5 けれど虚実を織り交ぜて
「ミティと夕食を取った後に、大きな魔力を感じたので観測魔術を使ったんです。そしたら、カスタットさんが戦っていることに気づいて、心配だったので駆け付けた、というわけです」
揺れる馬車の中でフィユが言った。
周囲には魔術用具の入った木箱が山のように積まれて、麻紐で固定されている。吊るされた魔力灯は馬車の揺れに合わせてその木箱の影も揺らしていた。
荷馬車を偽装しての移動だった。荷物は本物で、実際に王都で売る予定だというのだから偽装というよりも相乗りに近いかもしれない。
「おかげで助かったよ」
「喋らないでください。まだ、終わってません」
ミーティクルが小さな声で鋭く言った。
小さな手は僕の首元に触れる寸前の位置で魔術式を展開し、治療してくれている。
その横で、少し年配の女性がその魔術式を補助しながらミーティクルに指導していた。
カリヴァ達の仲間で、治癒魔術の専門家らしい。実際に手際はよく、僕も知らない知識や知恵も持っているようだ。
「よし、そうだな、こんなもんだろ」
少し離れた位置で端正な顔の男が、紙に何かを書き終えた。
キラフィル・ロンド、という、カリヴァ達のまとめ役の男だ。墨のまだ乾かない紙をこちらによこしながら、価値を測るような目で僕を見る。
「俺とカリヴァ、リッツは二等階級、サイネの姉様は一等階級の治癒士。追手の危険性と、君らの保有戦力を考えればそれくらいが妥当かな」
紙に書かれた金額を見て思わず苦笑いが出る。
冒険者時代の常識を考えれば妥当な依頼料だが、その頃の金銭感覚ではずいぶん高い金額だ。こんな依頼が年に一度もあればシエトノにいた頃の僕ならそれだけで暮らしていける。
もちろん、今、そんな金はない。
シエトノで得た一攫千金の成果は青の三角への授業料に消えた。たまに小遣い程度を稼ぐことはあるが、それ以来まともに仕事もしていないので金があるはずもない。
しかし、命には代えられないのも事実。
諦めて契約書に署名をした。
それを見てキラフィルが笑う。
「毎度。いいね、値切らない客のためならサービスも良くなる」
受け取った契約書を書簡に入れてしまうと、キラフィルは木箱のひとつから瓶を取り出して渡して来た。
高価そうな蜂蜜酒だ。
「気付いてるかは知らないけど、血を失い過ぎ。それ飲んで早く寝ちゃいな」
ひらひらと手を振って、キラフィルは御者台へと出ていった。索敵はしてくれているらしいので、言葉に甘えて早く休むべきだろう。血が足りないことは全身の倦怠感が教えてくれている。
「終わりました」
「まあ、上出来だね。魔術の繊細さは流石にあたしじゃ敵わないか」
ミーティクルの腕を、サイネと呼ばれた治癒士が称賛した。
それはそうだろう。逆に言えば、魔術の技術とは別の場所でサイネの知識と経験が優れている証拠だ。
「カスタットさん」 フィユが袖を引っ張った。「本当に顔色悪いですよ? 早く寝てください」
「ああ、うん」
喉は完全に治ったようで、喋っても痛みは走らなかった。
疲れていたのだろう、カスタットさんは横になってすぐに寝息をたて始めた。
その寝顔を見ていると、やはり不思議だと思う。どうしてだろうか。男の人を見た時の嫌悪感がほとんど感じられない。
男という生き物は、怖い。
同じ人間だというけれど、まるで違う生物としか思えない。
虫や、動物を見ればすぐに分かる。雄と雌ではまるで性質が違う。
同じ種族というのは、つまりは、生殖ができるという意味でしかない。
だから、男のことなんて理解できない。
怖い。
嫌だ。
思い出したくもないことが、勝手に脳裏に蘇る。
豪華な装飾の部屋。
痛む頬。
気持ち悪い声。
駄目だ。思い出したくもない。
王都に行くことになったせいだ。
実家に帰る時も心の準備が必要なのに、こんな急なことになってしまったから。
駄目だ。
落ち着こう。
視界に意識を向けると、魔力灯の橙色の光にミティの長い髪が照らされていた。
私が見ていることに気づかずに、じっと何かを見ている。
カスタットさんだ。
昨年、ミティのために戦って、最後にはミティを止めるために戦った人。
「ねえ、ミティ」
カスタットさんを起こさないように囁く。
ミティははっと驚いたように私を見て、それから首をかしげた。
私は心配していたことをその顔に伝える。
「ミティは、その、王都に行くことは大丈夫?」
「ああ、そのこと。うん、そうだね、できたら行きたくないのは本音だけど」
ミティの家は、過去の横領事件で敵が多い。冒険者になったことで家との関係も複雑になっているらしく、曖昧な立場では王都に居辛いことも多いはず。
カスタットさんのためとは言え、王都に行くことを提案したのは少し驚きだ。
「実際のところ、ルルティアさんが、つまりレオフカ家が敵に回ったというのはまずい状況だからね」
ミティが呟く。
「レオフカ家を倒すというのも、逃げ切るというのも現実的じゃない。狙われる原因を取り除くのが一番可能性のある対処、だと思う。そのためにはやっぱり、直接王都に行くしかない。ごめんね、つき合わせちゃって」
「ううん。自分で付いてきただけだよ」
その場の流れに流されただけ、と言われれば否定できない気もする。けれど、断ろうと思えば断れた。
ルルティアさんの実力は知っているつもりだし、レオフカ家も怖いけれど、ミティやカスタットさんが危ないと知っていて放ってもおけない。
「王都なら、私もみんなの助けになれるかもしれないしね」
それなりに力のある実家は、きっとこういう時に役に立つはずだ。
目を覚ますと、灯りの消えた魔力灯が揺れていた。
揺れているのは馬の走りか。幌の隙間から陽の光が筋となって差し込んでいる。冷えた空気は朝だからだろう。
体を起こすと、木箱に座って外を見ていた女性がこちらを振り向く。リッツという名の長弓士だ。カリヴァを通して面識はある。
弦を張った弓が足元に立てかけられているところを見ると、周囲の警戒をしているようだ。
リッツはすぐに外に視線を戻す。その口元がわずかに緩んだ。
「両手に花だね」
「どうも」
隣で毛布にくるまり寝ているフィユとミーティクルのことだろう。
「今日で三日目。このままだと特に追手の気配はないまま王都に着くね」
「予定だと今日の昼頃ですよね」
「そう。ところで、今更だけど、あなた達大丈夫なの? 襲われてすぐに出たらしいけど」
「悠長に青の三角に戻るわけにもいきませんし、仕方ないですよ」
「まあ、そうか。まあしかし、レオフカ家の子供に襲われて逃げ切るなんて、あんたも運がいいね」
「実際死にかけでしたからね。本当に幸運でした」
カリヴァがいて、ミーティクルとフィユが駆けつけなければ死んでいた。多分、ルルティアは殺す気だった。
ただの魔術戦なら、どうだろう、おそらく五分近くで戦えると思う。けれどルルティアは奇襲にこちらが対処した瞬間を狙ってさらに奇襲をかけてきた。そういう戦術が取れる相手で、しかも、あの魔術士殺しの捕縛魔術がある。
捕縛した相手の魔術式を封じるだけなら、僕にも使える一般的な魔術だ。これは、魔力を過剰に流せば捕縛魔術の式が崩壊するので対処は簡単だ。
しかし、ルルティアの捕縛魔術の式は、式を自己強化する。それも、相手の魔力を使ってだ。魔力を奪われた状態で、強化された式を破壊するのはかなり難しい。僕の魔力出力では不可能だ。
相手の魔力を強制的に使用するという機能部は、既存の魔術式には存在しないはずだ。
まだ公表されていない機能部があるのだろうか。ルルティアの魔術式を見れたのは一瞬で、記憶もできなかった。あと数秒あれば、見たことのない機能部を探せたかもしれないが、仮定の話に意味はない。
機能部。魔術は、この機能部と機能部を繋ぐ連結部で構成される。流れた魔力を現象へと変換する魔術の核だ。魔術戦では、基本的に相手の魔術式の機能部を見て使用魔術を推測する。
相手の魔力を使えるという便利な機能部があったなら、覚えていないわけがない。
本当に、未公表の機能部を利用しているのだろうか。守護六家というたいそうな家ならば、そういうこともある気がしてくる。
どちらにせよ、現状、あの魔術を受けた時点で僕は無力になる。
対策を考えなければならないが、すぐには思いつきそうになかった。
やがて起きてきたミーティクルとフィユに相談してみるが、二人とも眉をひそめて悩むばかりだった。
かろうじてミーティクルが発言する。
「一番の対策は、ルルティアさんにその魔術をうたせないことですよね。次にとにかく移動して、補足されないこと。死角に入れば大丈夫だと言えないのが辛いところですが」
「うなり式の探索魔術も教えちゃったからなあ。あの人、魔術式はどれくらい遠隔展開できるんだろ」
「私で、瞬間的になら七ネート、伸ばして描くなら三十ネートほどですから、それくらいは見ておいた方が」
「七ネートかあ」
流石にミーティクルだ。自分ならどれくらいかと考えると、およそ四ネートが限界だ。
七ネートもあれば、家や小さな倉庫の裏からでも魔術を使える。走る一歩の幅がおよそ一ネートだと考えると、接近するのに七歩。ルルティアなら迎撃の魔術を十は軽く撃てるだろう。絶望的な距離だ。
ルルティアがその距離を使えると決まったわけではないが、最悪を考えればそれくらいだろう。
「あの魔術、怖いですよね」
フィユがふいに呟いた。
そう言えば、去年のことだがフィユはあれを受けたことがあったはずだ。
「何か、凄く嫌な感じがしました」
「嫌な感じ?」
「はい」
それ以上には言葉は無かった。
物音の方を向くと、カリヴァが御者台から中に入ってきたところだった。
「ミーティクル、交代だ。眠い。俺はつくまで寝るぞ」
「あ、はい」
慌てて御者台に向かうミーティクルを見て、彼女が冒険者になったということを改めて実感する。
カリヴァが剣を外して床に置く姿を見て、ひとつ思いつくことがあった。
がやがやとうるさくなったのは、王都の外縁部に来た証拠だ。
本来の王都を囲む壁の外側に、無作為に建物が建てられ露天が立ち並び、宣教師が教えを述べて回り、冒険者が獲物を下げて歩き、商人が馬車を歩かせる。
大きな都市の周囲には貧民街ができるのが道理だが、王都ともなればその貧民街すらひとつの街のようになる。関税を嫌がる商人や、提示すべき身分証のない者たちが集まってできたもう一つの王都は、しかし治安が悪いというほどではない。
あまりに治安が悪くなれば、壁の中の王都の人間に掃除されることを分かっているからだ。だから治安を守る自警団もあるし、外縁部の冒険者の仕事のいくつかはそれに協力するものだ、という話は聞いている。
僕自身は、王都には何度がシエトノからの護衛で来たことはあるが、居着いたことはない。
「うえ、懐かしいなこの感じ」
幌の外を眺めながらカリヴァが言った。
王都にいたことがあるのは知っている。
「カリヴァは、どれくらい前に王都にいたの?」
「もう、ええと、四年も前か。最初はこの外縁部のギルドで、二等階級になってからは中でな」
「その時はもうこのチームで?」
「いや、当時から面識があったのはキラフィルだけだな。サイネの婆様は元々リヴァージュの冒険者だし、リッツは北の都市から来たって話だ。」
「婆様とはなんだ婆様とは」
飛んできた酒瓶をカリヴァが咄嗟に手で受け止めた。
寝ていたはずのサイネの方を見ると、また寝る姿勢に戻るところだった。婆様というほどではないが、起きている時に彼女が主張する姉様というには少し年を重ねているようにも見える。
それが当然であるかのように、カリヴァは酒瓶の中身を口にする。嚥下してから、こちらをじろりと見た。
「しかし、ここからが問題だな」
「だね」
なぜ僕が襲われたのか。ルルティア個人の問題ではなく、レオフカ家の問題だと考えて王都まで来たが、ではどうやってその理由を探すか。
「言っておくが、俺やキラフィルのコネは四年も経てば無いも同然だ」
「腕のいい情報屋くらいいないの?」
「いるが、まだ生きてるかの保証はない。まあ、隠れ家くらいは用意できるだろう。それくらいは料金の内にしてやるよ」
「それはどうも」
非常に助かる申し出だ。
それからしばらくして、外壁までたどり着く。
人の背丈で言えば四人分くらいか。シエトノやリヴァージュには外壁がないので少し圧倒される。
通用門には衛兵がいた。身分証の提示を求められたので、冒険者ギルドの階級章を見せる。その横でフィユが心配そうにこちらを見ていた。ギルドの階級章には階級以外にも名前や活動記録などさまざまな情報が魔術的に刻まれているので、僕の名前を知られるからだろう。
「大丈夫。影なんだから」
公の場で僕を捕まえるつもりならば、リヴァージュでもうやっているはず。影と呼ばれるレオフカ家は、表立って動くようなことは無いはずだ。
納得したのかフィユが頷く。
微笑みながら、しかし、できるなら階級章を見せたくなかったのも事実だと考えた。
まず間違いなく僕が王都の中に入りこんだことはレオフカ家に伝わるだろう。それくらいのことができなくて何が影のレオフカ家というのか。
一緒に門を通った人間のことも知られるはず。別れて通用門を通ることも考えたが、戦力分散するよりはということで一緒の馬車で通過した。
外壁を潜ると街並みが急に綺麗になる。リヴァージュも相当だったがそれ以上だ。いや、建築技術自体はそこまで違わない。建材が豪華なのだ。輝くような白い石が多い。貴族の家には普通でも、街並み全部が統一されているのは異様な光景だ。
馬車の中身の検品と関税支払いを待つ間、ぼうっとその光景を眺めた。
「王都は初めてなんですよね」
少し低い位置からの声は、ミーティクルのものだ。隣に立って王都の中心を見ている。
王城の尖塔がここからでも見えた。
「壁の中は初めてだよ」
「私は、まだ幼い頃にここで暮らしていました。あの事件の後からは辺境の中級都市に移りましたが、懐かしい光景ですね」
「すごい豪華だよね」
「正真正銘、王国の首都ですからね」
「建国から八百年の歴史ある都。ニアマーズが将軍で、レドウッドがその軍師だった時代。"剣翼の巫女"リズィミウが勇者と呼ばれた時代からある都市だと考えると趣があるね」
初代国王たるニアマーズに、大賢者レドウッド、冒険者ギルド創成者であるリズィミウ。伝説に語られるような偉人達が生きていて、その目で見た都なのだ。
「真理の塔も同じくらいに古いですけどね。王都は改築と増築を繰り返してますから、あちらの塔の方が趣はあります」
「まあそれはそうだね」
見慣れてしまったが、青の三角の塔も古い建築物だ。一切の劣化が見えない超常的な建物は、素材も建築方法もまるで不明。天才が集まる青の三角の研究者達の歴史が、レドウッドという過去の賢者の功績に追いつけていないのだ。
当時に生きていれば、ぜひ会ってみたいものだと無理な仮定を空想する。
「おい、カスタット」
振り向けば馬車を連れたカリヴァが手を挙げていた。
「今からいくつか商会を回るぞ」
「あーはいはい」
ミーティクルと馬車に乗り込む。
先に入っていたフィユの表情は緊張で少し固い。
御者台にはカリヴァとサイネが乗っているようで、荷台にはキラフィルとリッツがいた。キラフィルが瞬きを二度してみせた。
何らかの索敵魔術を受けている合図だ。
これは予想通り。そして、王都内に敵がいるということも確定した。
レオフカ家に狙われている可能性は限りなく高くなる。
「取りあえず商品を全部売り払ってから、隠れ家に行こう。商業街の西の方ならあてがある」
キラフィルがそう言う。もちろん嘘だ。ここからの行動は前もって決めてある。
「了解です。何か手伝いましょうか?」
「いや、お客さんは中で座っててくれればいいさ」
おどけて肩をすくめて、キラフィルが手を広げる。左手の親指と中指、右手の人差指が少し曲げられている。
魔力と、熱源、それに音を探られている。そういう指の合図だ。
キラフィルは冒険者としては一流の魔術士だ。知識はともかく、感知能力の繊細さはここまでの道程ですでに披露されている。まず間違いはないだろう。
対応する魔術式を考えなければならない。
馬車が動き出す。
整備された道はほとんど揺れることがない。
快適な馬車がしばらく進むと、一つ目の商会に着いたようだ。荷の一部が降ろされ、カリヴァが笑顔で高額の数字が書かれた証書を見せびらかしてきた。
二つ目、三つ目と商会を過ぎるたびに荷が減っていき、四つ目の商会でキラフィルが再び細かい瞬きをしてきた。
ここだ。
ミーティクルがキラフィルに話し出す。
「キラフィルさん、少し面白いことを思いついたのですけど」
「面白い事?」
「レオフカ家を出し抜く方法です。と、その前に」
ミーティクルが防諜魔術を展開する。流石の精度の魔術なのは一目見て分かる。
即座に空いていた木箱に飛び込み、魔術用具の間に入り込む。すぐにリッツがその箱に蓋をした。暗闇。カリヴァが持ち上げて、外へと運び出していく。防諜魔術の範囲から抜け出る前に、できるだけ魔力損失のない魔術式を展開して体温を熱探索魔術から隠蔽。
周囲には魔力石の嵌った魔術用具が大量にあるうえに、丁寧に作った魔術式から魔力が漏れる量も微量だ。魔力探知の索敵魔術にはひっかからないはず。
受動感知の魔術式は、相手の索敵魔術による魔力波を感知している。しかし、特にこの箱を注意しているような魔力波の強度と量ではない。
商会の人間の声と、交渉するカリヴァとリッツの声。
僕の入った箱がどこかに降ろされる。
近くに別の箱が続々と降ろされる。
予想では、相手の注意は防諜魔術の張られた馬車の内部に向かっているはず。隠されれば注意はそちらに向くのが人の習性だ。
カリヴァが商品を説明する声が近づき、蓋が開かれる。昼の空が眩しい。カリヴァが目で示す方向で箱から這い出る。そちらは商会の立派な建物があり目隠しとなっていた。摘みあがった木箱や、カリヴァが持ち上げた蓋が周囲からの視線を綺麗に遮っている。
音を探る魔術は会話を盗むもので、居場所の探知は魔力と熱が頼りのはず。大量の魔術用具のもつ魔力で魔力探知は誤魔化せている。熱も、偽装の魔術をすでに展開済み。
重ねて、透明化の魔術を展開する。
それから同じように周囲から隠れている木箱に近づき、商会の人間が離れたのを見計らって蓋を開いた。緊張した顔のフィユが怯えた動作で外に出る。式を操作して透明化の範囲を広げ、フィユをその中にいれた。
少し荒い息がかかる。
「これ、どきどきしますね」
フィユが囁く。
しっ、と指を立てて静かにさせた。警戒心が足りていないが、仕方ないだろう。そういうものを求める立場ではない。緊張し続けるには場数がいる。
透明化の範囲に何かが入ってしまうと外から見て不自然なので、周囲の荷物や人を大げさに避けながら二人で移動する。
肘のあたりの袖をつまむフィユの歩みに合わせて進み、商会の敷地を出て、細い路地に入り、大通りに合流したところで透明化を解いた。
不安げにフィユがたずねる。
「これで見失いましたかね」
「ここまでやって駄目なら、まあ仕方がないさ。少なくとも受動感知には何も引っかかってない」
うっすらと展開している魔術式は魔力波に電波や音波、主要な探査魔術に対応して各種の探査波を感知するものだが、反応は消えたまま。
僕の知らない方式や想定外の感知精度の魔術を使われていない限りは大丈夫なはずだ。
「それじゃあフィユ、案内をお願い」
カリヴァから受け取った紙片を取り出してもう一度見る。
フィユも一度確認しているが、横からそれをのぞき込んだ。
商業街の西区。土地勘がない僕にはここがどう行けばいいのか分からない。
「はい、任せていただいて大丈夫です」
フィユが微笑む。
相変わらず、油断するとぞっとするほど心を揺さぶられる笑顔だった。
途中で服を買って着替え、カリヴァに教えられた店の前に着いた。
大通りを外れて分かりにくいところにあったのでフィユと少し迷った後だった。
周囲の景観と同じく綺麗な白い外壁と、重々しい木製の扉。吊看板には単純な絵柄で枝で首を吊る男の姿が描かれていた。
扉を開けると、店内は薄暗い。奥の窓にひかれた紗幕の透かす光だけが光源のようだ。
細長いカウンターテーブルとそれに沿った華奢な椅子が並んで、その向こうで店員がひとり何か作業をしていた。客はいないようだ。
「うちは夜からだよ」
まだ若い男の店員が不愛想に告げる。これではないだろう。
「忘れ物無かった?」
教えられた符号を口にする。店員は訝し気にこちらを見て不機嫌そうに聞き返してきた。
「忘れ物って、どんなさ」
「赤い指輪なんだけど」
「赤い指輪ね。あった気がするな。二階の二つ目の部屋に行ってみて」
店の奥の階段を示すと、店員は興味を失ったのか料理の仕込みに戻った。
ように見せて、視線がこちらに向いている。
階段も二階の廊下も魔力灯は点けられていなかった。フィユが服の端をつまむ感覚を引き連れて二階の、二つ目の部屋の前に立ち、木の扉を叩く。
しわがれた老婆の声が返事をする。許可を得て、扉を開けた。
「あらあら、若い男女が、何か用かい?」
部屋の奥の机で、白髪の老婆の顔が蝋燭の火に照らされていた。垂れ下がった瞼の下の瞳がこちらを見て、手元に戻っていく。
「しかも片方はずいぶんな別嬪さんだね」
「赤い指輪を探しに」
「ほう」
カリヴァに教えられた言葉を口にすると、老婆は薄く微笑みこちらを睨んだ。
「扉を閉めてこっちにおいで」
部屋の窓は締め切られていたので、入り口を閉めると部屋はずいぶんと暗くなる。老婆の机に置かれた蝋燭の赤橙色の光を頼りに老婆の前に立つ。
悪いが椅子はないよ、と老婆が断り、ため息を吐いた。
「赤い指輪とは、ずいぶん古い忘れ物だね。誰に聞いた言葉だい?」
「カリヴァという剣士です」
「ああ、あの小僧かい。懐かしいね。お前さんどういう関係だい?」
「それを言う必要はありますか?」
「あはは」 老婆が笑う。「ないねえ、お前さんの言うとおりだ」
口に何かを含んでいるかのように口元を歪めて、老婆が僕とフィユの顔をじっと見る。
顔から体型、服装までをじっくりと観察された。
それからおもむろに話し出す。
「あたしは、カゴミと言います。少しばかり目と耳が遠くまで利く質でね、そうやって見て、聞いたことを話して小遣いを稼ぐこともある」
この老婆は、カリヴァが推測するところによると、女衒や売春婦達と深い関わりがあるらしく、その方面から得る情報に精通しているらしい。
知る限りの情報屋としては最も有能だと紹介されたのだが、果たしてどの程度か。
「疑っているなら、少しばかりそれを晴らしてやろう」
老婆が心を読み取ったように言った。
「ねえ、カスタット・ポゥ。それにシュバイツェル家のお嬢さん。知りたいのは、影の司の家のことかい?」
心臓が強く脈打つ。
反射的に探査魔術を展開して、すぐに破棄。
カゴミはにやりと口元を曲げた。
「そうだね、あたしが敵ならば今更何をしても無意味なうえに、そもそもこの会話は成立しない。そして、下手に魔術を使えばお前さんの位置が知られる危険もある」
「その通りです」
「それで、あたしの情報を買う気にはなったかい?」
からかうような口調でカゴミがそう言う。
買う以外に選択肢はない。
僕やフィユの正体を見抜き、何を知りたいのかも見抜いている。カリヴァの言葉通りに有能な情報屋だ。
財布を取り出して、中身の貨幣をカゴミの前の机に広げる。
「どうしてレオフカ家は僕を狙う?」
端的な質問切り出した。