2 けれど魔女に起因して
魔女。
当たり前のように世界に存在し。
当たり前のようにその規則から逸脱した在り方をする。
魔女がいったい何なのかを、少なくとも僕は知らない。
シエトノで冒険者をやっていた頃に出会ったことはある。青の三角で読んだ歴史書で、過去の魔女について調べたこともある。
しかし結局は、魔女は異質である、というある種の同語反復でしかない結論が得られただけで、その能力の由来も仕組みもいっさいが分からないままだ。
「さて、魔女という存在を」
と、第三王子サイファールが問いかける。
「王国はとても重要視している。理由は分かるだろうか」
その視線を受けてフィユは唾を飲み込んでから頷いた。
「軍事力の大きな部分を占めるから、ですよね」
「その通り」
満足そうにサイファールが微笑んだ。
「現在、王国と敵対する国はおよそ非人同盟と帝国だが、同盟は帝国の援助で国を成立させていることもあり、実質的には帝国一つと言っていい。その帝国が保有する魔女の数は四つ。そして王国が保有する魔女も四つだ。この数の均衡があるからこそ、戦線も拮抗している」
フィユは大して驚いていないが、僕は驚いていた。
王国が魔女を保有しているという話は初めて聞いた、と思ったが、思い出す。確かにそのような噂は聞いたことがあった。けれど、それは数多くの与太話のひとつだと捉えられていた。おそらく、王国が一般的には秘匿している情報なのだろう。
僕の様子など気にしたふうもなくサイファールが解説を続ける。
「帝国には永命の魔女、業火の魔女、崩壊の魔女、豊穣の魔女。王国には神雷の魔女、託宣の魔女、断絶の魔女、そして、ここにいる加速の魔女ユギナ」
サイファールの隣に座る女性は魔女だったのか、と驚いた。
ユギナは目を伏せて黙ったまま。それを見てサイファールは話を続ける。
「十数年前に、帝国で四人目の魔女、崩壊の魔女が確保されてからの戦線は酷いものだった、らしいね。この時王国にはまだ三人の魔女しかいなかった。俺はまだ幼かったからよくは覚えてないけど、人の歩みが戦線の後退になるような速度で敗退していく記録は読んだよ。半年で軍人の数は二割近く減ったそうだ。そして、王国の四人目の魔女ユギナが発見されてからはどうにか拮抗を保つことができている、というわけだ。
帝国兵の練度だとか、王国兵の物量や魔法技術だとか、そんなものを吹き飛ばす威力があるんだよ、魔女という存在には」
サイファールが重々しく告げるが、正直に言えば話が遠過ぎてまるで実感が湧かない。意識のほとんどがユギナに持っていかれる。加速の魔女というのはどのような存在なのだろうか。
かなり不躾な視線を送っていると思うのだが、ユギナは僕のことなど意に介せず、難しい顔のままフィユを見つめている。分かってはいるが、この場での僕はフィユの精神安定剤でしかないのだろう。
もし主役がいるとするなら、第三王子のサイファールか、彼が会いに来たというフィユだ。
そのフィユは困惑したように王子に尋ねる。
「そう言った話は私も父から聞いています。あの、それで、私の魔女の資質を確かめに、というのはいったいどういう意味なのでしょうか」
「言葉通りの意味さ」 サイファールがフィユをそっと睨む。「あなたが魔女になれるかどうかを確かめに来た」
フィユの横顔が困惑に歪んだ。
「あの、しかし、何と言いますか、私は魔女ではありません。いわゆる、魔法というものが使えるとも思えませんし、その父と母の元から生まれたものだと思います。顔立ちも似ていますし」
王族への敬意があるため反論しづらいなかで、自分が魔女であるはずがないとフィユが述べる。けれど、フィユの考える前提が違うことには僕も気づいていた。
サイファールは、魔女になれるかを確かめに来た、と言ったのだ。フィユが魔女であるかではなく、その資質の有無の確認。
その認識の齟齬にサイファールも気づいているのだろう、諭すように微笑んで訂正をいれる。
「フィユさんは、魔女というものが生まれつきだと思っているだけど、実はそうじゃない。魔女というものは、それまで普通の人間だった者が、何かをきっかけに発現して生まれるんだ。ここにいるユギナも、十二年前までは魔女ではなく人間だった。君達と同じ、青の三角の学生だったんだよね」
サイファールの言葉を受けてユギナが頷く。
意外な経歴だ。
驚く僕とフィユにユギナが微笑んだ。
「今いる賢者ですと、世界理学のキルクサティや、刻紋学のカワチャと同期生です。魔女は年を取らないので、見かけの年齢は違うように見えると思いますが」
去年、ずいぶんと世話になったカワチャ・ミヨイツムの名が出てきて驚いた。その事実を知ると、魔女というだけで異質に思えたユギナが多少身近な存在のような気がしてくる。
「しかし、同窓の徒の顔を見に来たわけではありません」
ユギナの微笑みが消える。
そうだ。王国の一大戦力らしい魔女がわざわざここにいるのは、王子の護衛か、あるいは来訪の本題のためだろう。
つまり、魔女の資質とやらの確認。
サイファールが頷く。
「竜という存在は、互いに同種の存在を把握できるらしいね。魔女も同じようなもの、ということらしいんだ。理由は分からないけれどそういうものらしい。魔女は、魔女の気配が分かるんだ。魔女だけでなく、魔女となりうる存在の気配もね」
「それが私、ということなんですね」
怯えながらフィユが確認すると、サイファールがゆっくりと首肯した。
「フィユさんが初めて王城の社交場に現れた時に、その資質は確認されていたんだ。だから、あなたのことは王国首脳部に注目されていた。それが」
そこでサイファールが顔を歪める。
自信と覇気に満ちている印象だったため、そんな表情を浮かべることが意外に思える。
「それが、あなたの存在をアレに気づかせて、あなたを傷つけることになった」
横目に映るフィユの身体に力が入った。
何があったのかを尋ねることなどはできない。漠然と、嫌な予想ばかりを想像してしまう。
フィユを傷つけた何か、おそらく事情通なら知っていることなのだろう。僕の知っている範囲でも、ミーティクルやルルティアに賢者達、親しくはないがフェルターやエルノイも。本人は詳しく知らないと言っていたが、ジャールだって本当は知っていてもおかしくない。そのうちの誰かに事情を聞くかどうかは何度も悩んだ。
知らない方がいいことなどない、というのは真理だと思うが、知ることで誰かを傷つけることもある。特に僕は演技が下手だ。事情とやらを知った上で、知らないふりが上手にできるとは思えない。
何も知らない僕だから、フィユは安心して接することができるのではないか。そう考えると尋ねることはできなかった。
サイファールはじっとフィユを観察する瞳を閉じて、首を振った。
「いや、すまない。話がそれた。問題は魔女の資質だ。ユギナ、どうだい?」
「残念ですが、希薄なままですね。発現にはほど遠い」
ユギナの言葉を受けて、サイファールはユギナを見つめた。
妙な沈黙が生じる。フィユも困惑した表情を浮かべていた。
「そっか。残念だな。無駄足になっちゃったか」
沈黙を破ったサイファールの口調は明るかった。
本当にフィユの魔女の資質とやらを確かめるためだけにリヴァージュまで来たのか。
王族と、軍事力に大きく寄与するらしい魔女のユギナの二人が出向いてきたと考えると、どれほど重要だったのか予測できる。
ソファからサイファールが立ち上がって、ユギナもそれにならう。慌ててフィユも立ち上がった。僕も、流石に王族を立たせて自分が座っている状況が失礼だとは分かるので起立する。慣れていないせいか、僕が一番遅かった。
「その、ご期待に沿えなかったようで申し訳ありません」
おずおずとフィユが頭を下げると、サイファールは笑って頭を上げさせた。
「いいさ。それよりフィユさん、いい顔になったね。いや、美醜の話じゃなくて」
「いい顔、ですか?」
「明るくなった。ここは特殊な環境だからね、いい出会いでもあったかな。彼も、隣に座らせるくらいには信頼できているようだしね」
サイファールの視線がこちらに向く。ぞっとするほど深い瞳だ。底が知れない。王族というものはこういうものなのか。
呑まれそうになるのに耐えていると、フィユが隣でサイファールに頷いて見せるのが視界に入った。
「カスタットさんにはとてもお世話になっています」
「そうか。それなら、大事にすることだ。カスタットさん、彼女をよろしく頼むよ」
最後に愛嬌のある微笑みを浮かべてみせて、サイファールは退室を許可した。
その言葉に従って部屋を出て、二人で黙ったまま離れる。一階に降りると受付が興味深げな視線を向けてきたが応対する余裕もない。
勤め舎の入り口をくぐって陽の光の下に身をさらすと、暑さにあてられたようにフィユの体がふらりと揺れて倒れる。
慌ててその身体を支えると、柔らかな身体が跳ねる。拒絶の意思のある力が僕を押しのけた。
恐怖と後悔の表情でフィユの顔が歪む。
「っ……、ごめんなさい。ありがとう」
「いやあ、疲れたね。流石に緊張するもんだ、王族と対面するっていうのは」
気づかないふりをして、ありきたりな言葉を述べる。
それは正直な感想でもあった。
シエトノにいた頃に天元級の冒険者に会ったこともあった。ここに来て出会ったエルノイも似たような圧力を感じさせる。
しかし、サイファールから放射されたのは、それとは異質な雰囲気だ。
生まれながらに支配者となることを求められた結果なのだろうか。
「まあ、何事も無かったようで良かった良かった」
魔女の資質とやらがサイファール達の期待に応えていたら、いったいどうなっていたのだろうか。
想像すらできないその未来が不安だったのか、フィユも真剣な顔で頷いた。
短い面会を終えた後、講義があるというフィユと別れて諭し舎の研究室に戻った。
「ご苦労だった」
そう告げたのは担当の賢者であるチャイムだった。
意外なことで驚く。チャイムは基本的に究め舎にこもっていて、連絡や雑事程度ならシンディアに任せきりだ。王族の来訪という大事を伝えるために先程来た後に、まだここにいるとは思わなかった。
簡素な椅子に座ったチャイムと対面するようにアテラが別の椅子に座っていた。二人とも近くの机にカップを置いているが、湯気は見えない。
「噂のサイファールに会ってきたんだよな、どうだった?」
アテラが背伸びをしながら振り返った。
呼び捨てということが気になったが、アテラらしいと言えばアテラらしい。
「いや、なんというか、凄い方でした。穏やかな物腰でしたよ、僕はほとんど話してませんけど」
「第三王子が一番評判が良いんだから、王城の教育係は過去の失敗から学ぶことが多かったんだな」
過去の失敗というのはサイファールの兄たちのことだろう。不敬にもほどがある発言だ。シエトノの安酒場を思い出す。
アテラ・ウェイズという名前からすれば彼も平民の出なのだが、どういう環境で育ったのだろうか。荒事に慣れた振る舞いは見えないが、達観した目つきはそれなりに修羅場を潜っているようにも感じる。
「では、アテラ、結果をまとめたら報告に来るように」
チャイムが立ち上がり、部屋を出て行く。廊下を歩く足音は聞こえなくなるまで小さくなっていった。空間転移を使えないわけではないようだが、あまり頻繁には使っていないように見える。賢者にはそういう人が多い。歩くことが考え事にいいということらしいが、本当だろうか。
一人で移動する時はほとんど全て空間転移を行うエルノイのことを思い出した。
「いや、助かった」
アテラが珍しく笑顔を浮かべる。
「何がです?」
「チャイムとの会話は疲れる。頭を使わせる上にきりがない。一日一時間で充分だな」
暴言を愛想笑いでごまかして自分用に与えられた机の前に座る。
チャイムから貸し出された過去の研究の資料に、関連する論文が山を作っている。
今のところはこれをひたすらに読むことが勉強となっている。いくつかの講義は取っているし、魔術式の練習も日課になっているが、割いている時間を考えれば文字を追っている時間が圧倒的に多い。
疲れているのか、アテラは自分の机に戻らずこちらに話を振ってきた。
「しかし、まあ、貴族ってのも面倒だな。他人との繋がりばかりだ」
「平民だって人間関係は大事だと思いますけど」
「そうらしいな。まあ、しかし、平民の方は即物的な関係だろう? 必要なものは面倒とは思わんさ。お前、呼吸するのをいちいち面倒だと思うか?」
「それはそうですけど」
「貴族社会ってのは、その呼吸のしかたにいちいちケチをつける場に思える。息苦しそうで関わりたくない」
アテラが鼻を鳴らして、想像上の貴族を嘲る。
「でしたら貴族社会もその意義を果たしているわけですねえ」
僕の声ではない。
アテラの冷たい視線が部屋の入口の方に向けられていた。
その視線を追った先に、黒い髪を伸ばした少女が一人。
「エルノイさん?」
「はい、エルノイですよお」
エルノイ・ウィン・ディアリルムがあどけない微笑みを浮かべながらそう答えた。
僕よりも一歳年下の、十六歳という年齢にしては幼い純粋な表情だが、やはり得体が知れない。橙の学年にして、すでに賢者の水準を超えると評される実力は異常という他にない。
部屋の入口を閉ざす扉は、ノックどころか開く音すらしなかった。空間転移の魔術で移動してきたのだろう。完璧に制御されているからか、魔力の気配すらしなかったが。
「勝手に入ってきたことに一言もないのか」
アテラがエルノイを睨む。
上の学年の学生もエルノイには一目置いているようだが、賢者にも敬語を使わないアテラには気を遣う様子はない。一貫した態度は流石だ。
同じようにエルノイの態度も不変だった。不思議そうに首をかしげてアテラに微笑む。
「呼吸の仕方にケチをつけるのはお嫌いではないのですかあ?」
間延びした声にアテラが舌打ち。少し遅れてその意味を理解する。
エルノイは楽しそうに微笑んだまま肩をすくめる。
「貴族の慣習は私も辟易とするものがありますけれどお、そもそも排他が目的ですからね。実利のあるものでは駄目なんです。身につけるのに時間がかかり、かつ、貴族社会以外では通用しないものが望ましいんです。あの人たちは、自分の既得権益を守りたいわけですから」
「なんとも非効率だな」
「そうですか? 何を目的とするかによるかと思いますけど」
アテラは不機嫌そうに息を吐く。エルノイの言葉に反論する余地を見つけられなかったのだろう。
実際のところ、息の仕方にケチをつける、というような貴族作法というのは複雑すぎて覚えきれない。比較して、例えば冒険者の流儀というのは大抵の都市で共通のものだ。冒険者とギルドがそれぞれ効率を求めるためにどの都市でも似通ったものになるし、より効率的なものは人の流れと共に発祥地から放射状に広がっていく。新しい都市で知らない慣習に出会っても、目的が共通しているため意味が分かるし、そのため覚えやすい。
ところが、貴族社会はそれが分からない。明らかに非効率的なものが、非効率な行動ができるほど余裕があると喧伝するために好まれる。純粋に記憶しなければならないため、古くからその場にいるものが有利で、新規流入は苦労することになる。
エルノイの言葉の意味はそういうことだろう。それは確かに、古くからの貴族が自分の場を守るためには非常に効率的に思える。
「そんなことを言うためにここに?」
「あはは、そんなに暇ではないですよお。あなたに用があるんです」
エルノイの黒い瞳が楽しげにこちらを見る。
幼い子供のようで、心臓を撫でられるような悪寒を与える圧力が込められている。意図してではないだろう。これが彼女の自然体だ。普段の方がこれを隠している。
一年もこれに付き合っていれば動揺するほどではない。少しだけ腹に力を入れてエルノイを見返す。
「僕に? 何の用?」
「フィユさんに聞いても良かったんですけどお、あの人は私のこと苦手みたいですし。勤め舎の方に行って、サイファールと加速の魔女に会ったみたいですが、何の話だったのか聞いてもいいですかあ?」
「あの部屋、一応は防諜魔術で覆われてたみたいなんだけど」
「ええ、ですから中の音は聞かなかったんです」
聞けなかった、と言わないならば不可能ではなかったのだろう。防諜魔術を超えて中の様子を探ることは原理的には不可能ではない。まして、エルノイの技術なら。
それをしなかったのは、エルノイなりに王族へ気を遣ったのか。目隠しの仕切りがあったとして、その隙間から中の様子を見るのと、穴を開けて中を覗くのには大きな違いがある。
「僕が言ってもいいのか分からない」
少し考えてそう答える。
「防諜魔術を使っていたなら、あまり広めて良いことじゃない気もする」
「魔女のことですね? フィユさんの魔女の資質を確かめに? 連れていかないということは資質は認められ無かった?」
気を入れて表情を隠す。エルノイの予測はかまをかけているだけだろうが、そう分かっていても表情に出てしまったら意味がない。
魔術式が眼前に展開された。視認できるということはエルノイではない。複層構造で読み取りづらいが、魔力の流れを辿れば誰のものかはすぐに分かる。式の先で、不機嫌そうなアテラがエルノイを睨んでいた。
「呼吸の仕方、で済むことじゃないな」
アテラの不機嫌そうな言葉にエルノイがにこりと微笑む。
「へえ、よく分かりましたね」
「趣味が悪い」
アテラの顔を見ていると、彼はため息を吐いて理由を説明してくれた。
「精神感応の魔術だ。馬鹿みたいに早いがな」
ぞっとする言葉を聞いてエルノイの方を見る。
悪びれもしない微笑みを浮かべたまま、エルノイは不思議そうに首をかしげた。使えるものを使って何が悪い、という考えが言われなくても伝わってきた。
「まあ、だいたいは分かっています。だいたいを確実にするために来ましたけど、そこの人に面白いものを見せてもらいましたしね、退散するとしましょう」
そう言うとエルノイの姿が不意に消失した。
アテラは顔をしかめて舌打ち。僕を守っていた魔術式を解除してからため息を吐いた。
「怪物っていうのはああ言うのを指すのかね」
「本人も言ってましたけど、よく分かりましたね。僕には速すぎてまるで見えなかった」
「人間には機能的に無理だな」
「どういう意味ですか?」
「言葉以上の意味はない。先に帰るから、帰る時に鍵をかけておけよ」
立ち上がってアテラが去っていく。
何か気に障ることを言ってしまったのか、チャイムとの会話が終わって元から帰るつもりだったのか分からない。チャイム研究室に配属されて一ヶ月程度の付き合いになるが、まだよく掴めない人物だ。
ひとりになった研究室で、少し気と肩の力を抜いて椅子にもたれる。
七選に選ばれて一ヶ月。塔を高く上るという目標が無くなり、漠然と与えられる指示をこなすようになった。過去の研究や論文に触れることは新鮮だし、価値のあることだと思うが、昨年よりも充足感がない。整備されて歩きやすい道になったが、どこに向かっているのか分からないような感覚だ。
青の三角の塔を制覇したいという気持ちは変わらない。そのために必要な実力をつける時期だというのは理解しているが、やはり実感が必要だ。こういうところが、平民の出というか、冒険者として染み付いた在り方なのだろうか。
「子供では届かない高み」
呟く。
以前、エルノイに言われた言葉だ。
目の前の感情に振り回されるのは、彼女の言う子供の振る舞いだろう。
月夜の下で微笑むエルノイの姿を舌打ちで脳裏から追い出して、読みかけていた研究ノートに手を伸ばす。
今は努力をする他に道はなさそうだった。
* *
「ところでさ、お前、カスタットとはどういう関係なんだ?」
リヴァージュ外縁部の酒場の喧騒を背景に、カリヴァが遠慮のない下品な笑みを浮かべた。鍛え上げられた肉体と、それに見劣りしない近接戦闘の技術は私も尊敬する点だが、冒険者としては標準で備わっているらしいこの遠慮のなさは未だに慣れない。
同じように飲み慣れない麦酒を飲んで時間を稼いで、表情を作る。
「同期生で、恩人、ですね」
「お前は分かりやすいなあ」 カリヴァが噴き出す。「いや、野暮だな。これ以上は止めておこう」
カリヴァの言葉の意味は分からないが、顔が熱い。ぬるい麦酒のグラスを頬に押し当てて冷やしながら、カリヴァの視線から逃げるように視線を机に落とした。
まったく、人生とは分からないものだと思う。
ミーティクル・ウィン・キャンディナという名前で生を受けて、家の復興だけを目的に生きてきた。周囲は敵だらけで、このカリヴァという男も雇われとはいえ敵だった。
それが、私は冒険者となり、カリヴァはそんな私の面倒を見てくれている。
そのきっかけとなり、腕の立つ冒険者としてカリヴァに引き合わせてくれたのがカスタットだ。
「しかしまあ、例の進級できる七人とやらに入れるとはなあ。そんなに大した奴には見えなかったが」
カリヴァが感心したふうに言って、塩漬け肉を豪快に頬張る。
「カリヴァさん、負けてたじゃないですか」
「あー、耳が痛え、聞こえねえ。まったくなあ、油断したっちゃしたが、機転の利くやつだよ。だが、言ってしまえばあいつは戦術で俺に勝っただけだ。やりようにやっては俺が勝つ、その程度だった、んだがなあ」
「過去形ですね」
「お前の魔術の腕を見れば、進級できる連中の腕だって予測できる。戦い慣れてねえから今やればお前に対して勝機もあるが、あの小僧とやればずいぶん不利だな、というかお前の水準の魔術を場馴れしたやつに使われちゃ勝てねえ」
「ずいぶんと冷静というか、こだわらないんですね」
「強さにこだわりを持つやつもいるがね。俺は美味い飯を食って、いい女を抱ければそれでいい。そのためには金が必要で、金のためには強いやつに逆らわないことも必要だ」
高潔とはとても言えないカリヴァだが、そのあっけからんとした態度には好感がもてる。
もとより私は貴族社会のいざこざが嫌いだったのだ。欲望を隠さない冒険者の世界は汚く臭いものだけれど、醜悪ではない。
「一度、お前を王都に連れていきたいが」
しばらくの雑談の後にカリヴァがそう告げた。
王国の首都は王国民なら誰もが憧れる地だが、私はあまりいい思い出を持たない。表情に出たのだろうカリヴァが眉根をよせる。
「お前さんの事情はある程度聞いちゃいるが、それでも王都は冒険者にとっては一度は行っておくべき都市だ。リヴァージュ近郊とは比較にならないくらい深い魔界、一流商会や高級貴族の護衛に、それらを狙う大規模な野盗の討伐。危険だが報酬のいい仕事が尽きないからな、冒険者も一流どころが集まる。言っちゃあなんだが、この都市は魔術士には最高峰でも、冒険者には二流以下だからな。ある程度の基礎を身につけるための場所か、上を目指すのを諦めた連中の居場所だ」
前者が私で、後者がカリヴァなのだろう。
ギルドでもカリヴァや彼の仲間は一目置かれている雰囲気だ。充分な実力があるのに冒険者にとっては僻地のここにいるのは、もう満足しているからか。
「まあ、無理にとは言わない。王都以外でも大規模な魔界の近くの都市は冒険者の実力が高い。対人戦に限ればラクアレキもいい都市だ。ああ、シエトノもいいな、あの小僧の出身地だが、天元級を三人抱えて魔界も豊富だ」
カスタットの故郷、と聞くと興味があったが、あまり厚意に甘えるのもよくないだろう。
いつまでも引きずっているのも冒険者らしくない。
「いえ、王都の方がいいなら、そちらに行くべきです」
「お前さんも大した気骨だな。まあ、今すぐにという話ではないが心構えだけはしておけよ」
カリヴァはそう言うと酒の追加を注文した。
この二日の魔界探索の成果の半分は無くしてしまいそうな勢いだが、これが楽しくて冒険者をやっているのだろう。
私は、今は毎日が夢のように楽しい。楽しすぎて浮かれないように言い聞かせているくらいに。
そのきっかけになった人物を思い出してため息を吐く。
私をカリヴァに引き合わせてから一ヶ月と少し、彼の顔を見ていない。
今頃なにをしているのだろうか。