1 けれど悪夢は拭えずに
甘い花の香りが漂う。
ここリヴァージュや王都より少し南の辺りで咲くはずの、黄色く小さな花びらをつける花だ。
大量に集められたその花から丁寧に蜜を集める。
締め切られた部屋に充満した匂いは、女の私には少しキツい。酔いに似た感覚で、意識が少しふらふらしてしまう。
テーブルを挟んで対面に座るカスタットさんは黙々と作業を進めていた。似たようなことを冒険者になる前にしていたらしい。
魔術式の媒体となる成分を含む蜜の採集。魔術符や加護など、魔術が使えない人間を相手にした商売には欠かせないもので、安定した需要があるという話だ。戦える程度に魔術を覚えるまでは、そうした雑用をして生きていたらしい。
手慣れた動作は私の二倍近くの速度で蜜を取り出している。そのことに気づいて、彼を見つめるのを止めて作業に戻った。
萼をちぎり取って雄しべや雌しべごと溶液に浸し、蜜を溶かしだす。魔力に反応して蜜の溶けた溶液がわずかに光る。魔術式の媒体として有名なダキオ草よりもさらに媒介率が高いために、式を作らなくても光ってしまう。溶液の中で媒介成分が無秩序に式を構築してしまっているのだと、アテラ先輩は話していた。理論上は、何かしらの効果が生まれるような式を作る危険性もあるが、確率で言えばまずあり得ないという。あり得ないのは分かっているが、僅かな可能性でも事故が起こりうると思うと怖いものがある。
「綺麗だねえ」
のんびりした口調はカスタットのものだ。
顔を上げると、彼がこちらに顔を向けていた。
「何がです?」
「フィユさんの溶液。黄金みたいな色に光って」
「そうですか? あまり、自分ではそうは思いませんけど」
「魔力が式に反応する色は、魔力波長に依存しちゃうからね。僕の赤茶色より、よっぽど綺麗だよ」
そう言って力無く笑うカスタットの目の前に置かれた溶液は、薄く茶色に光っている。
素朴な色は心が安らぐような気がするが、そう言ってもただの愛想だと思われるだろう。
「ビズリアスさんは赤紫で、ルルティアさんは黄色。ミーティクルさんは青紫でしたね。エルノイさんは何色なんでしょうか」
「あの人はねえ。魔術式を視認できるくらい展開もさせないし、どうなんだろね。何となく、真っ白な気がする」
「私は、いっそ真っ黒なんじゃないかと思いますね」
「極端な色だと思っちゃうよね」
エルノイ・ウィン・ディアリルム。
こうして青の三角で間近に接するようになって、彼女の異常なまでの才能をより意識するようになった。
王都にいた頃から同世代に天才がいるという話は聞いていたが、ここまでとは思わなかったからだ。
「それで、フィユさん」
カスタットさんがこちらを見ていた。
「はい」
「溶液、もう交換した方がいいね。濃度が高すぎて効率が悪くなってるよ」
「あ、はい。そうでした」
そうだった。うっかりしていた。
蜜が溶け出すと入っても限界がある。これだけ強く発光しているのは、もう限界近くまで溶け出しているからだ。
蜜の溶けた溶液を別の器に移し替えてから新しく溶液を注ぎ、再び蜜を集め始める。
「魔力波長と言えば、あれはどうして個人ごとに変わるんでしょうか」
ふと気になった疑問を口にしていた。何も考えずに言葉を口にするなんて、一年前では考えられないことだ。それだけが気が抜けている、緊張していない状態になっていた。そういう、人を警戒させない雰囲気がカスタットさんにはある。
「魔力自体がどうやって生まれているのか分からないから、具体的にどうだとは言えないけど」
カスタットさんは作業する手元を見つめたままに答えてくれた。
「例えば、指紋は人によって違ってる。虹彩も、声の波長も、全部人によって違っている。魔力を生み出す器官があるとして、人によって決まった波長を生み出すとしても不思議じゃないんじゃないかな」
「考えたら不思議な話ですよね。同じような形の生物でも、必ず違う部分がある。それは、生きている限りずっと同じものを保ち続ける」
「体が、体の細かな形も覚えているんだろうね」
「けれど、人は、生物は成長します。体は大きくなり、声は低くなり、筋肉がついたり髭が生えたり、変化するものです。どうしてそういうところだけが変化しないのでしょうか」
「変わる要素と、変わらない要素があるのかな。環境に適応できるように後から変わる部分と、固有の変わらない部分。後から変われるようにするよりも最初から形を決めたほうが楽だから、指紋とか、そういう形が違っても意味が無いところは変わることがないんじゃないかな」
カスタットさんは思考の池を見つめるように、視線を手元の溶液の水面に向けて言葉を紡いだ。
気軽に口にした疑問だったが、それだけ真剣に考えてもらえると申し訳ないような気がしてくる。同時に、少し嬉しくもある。この会話には、何の打算も無い。ただ、素直な思考と意思だけ。貴族社会では絶対にできない会話だ。
「遺伝子ってやつだな」
不意に別の男の人の声がした。
びくりと体が跳ねて手が溶液を入れた器に当たる。水面が傾くが何とかこぼれずに、左右に振動する。
「慣れろ、とは言わないが気をつけてくれよ? アサキの花も無料じゃないんだ」
部屋の隅に置かれたソファで眠っていたアテラ先輩が、ゆっくりと体を起こしながら私を睨んだ。
カスタットさんと同じ黒い髪だが、彼よりも癖の強い髪は南方出身ということを示唆する。面倒くさそうな瞳は、どこか攻撃的な雰囲気がある。寝起きのはずだが、カスタットさんの方がよほど眠そうに見える。
寝る前から机に置いてあってとうに冷めているはずの黒い液体をアテラ先輩が啜った。南方では一般的な飲み物らしい。青の三角でも、眠気が覚めるとそれなりに人気があるようだ。私には苦くて、お茶の方が好きだったが。
「遺伝子というのは、生物の設計図のようなものでしたよね」
カスタットさんがアテラ先輩に尋ねる。アテラ先輩は面倒そうに頷いてみせた。
「どうもそういうものがあるらしい、止まりの理解だけどな。青の三角では特に専攻して研究する賢者がこの数世紀いないから、研究しがいのある分野だな。ラクアレキの医学研究所、王都の王立アルヴィン大学なら多少研究も進んでいるかもしれないが、特に話は聞かないな」
「意外ですね」
カスタットさんは作業を止めずにそう告げた。何がだ、とアテラ先輩がカスタットさんを見る。私も同じ意見だ。
「遺伝子を操れるようになれば、つまり、生き物の性質を操作できるわけですよね。優秀な兵士や指揮官を作ることもできますし、生物兵器のようなものも作れるでしょう? 王国、というより軍隊としては是非とも研究を進めたいと思うんですけど」
「その通りだ」
アテラ先輩はソファに座り直して伸びをしながら言った。
「数世紀前の賢者が遺伝子に関する研究を止めたのは、その危険性があったからだ。研究が、そういうことができる見通しができるほど進んでしまうと、たくさんの生体実験を繰り返して実現させようとしてしまう。そういう良識が研究を終わらせたわけだ」
「へえ、立派な人ですね」
「さてね。それを立派と言うのかは難しいところだ」
アテラ先輩はソファにかけていた外套を掴んで部屋の出口へ向かう。
外に出る直前に振り向いて、私と目が合った。
「何か言いたそうだね、シュヴァイツェルさん」
「その、立派でないというのは、どういう……」
「立派じゃないとは言っていない。立派だとも言いにくいけど」
アテラ先輩は扉に寄りかかって腕を組んだ。
「つまりだ、その賢者の危惧した、生体実験で犠牲になる人物は生じなかった。そのことで助かった人数が一万人だとしよう。その一万人を犠牲にした実験で得た成果は、十万人を救っていたかもしれない。圧倒的な戦力で戦争が終わり、平和が訪れていたかもしれない。例えば農業に利用していれば、収穫高は跳ね上がっていたろうね。先天的な病気で苦しむ人が救われたかもしれない。あるいは、その研究が進んでいなかったせいで、明日にも人類が滅びるかもしれない」
アテラ先輩の口調に熱はなく、その言葉を信じているふうでも無かった。こういう考え方もできる、という話なのだろう。
「彼が研究を進めなかったために、彼よりも能力のないものがより多くの生体実験を重ねてその研究を進めるかもしれない。彼ならば回避できた事故や誤りを後世の誰かが犯し、一万人以上の犠牲者を生み出したかもしれない。立派という言葉の定義はそれぞれだろうけど、無条件にその賢者へ贈る気にはならないね」
間違っていたとも思えないけれど。そう言い残して、アテラ先輩は部屋を出て行った。この時間に取っている講義があるらしい。
ぱたんとドアが閉まる音を合図にしたように静寂が訪れた。
私は、アテラ先輩の言葉について考えていた。それは、昔からよくある命題に近い。
百と一人のために、百人を殺せるか。
答えは、殺さなければならない、だ。少なくとも私は、貴族としてそう教育を受けた。その意思決定を行うために貴族がいるのだと。
何となく気になってカスタットさんの意見を尋ねた。彼は、低く鼻を鳴らして考え込んでから、微笑みながら首を振った。
「一般論としては、答えなんて出ないよ。僕が百人の側なら殺さないで欲しいし、百一人の側なら殺してほしい。確率として、一人分だけ後者の方が高いから、その分だけそっちの意見に偏るけど。結局は当事者にならないと分からない、し、意味がない」
「あなたが遺伝子の研究を進めていたら、どうしたと思いますか?」
「そのまま進めたね」 今度は即得だった。
「迷わないんですね」
「知らない方がいいことなんて、原理的には存在しないからね」
こともなげにそう言って、カスタットさんは凝りをほぐすように大きく背伸びをする。
私はその様子を見届けてから、手元の作業に従事した。
* *
控え目なノックの音に顔を上げる。
扉が開き、現れたのは若い女性だ。若いと言っても僕よりも年上だ。今年から青の三角の賢者になった方で、名前はシンディア・ウィン・サティ。ジャールに聞いたところ、サティ家というのは地方の領主らしい。どれくらい偉いのかは平民の僕にはよく分からなかった。
「あれ、アテラ君はいない?」
気さくな口調でシンディアが尋ねた。
「アテラさんなら、講義を受けに行ったみたいですけど」
「そっか、んー」
僕が答えるとシンディアさんは低く唸って僕とフィユを交互に見た。
何かを悩んでいるようだ。分かりやすく眉が寄せられている。
「うん、ついでにじゃあ少し休憩してこっかな。二時間もいれば戻ってくるわよね」
結論を口にすると、シンディアは持っていた荷物を空いていた机の上に置いて部屋を出ていった。数分すると、上品な紅茶の香りと共にポットとカップを盆に乗せて戻って来た。呆れたことにお茶請けの菓子までのせられている。
「カスタット君もフィユさんも一緒にいかが?」
シンディアの提案に、フィユの方を見る。彼女も僕の方を見ていた。無言のまま相談して、頷く。
「ありがとうございます」
二人で礼を言いながら椅子を移動させて、シンディアの近くに座りなおす。
紅茶は普通のものだったが、小皿に置かれた菓子はあまり見ないものだった。シエトノで数回見たことがあったので菓子だと僕は分かったが、フィユは最初それが食べ物だとは思わなかったようだ。興味深げにそれを見つめて、それが何かをシンディアに尋ねる。
小さく笑いながらシンディアは答える。
「東方の諸島群で作られるお菓子よ。コメを原料にするんだけど、とても綺麗でしょう? 私の領地は大陸でも東よりだから、贈り物でよく貰うのよ」
「高価なんじゃないですか?」
海を越えて輸入してくる品物は値段が跳ね上がる。贈答品として価値のあるその菓子はシエトノで見かけたときは下手な宝石よりも高い値がついていた。
シンディアは僕の問いに鼻をならして笑った。
「こういうときに配らないと腐らせちゃうからね。実家に帰ればそれこそ腐るほどあるし。気にしないで食べてちょうだい」
「では遠慮なく」 と、僕が一つ口に含み。
「いただきます」 と、フィユが上品に一つ手に取った。
甘味としては控え目で、だからこそ上品な味わいだった。柑橘類の香りもわずかにする。庶民として生きていたら縁遠い味だ。
隣でフィユが感心したような表情を浮かべてシンディアを見た。
「不思議な味です。焼き菓子とはずいぶん違いますね」
「文化の違いは言葉よりも料理に、とはよく言ったものね」
その言葉が誰のものか知らなかったので尋ねると、なんとレドウッドのものだという。
「こんなもの別になんともない言葉だと思うけど、偉人が言うと偉いものに聞こえるものね」
おかしそうにシンディアが言った。
それからしばらく雑談をした。
出会って一か月くらいだがシンディアとはこうしてよく話をする機会があった。彼女は新任の賢者で、魔術式学が専門ということで先達の賢者であるチャイムの研究室で補佐的な仕事をしている。僕とフィユ、そしてアテラはその研究室に配属されていた。指導教員はチャイムであるが多忙であり、実質的にはシンディアが指導教員のようなものだった。
僕としては、正直に言えばチャイムの方が実績もあるので彼から指導を受けたいのだがわがままも言えない。魔術士としても研究者としてもシンディアの方が優れているだから、得るものは多くあるのも確かだ。
それに、楽しそうにシンディアと会話をするフィユを見るとこちらの方が望ましいようだ。一年前に比べて改善されたとはいえ、まだまだ男性に苦手意識はあるようだから、女性であるシンディアが指導教員の代わりになってくれて嬉しいだろう。
「橙の学年は、とにかく研究手法を学ぶことね」
学生生活の話になり、シンディアがそう言った。
「それぞれの研究室に配属されるのは、研究するためじゃなくそのための手法を勉強するためよ。発表される論文に載っているのは研究の上澄みである結果だけで、そこに至るためにどのような工夫をしているのかは実際の研究現場を体験しなければ分からないからね。
そのうえで、まあ、君達はわざわざうちの研究室を選んだのだから、魔術式学の基礎知識から先端研究を学ぶことが補助的な目的ね」
「アサキの蜜の採集も研究手法の勉強ですか?」
「それはただの雑用よ。まあ、授業料だと思いなさい。実務を覚えるのは無駄ではないしね」
「雑用をするのはいいんですけれど」
フィユがカップを置きながら言った。
「その、何ていうか、この一か月、あまり進めていないような気がして」
「進む?」
「ほとんど論文や研究記録を読むばかりで、その、一か月前の私と比べて」
「ああ、なるほどね」
優しく目を細めてシンディアが微笑む。
「それは錯覚だよ、フィユさん」
シンディアが何かを言いかけたその時、ノックもなく扉が開いた。
現れたのは壮年の男性だ。カワチャよりも少し年上で、痩せた細った体にぎょろりとした目。フィユが体を強張らせたのが分かったので、そちらに視線を向けさせないように僕が立ち上がる。
「チャイムさん」
研究室の長である賢者。シンディアが慌てて伏せていたカップを起こす。
「座ったままでいい。シンディア、茶もいらない」
不愛想にそう言いながらチャイムはこちらに歩み寄り、シンディアを睨んだ。
「呑気にお茶会はいいが、試験作動の方は進んでいるのか」
「一応、二次試験までは。三次用の式を組んでいる途中です」
「結果の方は予想通りか?」
「予想より小さい値だったので、補正式の感度を下げさせたらおおむね予想通りには」
「粒子群の劣化は?」
「それは大丈夫でした。交叉が上手く働いているようです」
「うん、良かった。二次の方の結果がまとまったら報告に来るように」
「はい、伺います」
「アテラにも用があったが、今はいないか」
「講義に出ているそうです」
チャイムは喉を唸らせて不満を訴えて、それからフィユを睨んだ。
「本題は君だフィユ・ウィン・シュバイツェル」
「あ、あ、あの、私に何でしょうか?」
「王都からお客さんが来ている。王族の方だ」
その言葉への応対は顕著だった。
嫌、と小さな呟き。同時に爆発的な魔力の奔流がフィユから放射される。
アサキの溶液が黄金色の太陽のように輝く。軽度の魔界化が起きているのか風が吹き荒れる。
何かフィユを無力化させる魔術を手持ちから探す間もなく、暴走が止まった。
「はい、落ち着きなさい、深呼吸」
シンディアがゆっくりとフィユに近づいて肩に触れる。怯えたように痙攣したフィユを押さえつけて、何か魔術でフィユに干渉した。
途端にフィユの魔力が落ち着く。何をしたのか。魔術式はシンディアの背中に隠れて断片的にしか見えない。
「魔力を同調させて、強制的に落ち着かせているだけだ」
表情から察してくれたのか、チャイムが不機嫌そうに僕の疑問に答えた。
何もしていないようで、フィユの暴走の第一波を逆波形の魔力で消滅させたのはチャイムだった。判断も、魔力操作も早すぎる。
「同調というのは、魔力波長を、ですか?」
「すでに一般化された技術だ。式の同調と大差ない。そちらはお前もできるのだろう?」
「一応は。あんなに瞬時にはできないですけど」
王国式の複合魔術として、カワチャに習った技術だった。
感覚的にやっているので理屈はよく分からない。関連する論文を読んではみたが知識が足りなさ過ぎてあまり分からなかった。
今は、それよりも。
「大丈夫だよ、落ち着いて。息をゆっくり吐いて、そう、次はゆっくり吸って、ゆっくりね」
視線の先ではシンディアがあやすようにフィユに語り掛けていた。
フィユはしゃがみこんで、震える吐息でその指示に従っていた。
「あれも大変だな」
チャイムが無精ひげをなでながら呟く。
何かが事情を知っている顔だ。その顔に尋ねる。
「男が嫌いというのは知っていましたけど、どうして急に」
「その原因が客として来たから、だろうな」
つまらなそうにチャイムがそう返した。
どういうことか問う前にチャイムが僕に告げる。
「あれが落ち着いたら、勤め舎に連れていけ。受付に言えば分かるようにしておく」
質問を許さない早さでチャイムは背中を向けて部屋を出ていった。フィユに気をつかったのか、他に用事があったのか。
チャイムが閉めた扉の音を最後に、しばらくの間フィユの呼吸の音だけが部屋の音の住人だった。
* *
王族。
初代国王であるニアマーズから脈々と受け継がれ続ける系譜。
大陸の八割以上を支配する王国の宗主の一族。
現国王のネアルモートに、その地位を継ぎうる子息である第一から第三王子。伴侶が王となる資格を持つ王女は二人。現王の兄弟姉妹はネアルモートが現在の地位に就いた瞬間に公爵家に格が落ちているので、彼と彼の五人の子供が公的な王族ということになる。
国王ではなく王族と呼ぶなら、今日フィユに会いに来た客というのは五人の子供の方だ。
研究室のある諭し舎から勤め舎に向かって進みながら、隣を歩くフィユの様子をそっと窺う。
顔色ははっきり言って悪い。歩いているだけなのに呼吸も少し荒かった。
会わせるべきではないと思うが相手は王族で断ることも出来ないだろう。
「大丈夫です」
見られていることに気づいていたのかフィユがそう呟いた。
「大丈夫です、大丈夫ですから」
「三回も繰り返すと意味がひっくり返りそうだね」
明らかに大丈夫ではなかった。
一体何があったというのだろうか。
去年ならば僕の位置にミーティクル・ウィン・キャンディナがいてくれた。貴族であり、同性であり、僕なんかよりもよほど頼りになったはずだ。
男嫌いなフィユから例外的に接せられているとはいえ、それだけだ。あまり力になれることもない。
無骨な直方体の外観の勤め舎に入り受付まで歩く。赤の学生がちらほらとうろついていた。講義の資料や求職の案内など、見るべきものは多い。
赤の学生から離れるように、受付に向かう。履修受付ではなく、対外的なものの方だ。入学願書を提出しに来た時と、入学の手続きをした時くらいにしか利用したことがなかった。
フィユ・ウィン・シュバイツェルの名前を出すと受付の女性は一瞬だけ表情を強張らせてから、事務的な声で告げる。
「三階の応接室で、サイファール様がお待ちです」
サイファールか、と僕は思った。
王族の末弟。僕と同じ年に生まれたらしい、若い王子だ。
「さ、いふぁーる?」
隣でフィユが繰り返す。人名を呼ぶというよりも、子供が知らない言葉を反復しているような口調だった。
フィユが震えながら息を吐き出して、しゃがみこんだ。
「ちょっと、え、大丈夫?」
「大丈夫です。その、安心して、良かったあ、そうか、サイファール様ですか」
もう一度息をゆっくりと吐き出しながらフィユは立ち上がる。
それからすこしだけ血色を取り戻した顔で受付の女性に尋ねた。
「あの、すみません、どこでお待ちになられてます?」
「三階です。三階に上がって、右手の応接室です。あ、あと、それと言伝を預かっております。もし一人が不安ならば気にせずに誰か職員を同伴させてもよい、とのことですが」
その言葉にフィユが考えこむ。
一瞬、ためらうように視線がこちらに動いたのを見て苦笑する。
「僕でよければ付いていこうか? それか、シンディアさんを呼んでくる?」
「あの、カスタットさん、お願いできますか? お返しは必ずしますので」
「構わないよ。噂の第三王子様なら、不敬か何かで死罪になることもないだろうしね」
逆に言えば、サイファールや、第二王女のクロリアのように穏健な性格だと噂される王族以外にはできるだけ会いたくはない。何が致命的な無礼になるか分からないからだ。
受付に礼を告げてから応接室に向かうフィユについていく。
多少マシになったとはいえ、流石にフィユは緊張した様子だった。落ち着かせる言葉が出ないのは、僕自身も同様に緊張しているからだ。
青の三角は八割近くが貴族とはいえ、この敷地内に身分による待遇に差はない。シエトノにいた頃に交流の合った貴族は一人いるが、それも向こうの厚意で無礼を許してもらっていた立場だった。
青の三角での面接試験のために練習した礼儀作法を脳内で復習する。その内にすぐに階段を三階まで上ってしまった。
心の準備ができていないが、応接室らしき部屋の前に立った護衛の軍人がこちらに気づく。
「フィユ・ウィン・シュバイツェル様でございますね」
その言葉の前に一瞬だけ間があったのは、フィユに見とれたからだろう。即座に職務に専念する姿勢を見せたのは流石だ。
「ええ、そうです」
「中でサイファール様がお待ちしております」
そう言って軍人は扉に手をかけ、その直前に僕を訝しむように眺めた。
冒険者だった気配を感じたのだろうか。すぐに警戒の色が消える。実力を見透かされたのだろう。
軍人の方は王族の護衛を務めるだけあって一流だ。冒険者で言えば一等階級くらいの雰囲気がある。前衛の実力など僕には測れないが、遥かに格上だということは分かる。探れもしない力量は、カリヴァよりもはるかに怖い。
扉が開けられて中に通される。
室内にいたのは三人。だが、目についたのはひとりだった。
鮮やかな赤色の髪の毛を固めて後ろにまとめ、涼しげに整った顔をさらけ出した男。見ただけで高価と分かる衣服が、当たり前のように似合う。
僕は見た瞬間立ち止まってしまったが、フィユは止まらずに歩む。
「お久しぶりでございます、王子殿下」
正式なお辞儀をするフィユにならって慌てて僕も頭を下げる。
「うん、久し振りだね、フィユさん。どうぞ座って。お付の方もどうぞ」
サイファールと対面するソファに緊張しながら座る。礼儀作法が分からなかったのでフィユの動作を真似たところ、サイファールが薄く笑った。
「君、無理をしなくていいよ、それは女性の作法だ。儀礼的な作法なんて、覚えなくていい立場の人なら、そんなもの無視して構わないよ」
「それは、お恥ずかしいことを。失礼しました」
「いいさ、けど」
サイファールが僕を眺める。
それだけですでに平静でいられない。王族ということを知らなくても、何か人の心を乱す迫力があった。
「困ったな。職員を同伴させてもいいとは言ったけど、学生か。話をしてもいいものか。ユギナ、どう思う?」
サイファールが隣に座っていた女性に話しかけた。
高い魔力を感じさせるユギナと呼ばれた女性は、一見すると成人したばかりのような若い女性に見えた。とても若い顔立ちだが、おそらく三十代の後半だろう。首のシワや手を見れば分かる。
ユギナ、という名前には引っかかるものがあった。どこかで聞いたことがあったはずだ。
「学生とはいえ、すでに七選に選抜されているのでしたら問題はないかと。橙の学年ですでに知ることのできる情報です」
「ユギナがそう言うならいいか」
納得して頷いたサイファールが、フィユの方に顔を向ける。
「実は、今日来たのはフィユさんのある資質を確かめるためなんだ」
「資質、ですか?」
「そう」
サイファールが頷いて微笑む。柔らかく細められた瞳が、一瞬だけ冷たい色を持つ。
「魔女の、だ」
その言葉は、ぞっとするほど冷たかった。