17 そして、病室
「お前は馬鹿だなあ」
赤毛の同室は、開口一番にそう言った。
手には僕が食べたことのない果物を持っていて、それを持って帰られてもたまらないので、悪口に耐えて、動く左肩だけをすくめてみせる。
砕けた右肩がその動きにもわずかに痛んだ。
「馬鹿かな」
「馬鹿だろ。貴重な講義を休んでまあ」
ジャールの呆れた表情に、僕は笑うしかない。その通りだからだ。
本当なら医者の言うことを聞かずに病室を抜け出したかったが、医者が止めるのも妥当だと思える程度には体が重かった。
窓から見える空はすでに夕方。リヴァージュの東に位置するこの病院からは、青の三角の塔が夕陽を背にして影絵のように見えた。
ジャールは自分の講義を終えてからお見舞いに来てくれたのだろう。
果物の盛られた籠をテーブルに置いて、ジャールは見舞い客用の椅子に座った。僕も体を起こして、枕をクッションにもたれかかる。
「ひとまず、ミーティクル・ウィン・キャンディナの周りは落ち着くだろう」
端的にジャールが言った。真剣な瞳だ。
「理由は?」
「エルノイさ。朝食の時に、アレがそういう姑息な真似をする人は好かないと宣言した。間違いなくこれからの王国の中核を担う人間がそんなことを言えば、その機嫌を取りたい連中は動けないさ。まあ、それもしばらくのことだろうが」
「しばらくかな」
「しばらくさ。結局は、誰が泥を被るかの話がつけば、またすぐに襲撃は再開する。エルノイも明確に命令を出したわけじゃないし、出すつもりもないだろ」
「結局、みんな彼女の手の上ってことか」
「まったく、寒気がする状況だ。あれと同期で良かったのか悪かったのか」
「受け止める方によるんじゃない?」
果物の入った籠の方を見ると、隣に嫌味っぽく果物ナイフが置かれていた。
右肩が壊れている以上、上手く使えるわけもない。
「まあ、戦果としては充分じゃないか? キャンディナ家の娘は無事だったようだし」
「ルルティアさんと、シュヴァイツェルさんは?」
「あの二人も特に怪我はないようだったな。ま、ひとり骨を折って損をしたわけか」
それを聞いて安心した。特にルルティアは無関係なのにわざわざ手助けをしてくれたのだから、無事でいて欲しかった。
ジャールはそれからいくつか入院に関する青の三角の規則を教えてくれた。わざわざ調べてくれたようだ。
いいやつと同室になったものだ。もちろん、果物込みで。
「まあ、そんなわけで、数日くらいなら取り立てて問題も無さそうだ。必修だけ、治ったら担当教員のとこ行くことな」
「全部自己責任って感じだね。僕は聞いたことしかないけど、学校ってやつとはずいぶん違うんだねえ」
「研究機関ってことなんだろうな。教育を受ける権利はあるが、義務ではないというか。つくづく、お前も馬鹿なことをしたな」
「そうかもね」
ジャールは皮肉げに笑って、あっさりと去っていった。
果物の皮ぐらい剥いていって欲しかったが、それを頼む隙も無かった。
一人になると、色々と考えこんでしまう。
怪我は出歩けるようになるまで数日、完治なら数ヶ月かかるという。青の三角の講義は数日分無駄にして、さらに砕けた肩や、他の細かい傷が治るまでは生活の効率は悪くなる。
二一五人の赤の学年から、来年も変わらずに塔に居続け塔の学年になることができるのはわずか七人。エルノイという規格外がいて、フェルターという天才もいる。
狭すぎる枠に選ばれるなら、寄り道をしている余裕は無いはずだ。
昨日のことを後悔はしていない。そんなことくらい、昨夜の時点で考慮していた。
しかし、不安になっているのも事実だ。
ノックの音。
どうぞ、と声をかけるとゆっくりと扉が開く。
その先には見慣れた顔が三つ。
フィユと、ルルティア、それにキャンディナだ。
キャンディナはいくつか傷跡があるが、残りの二人は無傷のようで安心した。
最初に口を開いたのはルルティアだった。微笑みながら、丁寧な口調で上品に話す。
「良かった、とは言えないですけど、命があって良かったです」
「言ってますね」
「とりあえず、一緒に受けている講義についてまとめておきました」
ルルティアが渡してきたのは、数枚の紙だった。一見するだけでも分かりやすくまとめてあるのが見て取れる。
ありがたい限りだ。
「これは助かります。ありがとう、わざわざ」
「いえ、大した手間ではないです。どちらにせよ、一度まとめていますから」
ルルティアはそれからじっと僕の体を観察した。
簡素な上着は羽織っているけれど、肩を固定する包帯や添え木は隠せない。見ていて気分のいいものではないだろう。
何か言う前に、こちらから切り出す。
「ま、肩以外は大した怪我じゃないです。肩も、時間はかかるけど後遺症は多分出ないです」
「もう少し反応が早ければ転移魔術の式を砕けましたが、力が及びませんでした」
昨夜のことだろう。
それができていたなら、僕とキャンディナだけで戦うということもなかった。二人を巻き込んだかもしれないと考えると、間に合わなくて良かったと思うべきか。
それにしても驚くべきはフェルターの腕だ。
「自分と、僕ら二人に同時に放ってあれだけの速度なんだから、凄い人ですね。そう言えば、知ってる風でしたけど」
昨夜、ルルティアはフェルターと顔見知りのような会話をしていた。
本来ならお前もこっちが側だとルルティアは言われていたことを思い出す。
「王都の同世代の貴族は大抵顔見知りですし、レオフカ家は、ビズリアス家と同じ派閥に属していますからね。ある程度は」
何でもないようにルルティアが言ったが、少し心配したくなる内容だ。要するに、彼女は派閥に反する行動を選択したわけだ。
僕の表情を見て、ルルティアが意味ありげに微笑む。そのことへの言及は無用ということだろう。この場にはフィユもキャンディナもいる。彼女達に余計な罪悪感を抱かせることもない。
それからしばらく三人と、とりとめのない話をした。
妙にぎこちないのは互いに気を遣いあっているからか。特にキャンディナは、自分の態度を決めかねているのか落ち着かない様子だった。
助けられたことは事実でも、それは彼女の本意ではなかったはず。複雑な心境だろう。
窓の外に視線を向けているキャンディナを見ていると、その隣でルルティアがからかうように微笑んで僕を見ていることに気づいた。
「カスタットさん、それでは今日は帰りますね。またいずれ」
ルルティアはさらりとそう告げて、フィユの手を取るとそのまま部屋を出て行った。
不意の早技を受けて、残されたキャンディナが表情を固めた。
驚いた様子ではないのは、前もってこうなることを知らされていたのだろう。
しかし覚悟はできていなかったようで、僕とキャンディナは無言で見つめ合うことになった。涼しい表情のようで、瞳がかすかに泳いでいるのはうろたえているのか。
まったく、強がりな人格だ。
「とりあえず座れば?」
ジャールの座っていた椅子を示すとキャンディナはそれを数秒睨んでから座った。
再び無言で部屋が埋まる前に、思いついたことを口にする。
「キャンディナさんは、家のことは好き?」
「どうしてです?」
思いの他に問い返しは早く、少し面くらった。
どうして聞いたのか。その理由を正直に答えることは何となくためらわれる。
答えられない僕にキャンディナさんは別の質問を口にした。
「カスタットさんのお父様はどんな方ですか?」
「父さん?」
頷くキャンディナの表情は読めない。
父さんか。シエトノで暮らしていた頃を思い出す。
「どんな方って、そうだなあ、街の刻文士をやってたよ。父さんと二人暮らしだったけど、食べるのに苦労しない程度には稼げてるみたいだった」
魔界化した遺跡の多いシエトノは必然的に冒険者が多く、冒険者が多いということは魔術符や加護の需要が多く刻文士の仕事が多い。
僕もよく手伝いをしていた。冒険者にならなくても、父の後を継いで食べていくことができただろう。
「学者気取りでね、いつも色々なことを調べたりしていた。聞けば何でも答えてくれるか、答えを出すまで考えてくれてね、変わり者扱いされてたけど、僕は好きだったよ」
「あの、もしかして……」
「うん、もう死んでるよ。強盗に遭ってね。シエトノって治安が悪いから、よくあることなんだ」
一年の間に、知り合いが一人も殺されない年はなかったほどだ。
「キャンディナさんのお父さんはどんな人なの?」
話題を変えるための言葉を、言った瞬間後悔した。
彼女の父親は、横領をしたという当人のはずだ。
「愚かな人」
しかし、キャンディナは用意していたように父親をそう評した。
「倫理観が低くて、頭も悪くて、人を見る目もない。何故横領が発覚したのかも、何故自分が責められているのかも分からないような、そういう人。
でも、私には優しい人だった」
「だった?」
「え、あ、いや、生きています。青の三角へのお金を用意したのは父ですし。
愚かな人でしたけど、家族を大事にする人で、ですから嫌いにはなれません。だから、私は家を再興させます」
キャンディナは強い瞳でそう言い切った。
とても綺麗で、しかし、だからこそ不安になる。彼女の進む道の困難さを思い知ったばかりだ。
「実は、話したいことがありまして二人には帰ってもらいました」
赤く染まる窓の外を眺めながらキャンディナが少し固い口調で言った。
ルルティアの態度から予想していたことだったから驚きはしなかったが、そのことを話すのは意外だ。
「愛の告白ならもう少し心の準備をしたいな」
「そう言えばあなたの頭を引っ叩くという話がありましたね」
「無事に済んだとは言えないから、勘弁してよ」
茶化してみると、キャンディナは盛大にため息を吐いた。
ある程度は心を許してくれた証拠だろう、というのは少し楽観的か。
「本心を言えば」 キャンディナが噛みしめるように言う。「腹立たしいです。あなたの助けが無ければ私は無事に済みませんでしたけれど、それでも私はそれを望んでいませんでした。私のせいであなたが傷ついたことは、とても不快です。私に関わって欲しくないという思いは変わりません」
キャンディナの瞳が僕を見ていた。綺麗な青紫色は、今よりもう少し夜が近づいた時の空の色に似ている。
その夜空が揺れていた。迷いを示すように唇がかすかに上下する。続く声に力は無く、彼女が華奢な少女であることを思い出させた。
「けれど、嬉しかった気持ちもあるんです。どちらが私の本当の気持ちか分からなくて、あなたにお礼を言うべきなのか、文句を言うべきなのかも分からなくて……そのことをルルティアさんに話したら、一度、その、ちゃんと話してみたらどうかと言われまして」
「ちゃんと?」
「その……素直に、だそうです」
キャンディナは恥ずかしそうに言った。
「お礼を言いたいですし、文句も言いたいです。自分が何を思っているのか分かりません。自分のことなのに分からないなんて、変な風に聞こえるかもしれませんけれど……」
「普通のことだと僕は思うけどなあ」
ひとつの物事に色々な考え方はできるものだ。ひとつひとつの感情に強弱はあっても、どれが本物でどれが偽物かということもないだろう。
人の厚意というものに対しても、それを嬉しいと思うのもそれを申し訳なく思うのも当然のことだ。
そう考えると、キャンディナの状態の原因が改めて推測されてしまう。つまり、彼女は今まで人の厚意というものに触れてくることが無かったのだろうというものだ。
それはあまり気分のいいことではない。
「まあ、僕としては、文句を言われたくはないね。胸に秘めといてもらえるとありがたいというか」
「死ぬ可能性だってありました。私が、私の境遇故に死ぬなら仕方ありませんが、無関係なあなたが死にかねなかったことを、喜んで良いわけがありません」
「そう言われると、それも理屈だけど」
無理に喜べと言うこともできない。
人の厚意は素直に受け取れ、というのは傲慢な意見だろう。
「分からないんです、どうすればいいのか。……どういう態度をとればいいのか、どうやってあなたに報いればいいのか」
「んー」 思わず唸ってしまう。「まあ、具体的にどうしろ、とは言えないけどさ。理屈で考えすぎてるんじゃないかな」
キャンディナはわずかに首を傾けると、理解できないという表情で僕を見た。
「自分が取りたい態度をとればいいんじゃない?」
「それが分からないから困っているんです」
「そう? 僕には、キャンディナさんは何か正解みたいなものを探しているように見えるけど」
無いものを探しても見つかるはずはない。
キャンディナは黙りこんで何かを考えている。
「それとね、どうやって報いればいいかだけどさ」
少し明るい声を作って僕がそう言うと、キャンディナさんが視線を僕に向けた。
微笑んでみせて、左手の指をサイドテーブルに向ける。
置かれているのは、ジャールが持ってきた果物だ。
「皮を剥いてくれない?」
キャンディナは一瞬呆けたような表情を浮かべてから、それから少し呆れたようにその表情を緩めた。
果物の味は驚くほどに甘く、香り高く、ジャールの財力を感じさせるもので。
貴族の人間とは思えないほど、キャンディナの手際は良かった。
* *
暗い森にいた。
僕は、ずっとそこを歩いていた。
上を見上げても、木々の枝葉が天蓋となって空は見えない。しかし、周囲は薄暗いとはいえ歩くことくらいはできた。
靴は無く、裸足。地面は苔や草、枯れ葉や枝で覆われていて歩きにくい。
歩いて、歩いて、やがて岩山に辿り着いた。森が途切れて、曇った空が見えた。
岩山はずうっと高くまで続いているようだが、崖と呼べるような岩壁は登れそうにない。
焦っている。
こんなところで迷っている場合ではないのだ。
どこに行くべきかは分からないが、ここでないことだけは分かる。
「ねえ、どうしてそんなに焦ってるんですかあ?」
声に振り向けば、そこにエルノイが立っていた。
僕とほとんど同じ背丈、同じ黒い髪。
大きく違うのは性別と、魔術の才能だ。
「焦ってどんないいことがあるんですかあ? 思考は乱れて、感覚は鈍り、あらゆる機能は精度を落とすものじゃないですか」
涼しい顔だった。
嫌味や皮肉でなく、変わったことをしてるなあ、と不思議がっているような表情。
「焦りたくなくて焦ってるわけじゃないよ」
「いいえ、違いますよぉ」 エルノイが微笑んだ。「自分の感情ですよ? それは、全て自分が望んでいるものです」
微笑んだままのエルノイの表情に、薄ら寒いものを感じる。
圧倒される。
「焦る理由は、上手くいかない自分を想像するからですよ。その想像は、いっそ失敗して楽になりたいという欲望から来ています。
目標があって、そこまでの手順が決まっているなら、それを進める以外に感情はいりません。焦るなら焦りたいということ。妬むなら妬みたいということ」
厳しい言葉だった。
確かに自分は焦っている。
「悲痛に見えるなら、悲痛になりたい。悲痛になることで生じる利益を求めている、ということですよお」
「それは……キャンディナさんのこと?」
エルノイは答えない。
静かに微笑んだまま。
うっすらと纏う魔力は、おだやかに循環している。
その魔力量は大したものではないが、威圧する何かがある。それは、津波が来る前の海に似ていた。
その気になれば街くらい簡単に壊せる質量。
怖い。
冒険者として生きていて、一人で魔界に取り残されたことも、刃を喉元に突きつけられたこともある。けれど、それとは異質な怖さだ。
神様か、悪魔と対峙したならこんな感じだろうか。
いや、馬鹿馬鹿しい。
これは夢だ。気づいた。
自分は病院のベッドで眠っている。
では、この威圧感も夢?
違う。
いる。
息を吸い込みながら、目を覚ました。
開いた窓からは月明かりが差し込んで、病室を照らす。うっすらと天井の板が見えた。
そして、窓枠に腰掛けて本を読んでいたエルノイが、その瞳を僕に向ける。
「こんばんは、一日ぶりですね」
愛嬌のある声が、僕の背筋をぞっとさせた。