エピローグ
そこは人のいない空間だった。
王都を臨むジャヴィ山。王都の冒険者が一日に数百の単位で挑む規模の深い魔界だ。
道は常に流動し、空間は捻じ曲がって循環路を作ることも珍しくない。一度の探索で巨万の富を掴みうるが、一等階級の冒険者すら簡単に死にうる危険地帯。
その頂には巨人が住むと噂されるが、実際に見たという話は酔っ払いの口以外からはされない。
実際に頂にあるのは巨大な老樹だ。
森林限界も魔界の厳しい生態系も苦にせずに根を山へと張るその大樹の前で、青いローブを纏った者が細い指を幹にそっと触れさせていた。
毛先だけが黒い白髪の下には美しい顔。
「何も問題なかったみたいだよ、古き緑」
樹木に語りかける声は酷く冷徹なものだった。
風にうろが低く共鳴して答えると、青いローブの女性は薄く微笑み、振り返る。
その直後に、女性の視線の先の空間が歪む。
魔界の歪んだ空間でその魔術を使用することは普通自殺行為だが、今回の使用者にそのような心配は無用だった。
歪んだ空間がどこかにつながり、黒髪の少女を転移させた。
あどけない表情があどけない微笑を作り、少女の声が問いかける。
「灲業慲礠扬略?」
それはどこの国のものでもない言葉。
けれど少女の妄想や独創の産物でないことを青いローブの女性は知っていた。
「天才と呼ぶべき者達の中でも格別だね、エルノイ・ウィン・ディアリルム」
「いやあ、お褒めに預かり光栄です。こんなこと初めて思いましたよお。それで、あなたが灲業慲礠扬略で間違いないですかあ? 」
「間違いないよ、ただ」
「ただ?」
「その呼び名はあまり好ましくないかな。語り部、で充分だね。青の語り部と呼ぶ人の方が多いけれど」
「ええ、そちらの名で呼ばれている文献がほとんどでした。あるいは、神の瞳とも」
挑発するようにエルノイは笑って、舞うようにその場でひらりと回転してはしゃいだ。何も答えない語り部を正面に足を止めると、ひときわ明るく笑った。
「この目で見ることになるとは、思っていましたけど、少し感慨深いものですねえ」
エルノイが口許を柔らかく微笑ませる。
青の語り部という存在は少し歴史に詳しいものなら誰でも知っているものだとエルノイは思う。王立図書館の中にすらその記述は六箇所もあった。
けれどその存在は謎でしか無く、人前に出て何をした以外には何も知られていない。
「君は末恐ろしい存在だね」
語り部がエルノイを称える。
「私が会いに行った存在は数知れなくても、私に会いに来た存在は君で四人目だ。長い長い、人の歴史の中でね」
「それが少し気になっていたんですよ。貴女はどうして私に会いに来ないのかな、って。物語の蒐集があなたの役目で、私は珍しい物語を生きているのにですよ?」
エルノイの子供のような瞳が語り部の姿を映している。
そこに恐怖も畏怖もない。
人の歴史に古くから登場する超常的な存在も、好奇心の対象でしかなかった。
刹那ほどの時間にエルノイは何度も観測魔術を使っている。その魔術は語り部の周囲で弾かれて消え、その存在の詳細はまるで分からない。
だからこそ面白いのだとエルノイは笑う。
「わざわざ会いに来てくれたのなら、答えてあげたくもなるんだけどね」
エルノイの疑問に語り部は微笑み返す。
「答えられないのが、私が君に興味が無い理由なんだ」
「答えられないんですね? 答えたくないのではなくて」
「それは、自由意志を持っていると錯覚しているものに使うべき問いだよ。私にとっては後者は存在しないか、前者と同じ意味だ」
「世界の仕組みを知ろうとしているからですかあ?」
エルノイの主語の無い問いに、語り部は微笑むだけ。
応えるようにエルノイは瞳に理解の光を灯す。
「だから、貴女は青の三角に近づかないんですね?」
「停止の魔女という危険な存在を警戒するために、私が来ると予想したのは鋭い予測だよ。そのためにカスタット・ポゥを遣わせて、また、第三王子に協力したことも、流石だ。本当は、昨年に君が取り巻きを使って孤立させたミーティクル・ウィン・キャンディナを停止の魔女が信頼を寄せる人物に仕立てあげるつもりだったんだろうけど」
「やっぱりお見通しなんですね」
フィユの魔女の資質、発現する魔法が停止だということを知った時から魔女化させることは考えていた。
停止の魔法は、エルノイが考える限りでは最悪の魔法のひとつだ。
この魔女の発現の前後にならずっと追っていた青の語り部が現れると予想をたてて、フィユの魔女化の時期を誘導した。それから自分に出来る限りの観測魔術を使ったが語り部の居場所は分からず、単純な推理でこのジャヴィ山の山頂を張っていて、ようやく会うことができた。
そしてようやく会えた語り部は、やはり異質だ。
観測できず、その心の中も分からない。心が本当に存在するのかも、存在するとして人類と同質のものなのかも、何もかも分からない。
歴史が動く影に現れ、時代の寵児や忌子を導く存在。
人類や魔物などよりも上位の存在なのだとエルノイは予測している。
「カスタットさんがあそこまで交友を深めるとは思わなかったですからね。そこだけは計算違いでした」
「君は、彼についてはずいぶんと予測が甘くなるようだね」
「あまり考えないようにしているんです。カスタットさんのことは」
何故か、とは語り部は問わない。
答えなくても語り部が知っていることを、エルノイは知っている。
語る必要はないのだ。
ただ、エルノイは語り部を見たかっただけ。
そのためにフィユを犠牲にしてでも。
「世界を物語る貴女が存在するということは、世界は物語られるために存在しているということの証明です」
「飛躍した論理だね」
「ですね、けれど確信があります」
語り部はじっとエルノイを見てから、ふっと息を吐く。
「あまり、こちらに興味を持たないほうがいいよ」
「ええ、気をつけますね」
「警告は一度だよ」
唐突に語り部が消える。
魔術などではなかった。
思い出したように山頂を削る風が吹いてエルノイの黒い髪を乱す。
「本当に、私の予測はよく当たりますねえ」
その口調は彼女には珍しく、何かを嘆くような倦怠感の色が混ざっていた。
* *
あの頭がおかしくなりそうな日々が嘘だったかのように時はあっさりと流れた。
ルルティアは研究室に復帰し、僕とアテラもチャイム研究室で頭ばかりを使う生活に帰ってきた。
難しい名目で王国から渡された口止め料はほとんどがカリヴァ達への報酬に消えた。借金をすることにならなかったのは幸いだ。
寒い冬が過ぎて、暖かい日が現れては去っていくようになった冬と春の狭間。年の終わりの忙しい時期に、僕は究め舎の最上階にいた。
曇り硝子の窓がぼんやりと昼の光を透かす部屋の中央で、青の三角の賢者頭、ハイレターが安楽椅子に座っている。一年に一度の面談とのことだ。去年の進学の意思確認を思い出す。
白髭を蓄えた口元がわずかに動いて、老人の疲れた声が、けれどはっきりと聞き取りやすく呟く。
「今年の赤の学年の主席は、八六階だったそうだ。昨年に比べると、ささやかな数だな」
そう言われれば、赤の学生達の七選が決まる時期だと思い出す。
僕の階数が八一だったことを考えると確かに物足りないような気もする。エルノイの二〇〇階が別格だとしても、フェルターは九十を超えていたし、ミーティクルは確か百十三階だったはずだ。
「まあ、それも仕方がない。平均から離れるほど、値は安定しないものだ」
「統計の話でしょうか」
「いいや、原理だ」
ハイレターは短く答えると、何かおかしかったのか薄く笑った。
それから鋭い視線で僕を睨む。
「さて、カスタット・ポゥさん」
はい、と答えたつもりだったが、緊張のせいでよく分からない音が出た。
気にせずにハイレターが続ける。
「あなたは、先日にレドウッドの塔に上り、一三二階まで辿り着きましたね」
「はい」 今度は綺麗に発声できた。
「大きな経験をして、志が変わることもあると思いましたが、あなたの第一目標は変わらず塔の制覇のようですね」
その言葉に頷く。
大きな経験というのはフィユのことだろう。
確かに思うところは多かったが、僕がフィユを選ばなかったのはまだ青の三角で勉強したかったから。それは、塔を上りきるためだ。
「そこが、エルノイ・ウィン・ディアリルムから特別な関心を得る理由なのでしょうね」
どういうことか尋ねたかったが、ハイレターは質問を拒絶するような雰囲気を纏っていて、何も言えない。あるいはただの錯覚かもしれないが、賢者頭と会話するだけでも畏れ多いものがあるのも事実だ。
ハイレターがじっと目を閉じると、深い森のような静けさが満ちた。耳鳴りのようなものがして、唾を飲み込むのもためらってしまう。
やがてハイレターはため息を吐いて目を開く。
「妙な勘違いで計算を間違えても困りますから、一応話しておきますが、二百階を上っても青の三角の塔を制覇はできません。エルノイ・ウィン・ディアリルムを見て、そのような勘違いをしないように」
そのような勘違いをしていたので驚く。
確かに、誰もそんなことを言ってはいなかったのに、勝手にそこが最上階なのだろうと考えていた。
「あれを制覇できる人間は少ない」 ハイレターが告げる。「君の学生生活の、ほとんど全てを捧げなければならないだろう。そして、それを誰も強制はしない。ただ、個が個の欲求に従うだけだ」
その言葉が最後だった。
手で退出を促され、それに従う。
究め舎を出て敷地を歩く。春先の少し埃っぽい風が抜けていく先で、宿り舎から出ていく赤の学年の人間が何人か見えた。
七選に選ばれなければ去らなければならない。
数少ないその枠に選ばれたのに、フィユは学生を続けることがかなわなかった。
運が、めぐり合わせが悪かったのか。
力が無かったことが悪かったのか。
誰もが好きに振る舞えないのに、誰もがそれぞれに欲求を持つ。
その人間の機構が悪かったのか。
まるで臣神教のような考え方だな、と気がついて苦笑する。
僕の考える事など、誰かが先に考えていて、それらしい答えが出ている。どうせ全ては無駄である、という臣神教の言葉は、こういう時に人を救うのだろう。
けれど救われたいわけではない。
「悩むのは、悩みたいから」
いつか誰かに言われた言葉を繰り返す。
それはきっと正しい言葉だ。
僕がうだうだと悩んでいるのは、きっと、それを悩むほど大事なことだと思いたいからだ。
その下らない感傷が、しかし、失くしてはいけないものだ。
根拠も何もないけれど、そんな確信はあった。