11 けれど悪夢が犯す時
永遠のように長い空白。
いつからだろうか、と考えている自分に気づいた。
どこまでも続く白い空間。
あるいは手を伸ばせば壁に触れるかもしれない。
手?
手なんてない。
ただ、白い世界と、観測する存在があるだけ。
形はない。
重みもない。
ぼんやりと意識が煙のようにとりとめない。
いつから存在しているのだろうか。
それを、いつから考えているのだろうか。
永遠ほど昔から考えているようにも、今考え始めたばかりのようにも思える。
何を覚えているのか。
思考の何処かがそれを考えた。
黒髪の男の人がいた。
穏やかな笑顔を浮かべている。
救われていた。
その瞳は、私を見ていたから。
その声は、私と会話するために発せられていたから。
私という女性ではなく、私を認識していたから。
なんて素敵な人だろうと思っていた。そのことを思い出す。
そうだ。
私はその人が好きだった。
男なんてみんな嫌いだったのに。
気持ちの悪い瞳。
私の顔と、胸や腰や、首元、露出した肌を獣のように見て。
性欲に汚れ、緩んだ顔に変わる。
駄目だ。
そうだ、記憶が呼び戻される。
たくさんの人が私を見ている。
気持ちの悪い笑顔で。
醜悪な視線で。
精神を侵されて。
肉体も犯されて。
荒い息が気持ち悪い。
打ち付けられる体が気持ち悪い。
こもった熱が気持ち悪い。
痛みが気持ち悪い。
声が気持ち悪い。
何もかもが不快で、卑しく、その中心に私がいた。
誰よりも卑しく、汚れているから。
嫌だ。
嫌だ。
全部嫌だ。
逃げたくて逃げたくて。
ここはどこだ?
私は、フィユ・ウィン・シュヴァイツェルだ。
そうだ。
それを思い出した。
意識が徐々に覚醒する。
私が、私の形を思い出す。その形に重みが降り積もる。
カスタットさんの声を聞いたような気がした。
今はいつだ?
私はどこにいる?
どうなっている?
浮かんでくる疑問は、頭のなかで反響して、頭があることを知る。
体の感覚がゆっくりと帰ってくる。
荒い息を聞く。
それは私のものではない。
滲んでいた意識が、急速に輪郭を取り戻す。
「お、なんだ、気がついたのか」
目の前にあったのは、男の顔をした何か。
それの口がおかしそうに歪む。
「おいおいおい、すげえな。あの小僧が来たおかげだってのか? これが愛の力だって?」
抑えきれないように笑い出す男の顔は、真っ黒に潰れて見えない。口元だけが気持ち悪い笑顔を浮かべている。
誰だ?
誰でもいい。
「放して」
喉からかすれる声が漏れる。
それを聞いたのか、男の口元が歪む。
獣のような笑い声が部屋に響いた。
「愛の力ってのもいいもんだな。これでお前の声を聞ける」
「あなたは誰? いいから放して」
「ああ、記憶が飛んでんのか? なんかそんな可能性があるって言ってたが、そうか、俺の存在も忘れてんのか。おかしいな、あんなに刻んだろう?」
男の大きな手が私の顔を掴んだ。
無理やり瞼を開かされて、瞳を男が舐めた。
鼓動が痛い。
息ができない。
「また刻めると考えればいいのか? 最初ってのは気持ちいいからな。誰も踏み荒らしてない積雪を荒らすようなものだ。俺はあれが好きだった。綺麗なものを汚すってのはどうして楽しいんだろうな」
違う。
もう思い出している。
この男のことは。
フォーシアル。
第一王子。
私を汚した獣。
「嫌だ」
声は出たのだろうか。
頭は灼熱に燃えるように、白に染まる。
悪寒は胸に爪を立てて引き裂く。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ」
頭が痛い。
記憶が蘇り、過去に見たものを視界に焼き付け、聞いた声がうるさいくらいに頭に響く。
熱い。
寒い。
明滅する視界。
白く。
赤く。
経絡が痛む。
血管が疼く。
視界の中で男が動く。
気持ち悪い。
みんな、全部、気持ち悪い。
何も見たくない。
何も聞きたくない。
何も私に干渉するな。
触れるな。
全部、全部、全部、
「動くな」
呟き、世界が遠ざかる。
* *
静かな朝だ。
目覚めて、妙な寒さに体が震えた。
高級な布団にもぐりこんで、体を少しずつ動かしていく。
まったく寝心地がいい。他人の金で泊まっていると思うとさらに気分がよかった。
体を動かしていると意識もはっきりしてくる。
すると違和感に気づく。
静かなのはいい。高級な宿屋は朝の準備も静かに行うものだ。
けれど往来を行く人の気配すらない。
鳥のさえずりすら聞こえないのはおかしい。
跳ね起きて周囲を見る。床に落ちた布団の向こうに、アテラが眠っているベッドがあった。
そこに寝ているべき人物はいない。少し乱れたまま。触ってみると体温は残っていなかった。
窓に近づき雨戸を開ける。早朝の空の、目の覚めるような青色が目に入る。三階からの景色には、人がひとりもいなかった。王都でそれはあり得ない。
急いで着替え、部屋の外に出る。
廊下にも受付にも誰もいない。
無礼を承知で厨房の中にまで入ると、ようやく人の姿を見た。
料理の下ごしらえをしているのだろう。鍋の上でナイフと野菜を持っている。
「あの、すみません」
声をかけて、ぞっと背筋が凍る。
その料理人は退屈そうに手元を睨んだまま、少しも動かない。
握ったナイフも、瞬きも、呼吸による胸の膨らみもなく、まるで人形のように止まっている。
「あの」
触れると、彫像のように硬い。温度は分からなかった。
夢か?
けれど、夢ではない現実感。
受付の奥へと入ると、主人と思われる人物が帳簿に何かを書き込んでいた。この人も同じように止まっている。
何が何だか分からない。
外に出て走る。どの家も扉を閉している。
「誰かいませんか!」
大声で叫ぶが返事はない。
叫び続けながら走っていると、道の先に人影があった。
「あの、すみません!」
大声で呼びかけながら近づくが反応はない。
嫌な予感があって、それは的中した。
彼らも宿屋の人と同じように彫像のごとく固まっていた。
武装をした憲兵だ。魔力灯を持っているところを見ると夜回りの途中だったのだろうか。
「くそ、何がどうなってる?」
意味が分からないことの多い年だったが、今回のは格別だ。
途方に暮れて空を見る。
全て止まった街で、雲だけがゆっくりと移動していた。
状況を整理しなければならない。
まず、生き物は全て固まっている。僕を除いた人間や、馬小屋にいた馬に、わらに潜んでいた羽虫、物陰を歩いていた野良猫も。見たかぎりの生き物全てが彫像のように固まっている。
すでに事態を整理する気力がなくなってくる。
わけが分からない。
ただ、風がないことにも気がついていた。
手で扇げば風は起こる。空気まで固まったわけではない。
雲が動いていることは上空にも風はあるのか。
観測魔術を発動する。
すると、不思議な事が分かった。
風がぴたりと止まっているのは、王都を包む半球状の範囲だけ。
そして、その範囲で動くものは観測できなかった。
「いやいや、ええ?」
間抜けな声を出して気持ちを落ち着ける。
こんなことがあり得るのか? 魔術ではあり得ない。
「まさか」
魔術ではあり得ないことに、心当たりはひとつしかなかった。
* *
割れるような頭痛で意識が覚めた。
真上には青い空。体を起こすと草原が広がっていた。
頭を押さえながら薬を取りだす。副作用の強いものだがこの痛みのほうが耐えられない。
丸薬を噛み砕いて、唾で飲み込み、舌打ち。苦い味もそうだが、カスタットを連れ出せなかったことに苛立つ。
この辺りは少し高い丘のようで、遠くに王都の全景が見えた。
少し注意深く見ると、半球状にわずかな歪みが見える。
夜に吠える狼のような悲しさと恐ろしさの混じったような音が、頭のなかで鳴り響く。
それは王都の方から聞こえる、俺にしか聞こえない音に似た何かだ。
「危機一髪ってところだね」
声は後ろから。
気が付かなかった。
驚いて振り向くと、そこには黄色いケープを着た少女が後ろで手を組み、小首を傾げていた。
その横に、無愛想を顔に貼り付けた男が寄り添っている。親子ほどの年齢差に見えるが、男の方が従者なのだと不思議と分かる。
「あんたは?」
「名前は言わないでおこうかな。それより、厄介なことになったね。逃げ出せたのはボクと君だけだ」
少女は厄介な様子を微塵も見せずに微笑んで、手をかざし王都の方を見た。
「あれから逃げ出せたのは、ボクにしてもよくやったと思うのだけど、君はどうやって?」
「別に、やばそうだったから、逃げただけだ」
真夜中にうるさい六感に目を覚まし、慌てて空間跳躍を行った。
隣のベッドで寝ているカスタットを連れて行く余裕もなかった。それくらいに嫌な危機感を煽る音だった。
案の定、空間跳躍の直後には都市に異常が起きていたことまでは、気絶する前に確認している。
六感への強すぎる刺激と、短時間で無茶な空間跳躍をしたことで気を失ってしまった。迷い出ている魔物や、野盗の類に出会わずに良かった。
そこで思考が少女のことに及ぶ。
あそこから逃げ出すには、あの異常に気がつく六感と、空間跳躍のような瞬時の移動手段が使えなければならない。
どうやったのだろうか。
その疑問に答えるように、少女は隣の男の肩を叩いてみせた。
「これがすごい優秀でね。空間跳躍持ちなんだ。魔術士に持たせたい技能でも抜群だよね。お兄さんも、ボクの下で働く気があるなら歓迎するよ? 良い六感持ちみたいだし」
「遠慮しておく。それよりあんた、俺と違って起きてたんだろ? どうなっているのか少しは分かるか?」
「分かると言えば分かるけど、教える義理はないかな」
「あんた、賢しき鼠か」
不意に黄色いケープの少女、という言葉と伝説の情報屋との繋がりをカスタットが話していたことを思い出した。
少女は薄く微笑む。
「おしゃべりな後輩を持ってるみたいだね」
「俺と同じように気絶してたわけじゃないんだろ? わざわざここにいたのは、何か俺に聞きたいことがあるからじゃないのか?」
「その通り」
満足そうに少女が二度頷く。
これが賢しき鼠というなら会話自体が貴重な経験だが、今はそれはどうでもいい。
こちらに敵対する意志がないなら、伝説の情報屋はただの便利な情報通だ。
「アテラ・ウェイズ」
俺の名前を少女が読んだ。
正体が明らかな今、彼女が知っていても不思議ではない。
「概念界を捉える希少な六感持ちなら、王都で起こったこともある程度は分かるはずだよね」
「教えてもいいが、見返りは」
「ボクが今回のことで分かっていることで、君の知らないことを教えてあげる」
「つまりは情報の共有か」
「普通はしないよ。それだけ君が特異なんだ」
賢しき鼠が微笑む。
特異だということは自覚していた。
特異なだけで情報通ではない。互いに利のある条件に思えたので了承する
「あれが魔女の発現によるものだ」
まず、全ての前提を少女に告げた。
* *
魔法によるものか、と考えれば一人の少女を連想する。
時間が止まっているのか、と考えると不自然なことが多い。そもそも何故僕だけが動いている?
僕だけが動いているということを考えると、やはりこれはフィユが起こしたことのような気がした。
だから、足の向かう先は王都の外側ではなく、中心。
フィユの眠っていた王城だ。
音のない世界を歩く。
妙に世界が遠く感じた。
音というものがいかに大事か。
失くすとその大きさがよく分かるものは多い。
当たり前にあるものを人は意識しない。全て意識していたらきっと疲れるから。
それは人の機能だ。
好きなように生きているのも、本当ならばどれだけ有り難いことだろう。
非人に生まれていたら奴隷としか生きられず、王国の名家に生まれていたら生き方を縛られる。
平民の大半は毎日を生きるのに必死で、選択肢などほとんどない。
道楽のように青の三角に通っている僕はありえないくらいに贅沢だ。才能も過分なほどに与えられていた。海底遺跡という博打のような探索に成功する運もあった。
もし仮に、王国が僕を殺すのだとしても、それは幸福の釣り合いを取っただけなのかもしれない。
とりとめのないことを思いながら王城への大路を歩いていると、その途中で驚く物が見えた。
目の高さより少し上で、木から離れた葉っぱが浮いている。いや、浮いているというのだろうか、見えない壁に縫い付けたように空中でぴたりと静止していて、落ちる気配がない。
これは、どういうことか。
人が固まるよりも不思議だ。物が落ちるのは自然の摂理で、それを無視した光景。
まるで時間が停まったようだ。
僕だけが動いている。
けれどそれはあり得ない。僕の視界に木の葉が映っているということは、その光は動いている。呼吸もできる。
その葉っぱに触れようと手を伸ばすと、糸が切れたように葉っぱが落ちた。それを拾って調べるが何も変わったことはなかった。
「頭が悪いのか、固いのか、どっちかな」
首を振って自嘲を追い出す。
考えることをやめる意味はない。
堀にかかる橋を渡り始める。先には王城の大きな門が見えた。
堀に張られた水を見れば、凍ったように流れを止めていたが、霜のひとつも張っておらず水底を透き通している。
見ても仕方がないと視線を切って橋を更に進む。
* *
「あれはフィユの魔女の気配だ。もともと自殺をするくらいに精神が不安定な状況だったんだ。目覚めたなら魔女を発現しても不思議じゃない」
半球状に歪んだ王都の方を眺めながら観測できることを黄色いケープの少女に話す。
少女は微笑んだまま頷く。
「彼女にかけられた呪術も解かれていないままだったし、けど、だからこそ王城には重要人物が集まっていたはずだよ。神雷と加速の魔女に、天元級冒険者のトリスティリア・レッドドーゴル、シゼ家のオドラと、彼の精鋭。この大陸で一二を争うくらいに戦力が揃っていた」
「俺には戦闘のことは分からないが、フィユを魔女化させようとしていたのだから、それらは充分な戦力なんだろうな。それこそ、発現したのが加速や神雷といったものなら制御できていたのかもしれない。けど」
たった一人で自分以外の魔女を王国に従わせる神雷の魔女という前例がある以上、多少の突出した戦力の存在は王国も考慮していたはず。
王族一人一人も、大陸の最高峰の職人達が作った装備を纏い、剣のアルフォンス家の正当剣術を学んだ相当な実力者だ。
フィユの魔女が発現したとして、逆らえるものではない。
けれど。
「多分、あんな魔法を持つことになるとは思わなかったんだろうな」
俺の言葉に少女は首を傾げた。
「あなたの六感は知ってるつもりだったけど、そんなことまで分かるんだ」
「会ったこともない人間に自分のことを知られてるとぞっとするな。だが、何となくにしか分からないぞ。そもそも六感なんてなんとなくにしか分からないが。あの魔法は、現象を述べるなら、物の動きを止めるんだ。生物も物体も関係なく」
「停止の魔女だね。これは、また珍しい」
「過去にそういう魔女がいたのか?」
「魔女も竜も本質は似たようなものだからね。同じ【■■■■】を持つ魔女というのは歴史上に何人もいる。同時代に同じ魔法を使う魔女の存在だって四例もあるくらいだからね」
少女が、どこで知ったのかも分からないような情報を話す。
聞き取れもしなかった言葉はいいとして、同じ魔法を使う魔女など聞いたこともない。
停止の魔女という名前にも心当たりはなかった。
「王暦になった翌年だったから、だいたい八百年前だね。その頃に三日だけ発現して以来だよ、停止の魔女というのは」
「そんな昔の記録が残っているのか」
「疑うなら疑えばいいけど、賢しき鼠は嘘をつかないよ。それだけが誇りで、誓約でもある」
「どっちでもいいさ。とにかく、あれは世界が停止した状態だ。停まっていないのは光くらいか。その魔法と、魔女の気配がうるさくて都市の中のことは分からん」
「それが分かるだけですごいことさ。うんうん、これは王族達も大誤算だろうね。ああいう馬鹿はあんまり好きじゃないから、いい気味だ」
少女は楽しそうに息を漏らして笑うと、不意に真面目な顔になった。
「それじゃあボクは行くけど、何か知りたいことはあるかい? 大抵のことなら代償として教えてあげるよ」
いくつかの疑問が浮かび、何を問うか悩んだ。
そして口にしたのはこの数年ひそかに噂される疑念。
「国王のくせにネアルモートが今回の件で動いたという話を聞かないが、あれは健康に王として動いているのか?」
五十何代かの国王ネアルモートが、不思議なほど今回のフィユの事態に関与した様子が無い。そもそも王位継承直後の無茶苦茶ともいえる過激な政策も最近は聞かず、北方戦線に対して派手な勅命もない。
死んだのではないか、というのが少し王族に明るい人間の間の噂だった。
「死んではいないよ」
それを少女は否定した。それから、けれど、と繋げる。
「政務を行える状態ではないよ。死にかけっていうのかな。意識も朦朧としていて、最近は第一王子が王権を代行することが多いくらいだ」
「よりによってか」
「さあ。どう評するかは人によるだろうね。それじゃあ、またどこかで」
少女の横に控えていた男が、複雑な魔術式を一瞬で空中に描く。
大した腕だ。空間跳躍の入口が開いて、二人はその中へ消えていった。
賢しき鼠の噂を聞く際によく話に出てくるトビ鼠とかいう護衛役なのだろうか。しかし、今はどうでもいい。
それよりもこれから自分はどうするか、と考えて、一度青の三角に戻ることにした。
これだけの異常事態なら、何が起こったのかの情報は報告する必要があるだろう。
吐きそうなくらいの痛みはあったが少し無理をして魔術式を描き、青の三角への跳躍航路を開く。前回の跳躍からずいぶん時間も立っていたので航路は落ち着いていた。賢しき鼠の少女達の使用した航路も近くなかったようだ。これならいける。
開いた空間に踏み出す。浮遊感か落下感か分からない不思議な感覚。高次元に干渉しているせいで六感がうるさい。馬鹿みたいに高い軋みと、地獄の叫びのような低い唸りが鼓膜を破らんと鳴る。
六感は便利なことも多いが、厄介なことも同様に多い。カスタットも、六感に目覚めないほうが幸せかもしれないな、と何となく考える。
それはつまり、あの停止した王都からカスタットが無事に帰ってくると予想しているからだと気づいて、少し驚く。ずいぶん楽観的だ。こんな人間ではなかった。
視界はいつの間にか青の三角の敷地に変わっていた。
針を十本はまとめて刺したような頭痛をこらえながら究め舎に向かう。
まずはチャイムとシンディアに話を通さねばならない。
他に誰がいるだろうか、と痛む頭で考える。賢者に対してはチャイム達が考えてくれるだろう。学生の方はカスタットの交友関係から考えなければならない。あの商家の息子の他に交友のある人物はいるのか。
そんなことを考えていたら、鈴の音が鳴るような静かで澄んだ音。
ぞくりとする。それは、起きた規模からすれば考えられないほど静かな音だ。
黒い髪の少女が目の前に現れていた。
穏やかに微笑む瞳がこちらを見ている。循環する魔力の気配も静かだ。今まさに空間転移をしてきたとは思えないくらいに。
エルノイ・ウィン・ディアリルムは、子供のようにあどけなく微笑んだまま告げた。
「残念ですが、その順当な判断は都合が悪いんですよね」
一瞬だけ硝子をこすったような音。
六感でだけエルノイが魔術式を展開したことを察知する。早すぎる。目では追えない。以前よりもさらに早い。
対処は間に合わないだろうという諦めだけが間に合った。
精神感応を遮断する魔術式を思い出している途中で、意識は急速にぼやけて、消える。
* *
固まった衛兵の肩を軽くねぎらうように叩くくらいにはこの状況に慣れてきた。
それが起きたのが深夜だったためか、燭台には火が灯されていた。炎が揺らいだまま止まっているのは何度見ても不思議な光景だ。触れようとすると思い出したように火が動き出し、熱さに手を引く。
魔力灯も光ったまま。昼前で外からの光だけでも充分に明るいため、あまり意味があるようには思えない。
どこに行くべきか、と考えればやはりフィユが寝ていた部屋だろう。王城を勝手に歩くのは少し緊張したがすぐに慣れた。
足音だけが響く廊下に、ふいに別の音が不協和音を鳴らした。
すすり泣きだ。
すすり泣きだけでも、その声には聞き覚えがあった。
懐かしく、聞くだけで心が痛くなる。
その人物が眠っていた部屋の前に立ち止まる。ノックに掲げた手が迷う。
けれど進むしかない。
扉を軽く叩くと、音が廊下に響いた。それに遠慮したように泣き声が静まる。
返事はなかったが扉を開いた。
生臭い。
嫌な臭いだ。
「……ット、さん?」
名前を呼ばれて、心臓が痛い。
ぞわりと産毛が逆立つ。内蔵に氷を当てたような冷たさ。
「ずいぶん久しぶりな気がするね」
僕の言葉に、フィユは寂しそうに目を伏せて首を振った。
部屋の中央のベッドの上。シーツを纏うフィユの髪は乱れて、泣き腫らした瞳さえ妖艶に思える。
服を着ていないのか、むき出しの細い肩の肌色に背筋が震えた。
誰もが夢中になるのも分かる。普段の彼女が、どれだけこれを抑えていたのかも。
抑えられないということは、つまり、余裕がないのだろう。
その原因は、ベッドの傍の床に散らばっていた。
見覚えのある豪華な服と肉片が転がっている。
「それ、苦労したんですよ」
解けた課題を自慢するような口調で、けれど疲れを隠せない声でフィユが言った。
「加護のせいでしょうか。全然、斬れなくて、私、魔術も使えなくなっているみたいですし」
何十本もの剣や斧が乱雑に落ちていることに気づいた。どれも刃が歪んでいる。少女の力でそこまでするのに、何度打ち付ければいいのか。狂気を感じる光景だ。
その中心で横たわる死体から、ようやく顔を見つけて、見開かれた山羊のような瞳を見て正体を確信した。
やはりフォーシアルだった。
幼子が見よう見まねで包丁を使ったかのような汚い切り口で、体だったものが大きく八つに分かれている。
赤黒い血の池は、部屋の入口近くまで縁を伸ばしていた。
「カスタットさん、私、魔女になってしまいました。すごいです、今は、色々と分かります。【■■■■】も、自分の魔法の使い方も」
静かな声。
フィユはシーツを羽織ったまま床に足をつけて立ち上がった。
白い足やシーツが血に汚れると思ったが、床に溜まった血は凍っているかのように固まっていた。
王族の死体を道に落ちている石かのように気にもとめずにフィユが近づく。
床に引きずられたシーツが少しずつはだけて、白い肌が露わになっていく。
「ねえ、カスタットさん」
囁くようなかすれ声。
思わず、一歩後ろに逃げていた。
「どうして逃げるんですか?」
甘い声だ。
幼子がねだるような。
娼婦が誘うような。
体をわずかに隠すシーツが、裸よりも艶めかしい。
瞳孔の開いた瞳が僕を掴む。
「カスタットさん、この都市で動いているのは、私とあなただけなんですよ?」
逃げ出したいけれど、足は動かない。
目の前の女を押し倒してしまいたくて、頭が熱い。
「私と、気持ちのいいことをしませんか? ずっと。朝も昼も、夜も、ずっと」
「フィユ……?」
「知ってますか? 性行為は気持ちがいいんです。愛が無くたって、憎しみに満ちていたって、生物として気持ちいいんです。ずっと、あの男に使われて、遊ばれている時も、どんなに嫌でも、その感覚がないわけじゃなかったんです。それが余計に気持ち悪くて、いっそ、何も感じなければよかったのに」
たどたどしい言葉でフィユが語る。
それは僕には想像もできない彼女の経験。
「男なんて嫌いになって、でも、そんな私でも、好きだと思える人ができて」
一歩、フィユが近づく。
甘い匂いは幻覚か。
頭も背骨が痺れて、夢のように心地よい。
「私達だけの世界で、二人だけで、ずっと、誰も邪魔なんてできない。そういう時間を、永遠の時間を、望んでしまったんです、カスタットさん。求めてしまった。求めたから、世界はそれに応えてくれた」
「世界を止めたんだね」
「はい。結構、融通が聞くんです。私とカスタットさん周りだけは物が動くようにして。光だけはもともと止まりませんでしたけど」
「へえ、それは不思議だね」
「はい、どうでもいい不思議です。大事なのは、私とカスタットさんだけが動いているということ」
動けない。
泣き腫らしていても綺麗なフィユの顔が近い。
白い細工物のような手がシーツを持ち、僕の肩を覆った。
わずかに伝わる体温。
瞳から目を離せない。
手をそっと握られる。その動作すら艶めかしい。
「ずっと一緒にいてくれませんか、カスタットさん」
囁き。