! 大丈夫かい!」
「なんとか」
僕を呼びかけていたのは女将さんだった。
あたりを見回すと、何人かの宿泊客が心配そうに僕を見ていた。
その中にキャンディナの姿はない。
「あの、何がどうなってました?」
ひとます女将に聞いてみた。
「何がって。二階に上がったらあんたが倒れてただけだよ。呼びかけても起きないし」
言葉を聞きながら体を確認する。後頭部以外に特に痛みもない。
心配そうな顔の女将に加えて聞く。
「キャンディナさんは? いなかった?」
「え、いや、見てないけど。そう言えば目の前で騒いでるのに出てこないねえ」
女将が視線を向けた扉に、ノックをしてみる。
「キャンディナさん! 無事!?」
何度か繰り返すが返事ない。
ドアノブを回して扉をゆっくり押してみると、鍵がかかっている。
鍵穴は丁度手のひらで隠れていたので、そのまま魔術式を展開、発動。内部を精査して、鍵の形を調べる。
それから、力学系の魔術で錠のピンを動かして、本物の鍵が入った状態を模倣して、解錠。
これも女将の言う貴族の受験者では使えないような実用的な魔術だろう。使えることを知らせない方がいい類の。
鍵が開いていた体を装いながら扉を開けると、部屋には誰もいなかった。
開け放たれた窓からは、夜風が入り込んでいる。
「ちょっとあんた、いったい」
「すみません、急ぐので。お騒がせしました」
女将と廊下に出てきていた宿泊客に頭を下げて、廊下を走り、出口に向かう。
外に出て、月の位置を確かめる。まだそれほど時間は経っていない。
「次は本当に斬られるかな」
あの冒険者が近づいていることに少しも気づけなかった。
前衛系の冒険者ではなかったとはいえ、二等階級の自負が傷つく。
遠くからの奇襲なら魔術士であるこちらに分があるが、対峙してしまえば逆にこちらが不利だろう。
路地裏で使用した魔術は手持ちでは最速の部類に入る。一度見られている以上、アレはもう通じない上に、それ以上の速度の魔術もない。
助けに行く義務はない。誰も咎めないだろう。
しかし、行くべきだと感情が訴えるのだから仕方ない。
月の照らす道を走った。
* *
「無様ですね、横領公爵の娘」
外壁近くの倉庫のひとつの床に、キャンディナは寝かされている。
足首と手首を縛られて満足に動けない状態。手錠の方は魔力を封じる類のものだ。
木箱の上に座っているのは昼に因縁をつけていた貴族の娘。
その横に置かれた携帯用の魔力灯が、橙色の光で倉庫を照らしている。
「見栄えを気にする余裕は、ちょっとないですからね」
キャンディナは地面に頬をつけたまま貴族の娘を見上げて言った。
「冒険者というのは強いですね。何もできなかった」
「それが仕事だからな」
貴族の娘の横に立っていた冒険者が返した。
それを聞いて、雇い主は鼻で笑う。
「路地裏では無様を晒しましたけれどね」
「横槍が思いの外に鋭かったもので」
「横槍?」
「ええ、横槍です」
冒険者の腕がぶれた。
銀色の閃きが走り、入り口のすぐ横の壁に突き立つ。
壁の板を貫いた短剣の切っ先が、外から中の様子を伺っていた僕の頬を掠めた。
気づかれていたようだ。
熱い液体が頬を流れる感覚。反対に冷たい液体が背中を伝う。
「何故ここが分かった?」
冒険者が呼びかける。
確信を持たれている。誰なのかも分かっているのか。
覗き見ることを諦めて、入り口に姿を現してみた。
三者三様の反応。
貴族の娘は僕に対して誰だという表情。
キャンディナは驚いた顔。
冒険者は、不適に笑っていた。
「僕、勘が利くので」
「余所者が迷わずに来れる場所じゃないんだがな」
肩をすくめてみせた。
路地裏の時と同じで、冒険者の靴に粘着性を持たせた僕の魔力を纏わせただけ。気を失う間際に、よくやったものだと自分でも褒めてやりたい。
魔力感覚がある程度鋭敏で、それがあると分かって集中しないと見つけられないだろう。気づかれない魔力量だと、追跡できる時間も短いが。気絶している時間がもう少し長かったら危なかった。
「一応、聞いておきたいんだけど」
状況が動く前に声を出した。
「その子、これからどうする気なの?」
手足を縛られているキャンディナ。
名前は忘れたが名家の娘に恨みを持たれて、こうして捕まって、その次は?
「地方に移動してもらうだけだ」
冒険者が笑う。
平和な言葉に似合わない残酷な笑い方だ。
「へえ、地方に」
「そうだ」
「奴隷商の馬車で?」
「そうだ」
当然といった態度で冒険者が笑いながら頷いた。
その横で、貴族の娘も楽しそうに笑う。
僕もできるなら笑う側に回りたかった。
けれど、そうもいかない。
できるだけ緩やかに魔力を循環させ始める。
「逃げてください」
それを遮るように、キャンディナが言った。
この状況で落ち着いた声音だった。
「助けなんていりません」
「そうは見えないけど」
「助けられる理由がありません」
「その方が正しいね。けど、助ける理由はあるよ」
理解できないといった表情を浮かべられる。
けれどキャンディナの方を見る余裕が無くなる。
冒険者が一歩動いた。
前へ。
こちらに。
「いいな。かっこいいよ、お前」
剣がゆっくりと引き抜かれる。
よく見れば、刀身に複雑な魔術式が刻まれている。
加護付き。
高価なものなのだろう。
魔術式を破壊する魔術式だ。綺麗に刻まれている。刀身のどこからでも手のひらほどの距離が効果範囲だ。
男は不適に笑ったまま。
「実力もあるんだろうな。この都市では見ない顔だが、どこかの三等階級か二等階級の冒険者といったところか」
「よく分かるね」
「見れば分かるさ。後衛の動き方だ、あまり単独では行動したことがないだろう」
「本当に、よく分かるもんだね」
見抜かれている。
冒険者時代は、四人パーティで後衛として動いていた。
男との距離は一五歩ほど。すでにそこまで詰められている。気が付かなかった。
前衛と後衛では、前衛が有利な距離だ。
「退けば斬らない」
最後の警告だろう。
返事の代わりに、魔術式を展開。
相手が走る。
その足元に爆裂の魔術。
男は右に跳ねてかわした。速度を優先したために威力も範囲も弱い。
こちらは左に走る。壁に刺さった短剣を引き抜くことも忘れない。
飛来してきた雷撃が、あらかじめ展開しておいた障壁に弾かれる。
魔術の出処は貴族の娘。
当たり前だ。一対一なわけがない。
だから、こちらの狙いも当然ひとつ。
指先に魔術式を展開。冒険者が意図に気づいてこちらに走る。僕は貴族の娘の方へと走りながら、魔術を撃つ。
ほぼ同時に娘の頭部に着弾。
音速の魔術は貴族の意識をふらつかせる。気絶したのかそのまま崩れ落ちた。路地裏で冒険者に撃った時はわずかな時間怯んだだけだったが、荒事に慣れているわけもない貴族の娘では数分は動けないだろう。
短剣を上に放る。そのままでは倒れた貴族の娘に当たるようにだ。
冒険者は舌打ちして詰めていた距離を放棄、後ろへ下がる。僕を斬ってからでは間に合わないからだ。
短剣が放物線の頂点を超えて落ち始めた位置で、冒険者の男が振るった剣の切っ先に弾かれる。
「詰みだね」
魔術式を展開して、その照準を冒険者、そしてその後ろの貴族の娘に向ける。
前衛冒険者に当たるわけはないが、後ろで動けない雇い主を守るために避けることはできない。
脅しで済ませたいが、それができるほど甘い相手ではない。
だから放つ魔術はすでに決めている。使用者の多い魔術には、耐性の加護を持っている可能性があることを考慮して。
難度のわりに効果が低いが、それゆえに一般的でなく対応されづらい、それはつまり。
氷結の魔術。
空気を凍らせた白い尾を引いて軌跡が描かれる。
速度は視認できるほど遅いが、貴族の娘を移動させて避けられるほどではない。
冒険者に着弾。
高価な防具に減殺されるが、氷結への耐性は無いようだ。
冒険者は体を上手く動かせずに倒れる。低体温は危険だが、前衛系の冒険者であるなら後遺症もないだろう。
「ああ、怖かった」
思わず呟きながら、魔力をさらに練る。
冒険者はほとんど動かないであろう体で口を動かした。
「うまくやられた」
「お荷物がいてくれて良かったよ」
一対一なら確実に負けていた。
「丈夫そうだし、大丈夫だよね」
防具の減殺効果を計算して、もう一度凍結の魔術を使う。
冬眠に近い状態にまで冒険者を落とす。それくらいしないと、また襲われる可能性がある。
「おやすみ」
冒険者の意識が無くなったことを確認して、貴族の娘の方に向かう。
最初の魔術が予想以上の効果で、気絶していた。繊細な感覚なのだろう。
娘の衣服を探ると、分かりやすく外套のポケットに鍵が合った。不用意なことだ。
「さて、待たせたね」
振り返ってキャンディナに声をかける。
彼女は呆然とした表情でこちらを見ていて、それから呆れたように笑った。
子供っぽい笑い方。初めて笑顔を見た。
「貴方、馬鹿ですよ」
「合格したから浮かれてたのかもね」
手錠を外して、足を縛る縄も解いた。
キャンディナはゆっくり体を起こすと、確かめるように手首を動かした。
せっかくなので外した手錠を、気絶している貴族の娘につけなおす。縄も足に縛る。鍵は積まれた木箱の上に置いておいた。
「これくらいしておけば、明日まで大丈夫かな」
「最初からこうしておけばよかったですね」
路地裏で対処が甘かったことがこのトラブルを招いた。
しかし、冒険者でもないキャンディナにそこまで求めるのは難しいだろう。
「都市憲兵に通報しておく?」
「貴方がよければ、やめておきましょう。正面からシンテーシア家と衝突して良いことはありません」
「そう言うなら、僕は構わないよ」
「ありがとう。それだけじゃなくて、その、今回の件、全部」
キャンディナはそう言って頭を下げる。
「助けられる人は助ける。意外にこれが冒険者のマナーだからね」
少なくともシエトノではそうだった。
「だから、気にしなくていいよ。好きになれないなら、それでいいし」
僕がそう言うと、キャンディナは神妙な顔で黙りこんだ。
それからしばらく僕の胸の方に視線を落として、やがてもう一度目が合う。
「すみません。感謝はしていますけれど」
「謝らなくてもいいよ」
肩をすくめて笑ってみせた。
「ただ、宿が一緒だから、帰り道が一緒になることは許して欲しいな」
* *
そして夜が明けた。
僕はずいぶん早く起きたほうだと思うけれど、キャンディナはそれより早く青の三角に向かっていた。
宿を出て朝一で買ったフィル林檎をかじりながら大通りを歩く。
向かうは青の三角。街の中心にある、どこからでも見られる高い塔を目指すだけなので道に迷うこともない。
青の三角は都市の外壁程ではないが高い塀に囲まれていた。その塀は人の背丈の三倍はありそうだ。
名前と受験番号を告げて門を通って、指示された建物に向かう。南から塔を見て右側。面白みのない直方体の形の建物。
諭し舎というらしい。
一階と二階の東側が大きなすり鉢状の講堂となっていて、すでに何人かが座っていた。
適当なところに座って待っていると、段々と席が埋まっていく。僕の両側もやがて埋まった。
さらにしばらく待っていると、やがて講壇に白髪の老人が姿を現した。
見覚えがある。面接の時に、中央に座っていた人物だ。
「ハイレターだ」
誰かが呟いた。
その名前を聞いて驚く。偉い立場の人物だとは思っていたけれど、予想以上に高名な人だ。
ハイレター・ウィン・フォスカイ。
当代の賢者頭。"制圧者"の異名を持つ、最高位の魔術士。
「全員揃っているようだね」
力の入っていない自然体な声が講堂に響き渡った。
これだけで背筋が震える。ハイレター本人によるものか、あるいは講堂に備えられた音響魔術だがなんという精度と技術だ。
遠くのハイレターがこの調子で喋ったところで聞こえるはずがないのに、彼がそこで喋っているような感覚が自然すぎる。だまし絵のような、現実の理屈をねじ曲げるような技術。単純な音の増幅ではない。人が音をどう感じるかという知識と、講堂全員に同じような音を届ける技術。
しかも、その魔術の出処がまったく分からない。魔術式や魔力源が一切の魔力を逃していないからだろう。
周囲の人間はハイレターの登場にばかり興奮している。その気持ちも充分にわかるほどには大物だ。
「ことさらに諸君らのことを賛辞する気はない。祝辞をする気もない。
青の三角に所属することが尊いか、目出度いか、それは諸君ら自身が決めることだからだ。
自分を祝うも褒めるも、天運と感謝するも、当然と自負するも、全て諸君らが行なうべきもので、他者のするものではない。
さて、では伝えねばならないことを伝えよう」
父が食卓で子に語るような口調。
話される言葉は厳しいものだった。
講堂の空気が張り詰める。次の言葉が、その張り詰めた空気を引き裂いた。
「今年の合格者は二一五名。例年よりも少し少ない人数だな。
この合格者、諸君らをこの一年で七人にまで選抜する」
空耳と疑うには、周囲の動揺が大きすぎた。
僕の聞き間違いではないことは、どうやら確かなようだ。