9 けれど瑣末が語られて
オルドリア研究室の前に立つと扉の隙間からかすかな明かりが漏れていた。
軽く曲げた指の第二関節で扉を叩く。
できるだけ優しく。意識してそうした。
中からの返事は聞き覚えのある声だ。
扉を開くと小型の魔力灯を机の上に置いて、男が一人書物を手にこちらを見ていた。
「あれ、ルルティアさんはいません?」
「あの人も女性ですから、流石に深夜は帰ってますよ」
そこにいたのは僕と同じ橙の学年の、ホウプ・ウィン・ジンコームだった。
面識はあるが親しいかというと微妙なところ。
妙な呪を受けた時にこの研究室生全員に解析をしてもらったので、その恩はあった。
「何か用でした?」
ホウプが彼らしい愛想のいい顔で尋ねる。
「ルルティアさんがいれば聞きたいことがあったんですけど」
「んー、最近、ずっと姿を見せないので、いつならいるかというのはちょっと分からないですね」
「それならちょっとホウプさんに聞きたいんですけど」
「え? はい、なんでしょう」
「フィユは今、どんな状態なの?」
言い切るより先にどちらもが動いた。
ホウプの魔術式が瞬間的に広がる。
こちらの魔術式は、少し遅れて、部屋全体に立体格子を描いて広がる。
月光と僕と彼の魔力で二人分の魔術式は茶褐色と藍色のまだらに光る。
愛想が欠片も残さずに消えたホウプの表情が、歪む。流石に理解が早い。式質を真似たこちらの格子状の魔術式が、あちらの式の繋がりを混線させて意味をなさせない。
魔術封じの式同化は壊したところですぐに僕が再生させる。
反対に、僕の描く別の魔術式は、発動の瞬間に格子が消える。
放たれた衝撃魔術をホウプは横に跳ねてかわす。後ろで、机の上の様々なものが爆発したように弾けた。
いい反応だ。
素人の貴族の動きではありえない。
転がりながら体勢を整えたホウプの手にはナイフが握られている。
こちらに突撃しようとした足が、地面から離れずにホウプ自身を派手に倒した。
地面から展開した僕の拘束魔術が彼の足を地面に縫い付けている。
即座にホウプが魔力を過剰に流して式を破壊。
常套手段であり早い判断だが、倒れたことがすでに失態だ。
再びの衝撃魔術にホウプが吹き飛び、誰かの机に激突した。落ちてくる本や小物の雨の下でホウプが小さくうめく。
「また、後で」
確実に気絶させるために、最後に雷撃魔術を流し込んだ。
* *
「いやいやいや、こいつはやばいだろ。正真正銘の犯罪だ」
ジャール・カルノルの心底関わりたくないという気持ちのにじみ出た声。
「大丈夫大丈夫、主犯は僕だから」
「共犯なら無罪なんて理屈はどこに転がってるんだ?」
「大丈夫大丈夫、そもそも青の三角内は治外法権らしいし」
「本当に問題ない時に人は大丈夫って連呼しないんだよ」
場所は諭し舎の屋上だった。
月の位置からすれば真夜中を少し過ぎた時間。朝までにはまだまだ時間はあるだろう。
無理矢理に叩き起こして連れてきたジャールと共に気絶したままのホウプを屋上まで運んできたところだった。
ジャールが持っていた式を封じる拘束具の試作品を使って、ホウプの手や足を拘束した。これで思わぬ反撃が来ることもないだろう。
高い位置のせいか風が強い。ジャールは魔術で体を温めながら僕を睨む。
「それでなんだこの状況。ホウプが何をしたんだ?」
「それを確かめるためにこうしたんだ。ねえ、ジャール、ホウプさんの家について何か知ってる?」
「ジンコーム家について? いや、何も知らないが」
「嘘だよね。赤の学年で数百人いた時ならともかく、七選に選ばれた人間の家について、調べてないわけがない」
ジャールは黙って僕から視線を逸らして、数秒後に舌打ちを風に紛れさせた。
それから不機嫌そうに話し始める。
「ジンコーム家は、一般的には秘匿されているが第三王子の私兵のような家だ、と噂されている。詳しくは俺が調べた範囲じゃ分からなかったが、親父様はあまり深く関わるな、と言ってきたからには何か暗いところのある家なんだろうな。お前にこうして関わらされているが」
「そうか、サイファールの」
「聞いてんのか」
「悪かったよ。他に頼れなかったんだ」
「でかい貸しだからな。まあ、商売の基本はまず情報だ、俺に利が無い状況でもない。お前風に言えば、知らない方がいいことなんて無い。と、目、覚ますぞ」
ジャールの言葉に屋上の倉庫にもたれかけさせたホウプへ視線を向ける。
呻くように息を吐きながら目を開き、冷たい視線をぎょろぎょろと動かした。
いつもの愛想はどこにもない。愛想なんてそもそも演技の産物だが、ホウプの場合はそれが極まっていたのだろう。
周囲の状況を確認した後に自らの手枷や足枷、魔術式が封じられていることを確認して、ホウプは息を吐いた。
「学友に乱暴なことをする」
「学友に呪いをかけたのは、ホウプさんですよね?」
「違うと言って信じるならいくらでも言うが」
愛想の良い演技が消えたホウプは、冷たい口調だった。
「どうやってその結論に至ったのか、その方が気になるな」
ホウプはすでに諦めているのか、抵抗する素振りはない。あるいは時間稼ぎか。
ここでだらだらと思考の過程を話して何も得られなければ大馬鹿だ。
彼の持ち物だったナイフを持ち主の片目に近づける。
「僕が聞きたいのは、フィユの現状と貴方の呪の効果と解き方。答えないのなら、素人の僕が思い付く程度の拷問をします。何せ加減が分からないので、大した苦痛も与えられずに殺してしまうかもしれませんが。答えるのなら、貴方の質問にも答えますし、解放もします」
「虫のいい話だな。俺を殺せばジンコーム家や王国そのものがお前を殺すことになる」
「死んでからそれを眺めて満足なら仕方ないですね、一緒に地獄に行きますか」
そう、ここで彼は殺せば間違いなく僕は粛清される。
ホウプからすれば、普通に考えれば殺されないと分かっていても、自分の命を賭ける気になるかどうかだ。
僕が自棄になっていれば充分に殺されうる。この状況自体がすでに自棄になっているともいえる。
勝ち目はあるはずだ。
「フィユ・ウィン・シュヴァイツェルは現在、意識不明ながらも生きている」
勝った。
ナイフを引いて続きを促した。
「俺がシュヴァイツェル家の娘に植えつけた呪は、精神を不安定にするものだ。理性を抑え、感情を昂らせる。効果はわずかだが、精神にかかる負荷は小さな積み重ねがいずれ大きな破綻を呼ぶ。そういうものを狙った呪だ。基本構造はジンコーム家で練られたものだが、青の三角の最新研究の成果が盛り込まれているからな、解呪は少なくとも俺かルルティア程度には呪術に精通していないと無理だろう」
「やっぱりそういう呪だったんだ」
フィユが自殺という手段を選んでしまったのも、これが一因だろう。
魔女化を進めるような特殊な呪も候補に入っていたが、そんなものは存在するのかも分からない。
「フィユが生きているというのはどういうこと? 僕は彼女が凍り付くのを見たよ。蛙や虫とは違う。人間の体は凍れば壊れる」
「詳しく聞いたわけではないが、実際にあの女の体はほとんどが壊死していたそうだ。ただし、それは体の表層に限ったもので、臓器や脳髄に深刻な破壊は起きずに絶命はしなかった。普通なら死ぬが、王国が本気になれば延命もできる。全土から専門家を集めれば治療もできるのだろうよ」
思い出したくなかった、フィユの自殺する瞬間を想い返す。
そうだ、あの時フィユの魔力は途中で霧散した。
それを死んだからだと僕は考えたが、魔力は気を失った時点で制御を失う。
生きている可能性は充分にあった。
その治療のためにエルノイや治癒に関する専門家が集められているのだろう。
「聞かれたことには答えたが、殺すか? 俺を」
「やめておきます」
選択肢としては当然考えられるが、彼を殺した時に報復される可能性を考えれば手は出せない。
それにあちらは僕の条件を飲んだのだ。こちらも応えるべきだろう。
「あの時期に、僕が昏睡するような呪を受けた理由は、今になって考えればフィユを狙った仲介役にするためとしか考えられない。フィユをかける呪の種類は、魔女の発現を促す何かだ。フィユよりも僕を狙ったのは、僕ならば呪をかけられると考えたから。でも、振り返って考えると、あの呪を使えるような人間相手に僕が無警戒になることはあり得ない。僕が誰に呪を受けたか、いつ無警戒になっていたか、可能性として一番高かったのはアンリだ。昏睡した日の朝、僕は彼女に触れている。日課で走った後だったから魔術抵抗力も多少落ちていたしね」
アンリならば呪をかけるのも容易だ。奴隷という立場である以上、仕事を頼めば大抵言うことを聞くし、給仕として働いている間にも機会はいくらでもある。
彼女を経由したとするならば、術者は僕が彼女と親しいことを知っていることになる。
レオフカ家であるルルティアが術者に教えた可能性は無い。彼女はあの時点ではまだレオフカ家として動いていなかった。だから僕の呪を解呪したのだ。
あの日以降のどこかでルルティアはレオフカ家として活動を始めたはず。
「アンリと僕が親しいことを知っている人物なら、青の三角内部の人間が術者か協力者だ。さらに、術者がいる以上、フィユの魔女を発現させようと王国はあの時点ですでに考えていて、ルルティアさんがそれを防いだということはあの人は最初は関係が無かったんだ。けれど最終的には王国の人間として動いている、あの日以降で、ルルティアさんは計画を知って、それに協力することにした」
多分、僕の命を救うためだろう。
今にして思えば、僕の命を狙うにはあの夜の奇襲は不自然だった。わざわざカリヴァがいる日を選ぶ必要はない。そもそも、フィユがまだ生きているのに僕がリヴァージュにいることがおかしい。
エルノイは、フィユが生きていることで僕に危害が加わることはないと言った。それはルルティアの空回りの努力の成果だと。
「ホウプさん、貴方がルルティアさんに発現の計画を教えたのでしょう? 彼女に邪魔をさせないために。そして、彼女はむしろそれに加わることを望んだ」
「少しだけ違うな。あの女は、呪術者が俺だと気づき、問い詰めてきたんだ。後は、まあ、だいたいお前の想像通りだよ」
「初めからそれが目的で青の三角に入学したんですか?」
「そう言って受験を許可されたのは事実だ。俺としてはここで学ぶための方便だったが、笑えないことに本当に魔女の資質を認められてな。おかげで呪術工作をしなければならなかったし、こうしてお前に刃を突きつけられてもいる」
「それは、また、残念でしたね」
「殺さないと言うならひとつ聞くが、お前はこんなことをしてどうする? 俺にたどり着いた人間が王国に歯向かうような馬鹿だとは思いたくはないが」
ホウプの睨みつけるような視線を受け止める。
理由に迷いはあり過ぎるくらいだったが、何をするのかは明確だ。
「そんなの決まってます。見届けるんです」
フィユの結末がどうなるのであろうと、それを知らないままで終わることには耐えられそうに無かった。
* *
枷の鍵をホウプの近くに残して、一度自室に戻った。
魔力石を始めとして不測の事態に対応できるような道具をまとめてすぐに部屋を出る。
その途中でジャールとは別れていた。王都に行くようなら協力はできないとのことだ。見切りの潔さは尊敬できる。
空間跳躍を使えないために移動手段は馬車に限られるが、万が一を考えてエルノイの部屋を訪ねてみた。もし王都までの移送してくれるならこれ以上に速い手段はないし、エルノイなら魔女に関する今回の件に巻き込まれても問題はないという信頼があったからだ。そもそも、エルノイは関係者でもある。
しかしと言うか、予想通りと言うか、エルノイはノックに応じずに部屋の扉は開かなかった。もしかしたら、部屋の中にいないのかもしれない。
空間跳躍が可能な人間として他にシンディアやフェルターが知り合いにいたが、どちらも巻き込むには気が引けた。承諾してくれるとも思えない。シンディアは友好的な雰囲気だが、他の賢者と同様に自分の研究時間を大事にしている。
馬車の定期便は当然深夜には走らせていない。運送屋か商人を叩き起こして、金貨を積んで走らせてもらうしかないか。
あるいは一度寝て、朝を待つか。それが妥当だろう。けれど、その時間差で間に合わなければ後悔をする。
合理的じゃないだろうか。
この数ヶ月を無為に過ごしておいて、その何十分の一程度の時間を惜しむというのは。
思考が鈍い。
宿り舎を出たところで、沈みかけた月の明かりに照らされる人影があった。
誰だ、と思う前にその人物は軽く手を挙げてこちらに合図をした。
僕と同じ黒髪。
目つきは悪く、見ようによっては眠たげにも見える。
「カスタットか、こんな夜更けにどこへ行く」
黄の学年の先達、アテラ・ウェイズだった。
「アテラさんこそ、僕に雑用を押し付けておいて何をしているんです?」
「夜の散歩か、あるいはそうだな、監視だ」
「監視ですか? いったい誰の?」
「今さっき、馬鹿なことをしでかした奴だ。まったく、雑用を押し付けたかいがない」
苛立ち気にアテラが言い、僕は疲れた頭を回すのに必死だった。
監視対象とやらが僕だったというなら、目的はなんだ? 王国側の人間か? 状況が掴めない。
魔力石はある。アテラの魔力生成量は僕より多いとはいえ、青の三角では少ない方だ。
学術研究ならともかく、魔術戦なら勝てるか?
違う。ホウプのような王国側の人間だったなら、魔術戦闘も素人ではないだろう。普段の態度を基準にしてはいけない。
アテラは魔術式を作るようなことはなく、敵意が無いことを示すように両手を天に向けた。
「混乱も仕方がないだろうが、まず、俺は単なる一市民だ。ジンコームやレオフカのような国家に所属する人間じゃない。少なくとも今すぐにお前と敵対するつもりもない。ここまではいいか?」
「言葉だけなら」
「それでいいさ。これから、胸糞の悪い話をしなければならない」
「あの、申し訳ないことですが、急いでるんです」
「空間跳躍を使ってやるさ。どうせ速馬車を使う気だったろう?」
「使えるんですか?」
意外な事実に驚く。
アテラがそれを使っている場面は見たことが無かった。
「得意ではないけどな、俺の六感は多少は高次元を観測できるから不可能ではない」
「六感、というと」
「異能感覚と言ったら分かるか?」
そちらは知っていたので頷く。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚のいわゆる五感ではない特殊な感覚。
それを持っている人間自体が少なく、持っているものも観測できるものやその感覚は異なる。青の三角は例外としても、大抵の魔術機関なら持っているだけで歓迎される異能だ。
知り合いで言えばミーティクルは精神を観測するような異能感覚を持っていた。
「まあとにかく、そういうわけだ。少し話を聞いていくのが一番速い道だ」
「それならぜひ聞きますけど」
「大した話じゃない。お前は気にならなかったか? フィユ・ウィン・シュヴァイツェルの魔女化をサイファール達が確認しに来たとして、どうしてわざわざあの時期だったのか。魔女候補という重要人物を放っておいたのか」
アテラの言葉を聞いて、いくつかの感情が同時に起こる。
確かにそうだという納得と。
アテラもフィユの件に関わってくるのかという驚き。
そして、話の結論への予感。
「誰かが、フィユの魔女の資質について国に報告していたから、ですか?」
僕の言葉にアテラが頷く。
頷いた以上、その誰かの正体もほとんど自明だ。
「そして、それが、アテラさんだと」
「そうだ。俺の六感は少し特殊でな、いわゆる概念界について不完全な観測ができる。概念界は分かるか?」
「界、ということは、物質界や意識界と同じようなものですか?」
「良い理解だが、惜しい。世界理学の基本だが、物質と意識、それぞれの世界が重なり合うことでこの世界は構成されているが、その二つの世界を定義する上位世界が概念界だ。別に理解する必要はない。概念界を観測できるということは、この世界のほとんどを観測できるということと同義で、フィユの魔女の資質も観測できるということだ」
世界理学と聞いて少し頭が痛くなる。
この世界そのものを解析するという学問だが、ひとつの定理を証明するためにおびただしい数の観測手法と結果、複雑な数理系を読み解かねばならず、今の僕には力不足だと感じて投げ出した分野だ。
物質界や意識界という言葉くらいは覚えていたが、基本らしい概念界という存在も僕は知らなかった。
違う、今はそれは重要ではない。
話の肝は、アテラの六感がフィユの魔女の資質を観測できるということだ。
「お前ら二人がチャイム研究室に配属されてすぐに違和感に気づいた。俺は魔女と会ったことがあるが、フィユからそれに近い何かを感じた。俺はそれをサイファールに報告した、あれには個人的に恩があったからだ」
「それであの時期に第三王子がわざわざ青の三角まで来たんですか」
「反応が薄いな。分かるか? 俺は、あれが王国に狙われ魔女化させられることを知っていてそれを教えた。精神心的な支柱になっていたお前も高い確率で巻き込まれると分かっていてな」
「あー、いや、はい、分かっていますけど」
アテラはどういう反応を予想していたのだろうか、と考える。
おそらく責めると思ったのだろう。
アテラのしたことは僕やフィユにとっては不都合なことで、そのためにどちらも死にかけている。
けれどそれはこちらの都合だ。アテラの都合で考えれば責める筋ではない。
「それは当然のことだと思います。魔女の発現というのは、多分、王国民の全員が望んでいることですし、アテラさんはそんなことをしてたのか、って驚きくらいはありますけど、別にそれ以外には特に」
「お前はそれを本心で言っているんだろうな。俺にはできない割り切りだ」
アテラがじっと僕を見る。
そうは言われても、ここでアテラを恨むような理屈が僕にはない。
「まあ、お前には分からないのかもしれないが、俺は少しそのことを負い目に感じていた。偶然とは言え後輩になった人間を王国に売ったわけだからな。せめてお前が無事でいられるように、王国でのフィユの件に気がつかないよう無茶な仕事を押し付けていたわけだが」
「そっちの方がどちらかというと恨みたくなるんですけど」
「そうして研究に隔離したはずの馬鹿が、ジンコーム家の人間を尋問してしまったのだから、フィユがまだ生きていることを知ってしまったのだろう」
「そうですね」
「あの女は何を考えているのか分からんな」
吐き捨てるようにアテラが言う。
僕に情報を伝えたのがエルノイということは知っているらしい。本当に監視していたのか。
アテラは肺の空気を入れ替えると僕を睨んだ。
「サイファールまで取り次いでやる。現状を知るだけなら死ぬこともないだろ」
「ありがとうございます」
「俺とお前がしばらく不在なことを研究室に書き置きしてこい。この前みたいに急に来なくなるとシンディアが心配する」
青の三角で久しぶりに顔を合わせるなり、瞳をうるませて喜んでいた指導教員のことを思い出す。
確かにあの人に心配させるのは申し訳ない。
「戻ってきたらいない、なんてことはないですよね」
「それで俺に何の得がある」
その通りだ、と納得する。
指示に従い書き置きを残して戻ってくると、アテラが複雑な魔術式を展開していた。
月明かりに反射するように精緻な幾何模様が光る。
見覚えのない機能部が軽く見ただけて六つは見つかる。全容を把握するには十分は時間が欲しい規模と複雑さだ。
「ったく、これを瞬間展開できるんだからどいつもこいつも頭がおかしいな」
頭痛を抑えるようにこめかみに指をあててアテラが呟く。
それから僕の方を見て確認してくる。
「忘れ物はないか?」
少し場違いなようにも聞こえるその言葉に、僕は黙って頷いた。




